18.明確な戸惑い
時計の長針がカチリと子気味良く鳴り、鐘の音が響く。
教師の一声で礼をしたマルティエナは続け様に名を呼ばれた。
席に座り直して教本を整理する者や講堂を去っていく者とすれ違いながら、教師の元に向かう。
講義後の呼び出しは大抵三パターンだ。講義中にあえて言わなかった指導か個人課題、そして科目評価。
「マルティエナさん。貴女の評価を決めましたので、お渡ししますね」
厚みのある一枚のカードを受け取ると、二つ折りのそれをその場で開く。最高評価の文字と総評の一文にさっと目を通すと、再び折り畳んだ。
「寛大な評価に感謝いたします」
「他の先生方も仰っていましたが、長いこと病に臥していたと思えないほど教養が備わっていますね。初めは在学期間で履修できるか心配していましたが、貴女なら残りの科目も問題ないでしょう」
「そう仰っていただけるのなら家族のおかげです。私の為に各地の書物を取り寄せてくれていましたので」
事前に決めていた設定をマルティエナは口にする。
兄ではなくなっても自分の設定があるのは変わりないが、肩は軽かった。
人の人生に大きな影響を与えない些細な嘘。自分を少しだけ良く見せる見栄のようなもの。
それに実際マルティエナが買い集めた書籍が伯爵邸の空き部屋だった一室を埋めつつある。兄として過ごす最中で興味本位で揃えたものを家族の親切にしているので、良い嘘ではないか。
「先生にはこうして評価をいただけましたが、これからも後席で聴講させていただいてもよろしいですか? 教本には書かれていない先生のお話が興味深くて」
「ええ、構いませんよ。貴女の影響もあって皆さん以前より熱心に聴講してくださいますからね。いつでもいらしてください」
ヒールの甲高い音を響かせて講堂を後にする教師に続いて、マルティエナは次の講義へと向かう。
女学院での生活は躓くことなく概ね良好である。
◇◇◇
講義が終わる夕暮れ時は、日に日に明るくなっていた。
季節の変わりが近づいている証拠だ。すっかり見慣れた石畳の道を親しくなった友人と歩く。
「それではお姉様、ご機嫌よう。明日またお会いできることを楽しみにしておりますわ」
「ご機嫌よう、オリビア様。風で飛んできた小枝が溜まってるから、足元には気をつけてね?」
アルカシア侯爵家の馬車よりも数台奥にオリビアの家紋の入った馬車があることを確認して、マルティエナは挨拶を返す。
粛々と礼をしてくれたオリビアは、馬車の側で待つクレイグへと視線を止め、会釈をしてから道沿いを歩いていく。
クレイグはそんな彼女を微笑ましそうに見送っていた。
「今日も迎えに来てくださり、感謝いたします。クレイグ様」
「お疲れさま、マルティエナちゃん」
毎日変わらない、いつも通りの挨拶だ。『マルティエナ・オーレン』に見せてくれる、緩みきった微笑み。
差し伸べられた手をとって乗り込むと、動き出した馬車がオリビアの乗り込んだハラディ伯爵家の馬車の横をゆっくりと通り過ぎていく。
それを感慨深く窓越しに眺めているクレイグをマルティエナは見ていた。
オリビアを眺める柔らかな眼差しの意味を、考えていた。
「お姉様――」
呟きの後に視線がかち合う。
「って呼ばれるようになったんだね〜」
瞬間、クレイグは自分のことのように嬉しそうにふやけた。
陽の光が当たらなくなって青みが潜んだ濁りない銀の瞳は澄み切った水のような清涼感がある。鋭く尖った印象を与えやすいその色がまろみを帯びるのが好きだ。
そんなことを改めて思い至る。
「入学は遅いですが、年長ですから気を遣ってくれているのでしょうね」
オリビアと、彼女が親しくしている友人に茶会に誘われたことがある。女学院の庭園でのちょっとしたティータイムだ。
お姉様とお呼びしてもよろしいでしょうか、と両手を胸の前で組んで祈るように問われたので、マルティエナは快く了承した。
一人が呼び始めると、私も私もと学生間で広がって、今では「お姉様」呼びが浸透しつつある。
初めは年長者を姉と呼ぶ慣習でもあるのだろうかと思ったが、そうでもないらしい。
「嬉しい?」
「とても。皆さん妹のように可愛く思いますよ」
「なら良かった。後押しした甲斐あったな」
「後押し?」
「ん? ああ……いやぁ口止めされたんだけどさ、ハラディ伯爵令嬢とそのご友人方から声掛けられたことあって。覚えてる?」
「はい。あの――珍しくクレイグ様がご令嬢方と会話されていたので」
あの日、と言おうとして思い止まる。
クレイグから想いを告げられた日。マルティエナは未だに言葉を返せていない。
「実は相談されてたんだよね。お姉様って呼んだら引かれないかってさ」
あの日も、似た表情を浮かべていた。
「お知り合いだったのですか?」
「いや? 勉強熱心なマルティエナちゃんに声かける勇気がなくて、その友人の俺の方が声かけやすかったらしいね。初対面だったんだけどな」
「そう、だったのですね」
吊り目がちの眦が下がった笑み。
「気を遣われてるっていうか、慕ってくれてるんだよ。お近づきになりたいって必死だったから、マルティエナちゃんは女学院でも愛されてるんだな〜って思うと俺も嬉しかったな」
だから、今の関係ではいけないと思ったのだ。
自分以外にも同じように微笑みかけると知ってしまったから。
(私のことを思ってくれてたんだ)
じわり、と胸の奥底が疼く。
クレイグが女好きだったことを知っている。彼の行き過ぎた行為に苦言を呈したこともある。
それからは改心したことも知っている。
その姿を隣で何年も見てきたのだ。
だから『マルティエナ・オーレン』への彼の態度は少し違うとすぐ気づいた。
エスコートは欠かさないが、口調は他より砕けているし、なにより気の抜けた表情をよくする。
自分にだけ見せてくれる表情が、そうではなかったと知ったから。
(それってつまり――)
蓋を開ければ見えてくる本心は友人という幅の広い言葉で隠していた別の何かなのかもしれない。
(あの日、私は嫉妬してたの?)
じわじわと染み込んでくる水にふやかされていくようで、心が落ち着かなくなったマルティエナは俯いた。
向き合って座るクレイグは途端に押し黙ったマルティエナを前に何も言わずにいた。
多分、頬が赤くなっていくのを見られてしまった。
だから落ち着く時間をくれたのではないか。
そう思うと、また胸の奥底が疼いた。




