19.たとえば世界が敵に回っても
早朝に、雨が降っていたらしい。
いつもより早く目が冴えたマルティエナは、いつもより早く学院に向かうことにして、人気のない女学院の門を潜り、静寂に包まれた薔薇の庭園に来ていた。
葉脈に沿って溜まった水分が滴となって、葉先から零れ落ちる。その振動で葉っぱが跳ね上がった。
するすると重力のままに流れ落ちる水滴を見て、クレイグを思い返していた。
水のよう、と感じたのはいつの日だったか。
涼しげなアイスブルーの瞳も、研ぎ澄まされた銀の色合いも、透けてみえる色素の薄い真っ直ぐな髪も。
見た目の要素も大きいけれど、彼の柔らかな温度が重なるからこそひんやりと涼しく染み入った。
なくてはならない存在になっていた。
「マルティエナさん、ご機嫌よう。今日は早いですね」
「先生、ご機嫌よう。今日は早く目が覚めましたので。早朝の庭園はいつもと違く見えますね」
「ええ。私も学生がいない今の時間帯によく来ているのですよ」
ふわりと緩やかな風が吹いて、雨で湿った薔薇の芳香が舞い上がる。
火の季節に雨が降ることは稀だ。
身を冷やす冴えた風は時折吹くが、優しく舞い上がる風もまた珍しい。
季節の移り変わりが近づいてきている。それを色濃く感じる日になりそうだった。
「マルティエナさんにお会いできて良かったわ。少しだけ時間をいただける? 私どもから貴女に提案があるの」
二十年以上教職に就いていると聞いたのに年齢を感じさせない淑やかな教師の一言に、マルティエナは快く頷いた。
◇◇◇
「帰る時間が遅くなる? 何かあったの……あ〜、頼まれごと?」
迎えの馬車に乗り込むなり、マルティエナは真っ先に重要な話を口にした。
朝から夕方までびっしりと講義を受けていたことを知っているクレイグは、更に帰りが遅くなる要因に腕を組んで考え、それから早々と納得してしまう。
マルティエナは唇の弧を深めることで頷いた。
「はい。ダンスが苦手なご令嬢がいましたので練習相手になったことがあるのですが、好評でして。それから何人かの相手役をしているうちに先生の御耳にも入ったようです」
いくら練習しても音の取り方が分からないと溢していた。広がるスカートに隠れてしまう足がパートナーの靴を踏んでしまうと申し訳なく話していた。
流れる音色に耳を傾けて至福に目を閉じるのに、舞踏になると面持ちが暗くなるその令嬢が気掛かりで、マルティエナは声をかけた。
時々空く講義の合間時間にテンポを刻みながら二人で踊り、時にはピアノ演奏が得意な令嬢にも協力してもらって。
今では「ご一緒したい」と他の令嬢からも相談されるようになっていた。
「この時期になると、すべての講義終わりにダンスレッスンがあると聞きました。女学院は男子禁制ですから、男役の人手不足で、私に声がかかったようです」
「舞踏の講義は多めなんじゃなかったっけ? それでも足りないんだ?」
「卒業祝いを兼ねたパーティーが迫っていますから。――兄と行かれたことがあると聞きました」
「あ〜あれね、ああ……うん、そうそう。偶々招待状が回ってきたからさ」
言葉を濁すクレイグの視線が窓の外へと泳いでいく。
マティアスは妹に何処まで話したのか、と困惑していそうだ。
「兄から仮面の会場には注意するよう言われました。女学院でそのような場を設けていることに驚きましたが、実際入学してみると、理由があると知れましたよ」
単に注意を受けただけ、と前置きしてから聞き知った話の導入をつくる。クレイグは安堵したのか好奇心を強めた。
「へえ、俺もずっと気になってたんだよね! けどさ、仮面つけてる時の話を持ち出すのはご法度じゃん? 知ってる子いたけど後から聞けなくてさ〜」
仮面の奥の素顔を知っていても、仮面をつけていれば知らない人だ。
当時彼が親密そうに会話をしていた女性は、彼の話す『知ってる子』だったのだろうか。
(あの時の私は、何を思ってあんなに怒ったのかな)
女性に対しての軽率な態度に幻滅した。けれど、自分でも気づけない深層は今と似た思いがあったのだろうか。
「望まない婚約が決まっているご令嬢方の希望で始まって、今も受け継がれているそうです。昔よりは減ったとお聞きしますが、それでも政略の駒として祝福できない婚姻に至る方がいますよね。そういった方々は卒業と同時に籍を入れますから」
一回りも二回りも年の離れた、場合によっては父親よりも年上の男性に嫁いだり、爵位の高い貴族の後妻になったり。
年が近くたって相容れない相手はいる。幼い頃からの婚約者で異性より兄弟の感覚が拭えないといった、感情がどうしても恋愛に切り替わらない場合もある。
それでも、親の決めた婚姻は貴族として生き続けたいのなら絶対だ。
「最初で最後の、夢を見る場所なのだそうです」
望まない結婚を控えた者の、一時の夢のような逃避行。
それが分かっているからこそ、少しハメを外す程度なら黙認しているそうだ。
「回を重ねるごとに単純な興味本位で足を運ばれる方も増えたそうですが……クレイグ様が仰るように、仮面の間には特有のマナーがございますから」
マルティエナがクレイグと参加した時は、数名の使用人以外は女学生と招待客と思しき男性しかいないと思ったが、時々女学院の教師が巡回しているらしい。使用人にも行き過ぎた行為は仲裁するようにと指示が出されていて、あっても過度なスキンシップとキス止まりなのだとか。
(私はあの子に悪いことをしてしまったのかも……)
社交界の表舞台で会えたら嬉しいと話した女の子は、仮面に隠された素顔も名前も知らない。
兄として参加した社交界は規模の大きな夜会や舞踏会なので、同じ会場にいた可能性は高いが、その分探し出すのも難しい。
もし彼女も一時の夢を求めてあの場にいたのなら。
彼女を楽しませてあげられなかった自分こそ不義理だったと反省する。
「あ~それなら。俺とマティアスが合った女の子たちは後者っぽいなぁ。婚約発表の知らせ見かけたの最近だし。男の方も……条件的には対等だろうから」
「そう、でしたか」
呟きのような会話の延長にマルティエナはクレイグを見入る。
まるで、心を見透かされたようなタイミングだ。
「あっ違う。違うよ。俺、その子たちとは個人的な連絡取り合ってないからね? 偶々名前を知ってる子だっただけでさ」
そんなマルティエナに気づいたクレイグは、慌てて手を振って否定した。
呟きのよう、とは思ったが、彼の反応から察するに声にするつもりのなかった独り言だったらしい。
兄に成りすましていたことに気づかれているのかと疑ったが、杞憂だったようだ。
彼になら知られてもいい。
そう思っていたけれど、心なしか安堵して、彼の慌てように少しだけ笑う。
「どうされたのですか。言い訳みたいですよ」
「ええ! 言い訳だし本当の話。――マルティエナちゃんが好きって言っておいて、他の子とも仲良くしてるって思われたくないからさ。まあアレッタ嬢とか学院で知り合ったご令嬢方とは時々連絡とってるけど、そっちは色んな情報交換だからさ」
彼の注ぎ足す一言一言が、嫉妬と呼べる暗い感情を甘くする。
いつだって、彼が隣に来るのを心の何処かで待っていた。
彼の姿が見えない一年間が寂しかった。毎日、郵便が届く朝を期待しているのに、音沙汰がない可能性を恐れてもいた。
今でもずっと、心待ちにしている自分がいる。
兄としてではなく『マルティエナ・オーレン』としての心が彼を向いている。
それが友人への情ではないのだと、節々で渦巻くしこりから気づかされた。
(私が、クレイグの一番になりたい――)
アレッタに恋と呼べただろう情を抱いた。『マティアス・オーレン』として彼女を好いていた。
アスタシオンに夢のような恋をした。憧れていた恋だった。『兄に成り代わったマルティエナ・オーレン』の叶わない夢物語だった。
好きという言葉は同じでも、どれも違う。
恋の在り方はひとつではないと、アレッタが教えてくれたから。
マルティエナは山積みになって胸を占める情に名前を付けられる。
「――私、クレイグ様にお伝えしなければならないことがあって」
名付けた途端に膨れ上がりそうになる感情を、息を深く吸うことで押し留めたマルティエナは口を開く。
「私は」
自覚した感情をそのまま言葉にしたら、彼は目に見えて喜ぶ。ありありと想像できる。
(それでも、騙してる事実は変わらないから)
素直に気持ちを伝えたら、今の関係にも新たな名を付けられる。それが分かっていてもマルティエナには選べない。
兄に成り代わっていたことを気づかれていないと安堵したのに、伝えなければならないと思ってしまう。
伝えることで、彼の心が変わるのが怖い。
近すぎる距離が離れてしまうのが怖くて堪らない。
震えそうになる唇から息を吸って、吐き出そうとした。
「いいよ、マルティエナちゃん」
クレイグがへにゃりと笑う。
冷たくて心地よい水流が、馬車の中を流れていくのを感じた。漠然とした恐れが緩やかに流れる水に洗い流されていく心地良さ。
「仮に後ろめたいことがあっても、俺に負い目は感じなくていいし。なんなら、そのままでいいよ。ちょっと謎めいてるところも魅力的じゃん?」
彼への罪悪感を見透かされている。その上で、容認してくれている。
彼のペースに流されてはいけない、とマルティエナは口をキツく結んだ。
「――ちょっと、の範囲に収まらないんです」
クレイグだって「ちょっと」なんて言葉が不似合いだと気付いている。それくらいにマルティエナの声は強張って固くなっていたのだから。
それなのに過小な言葉で丸ごと包んでしまう彼に、マルティエナは首を振る。
「多分、俺にとってはちょっとで間違いないよ」
クレイグは、またも気の抜けた微笑を浮かべた。緩み切った彼が発する声は何処までも真剣だった。
「マルティエナちゃんの秘密がさ。例えば国を敵に回すことになっても、なんて陳腐かな?」
彼のたとえ話は、マルティエナにとって日々見え隠れしてきた不安で。
「それでも俺は隣にいるよ。その時は有難く思って、俺と二人で旅でもしよっか? あ~、でもカーチェちゃんが怒りそうだから三人旅だなぁ」
最悪の事態ばかり考えていたひとつの可能性に、クレイグは明るい旅を思い描く。
貴族の生まれだからこそ領地や国に縛られる。爵位を継がなくとも家門を守る手足になり、時には国防の一員になる。何不自由なく育てられたからこその貴族の責務だ。自由気ままな旅なんてできる時間はない。
(国を追われたら有難く……なんて、考えたこともなかったよ)
現実に起これば、人目を忍ぶ過酷な旅になるだろう。クレメン教会の者はどの町にも居る。包囲網を掻い潜るのは困難だ。
それができてしまっているから、闇属性の魔法士集団は危険視されている。
それでも彼がいてくれるのなら――
「良い案だと思わない?」と続けたクレイグに、マルティエナも「それはそれで楽しそうですね」と答えるのだった。




