16.近すぎて遠い、彼との関係
午前の講義を終えると、荷物を置きに主となる講堂に戻る。
すれ違う学生と挨拶を交わしながら開かれた扉の奥へと進むと、今日初めて顔を合わせる令嬢達が輪になって交えていた雑談を止めて「来られましたわ!」といった小さな歓声で沸き立った。
何か用があって待たれていたらしい。目が合ってから朝の挨拶を済ませると、小走りにかけ寄ってきた一人の令嬢がマルティエナを見上げた。
「あの、マルティエナ様! お食事のご予定はございます? もしよければ、ご一緒にいかがですか?」
マルティエナが無言のまま数回瞬きをすると「既に先約がありましたか」と悲しげに続く。
(……食事?)
マルティエナには意を決した様子に思えていた。
胸元で両手を合わせる彼女は明らかに緊張していたので、食事の誘いとは思わなかったのだ。
とはいえ挨拶程度の相手への誘いは、勇気がいる。断られる不安を感じているだろう。
「お誘いありがとう。ぜひ、ご一緒させてください」
小柄な彼女に目線を合わせたマルティエナは、組まれた両手を包み込んで微笑む。
女学院での生活は既に二月近く経過しているのに、個人的な誘いを受けたのは初めてだった。
それはマルティエナが多忙だった、の一言に尽きる。
女学院では試験といった概念がなく、日々の講義の中で気付かぬ間に評価が下される。
その評価に満足できれば以降は出席しなくとも良く、更なる高みを目指すなら受け続ける。
ヴァルトセレーノ王立魔法学院とは違い淑女教育に重点を置いているので、礼儀作法や舞踏、数学や歴史といった必修科目さえ評価されれば卒業が可能だが、貴族令嬢が通う女学院ならではの科目もあった。
本来ならば何方か一度限りの学院生活をこうして経験できているのだから、限られた時間を最大に活用したい。
そうして講義を詰め込んだ結果、合間の休憩時間は大抵が移動で潰れる。
学院で摂る昼食にしても食事マナーの講義の一環だったので、これまでは個人的な誘いを受ける以前の問題だったのである。
評価を告げられたのが二日前で、昨日はカフェテラスの一角で軽食を食べながら、窓から一望できる薔薇の庭園を眺めていた。
色褪せることなく咲き誇る薔薇園を火の季節でも維持するには工夫が必要だ。
単なる観賞だけでなく魔法学的な観点からも興味深く見渡していたのだが、そんな風に一人でいる姿を誰かが見て、気をつかってくれたのかもしれない。
講義中に学生間の交流があるため多くの令嬢と顔見知り程度にはなれているが、人脈づくりはここでも重要である。
令嬢間の交流に踏み込む一歩をくれたことに感謝して、マルティエナは彼女の手を取った。
◇◇◇
一日の講義を終えて、帰りの時間が被った令嬢と会話をしながら校門を抜ける。
そうして見慣れた人物を見つけると、珍しく彼の周りには女学院の学生が数人集まっていた。
何方が先に声をかけたのかは分からないが、互いに意気投合して会話を楽しんでいることが遠目からでもよく分かる。
クレイグが女性の輪の中にいる姿を目にするのも久しぶりだった。
(私は独占しすぎていたのかも……)
兄としても、マルティエナとしても、いつだって彼は隣にいる。
こうして毎日迎えに来てくれるし、まっすぐ邸に帰らずに寄り道することもしばしば。休日には『マティアス・オーレン』とクレイグの友人を引き合わせてくれる。
けれど、彼は婚約者の決まっていない年若い男性だ。
爵位の継げない三男だからと婚約者探しに焦っていないが、だからこそ自分にかかりきりでは彼の将来を狭めてしまう。
兄として彼と過ごした記憶があるせいで、友人との距離感を勘違いしてしまっていたのだ。
呼吸を重苦しくする閉塞感を感じて胸に手を当てる。
これはきっと、彼への罪悪感だ。
偽りの日々がかけがえのない思い出になる度に沈殿していった後悔だ。
「マルティエナちゃん? 今日は元気ないね。講義大変だった?」
視界の隅にかかる前髪が後方へと緩く引かれて、クレイグが映り込んだ。
どこか虚だった意識が、息を呑んだように巡り始める。
並んで歩いていた令嬢とも、そしてクレイグと親しげに会話をしていた令嬢達とも別れの挨拶をした記憶は頭の片隅に残っている。
その証拠に右手は胸の前で掲げているし、口角は上げて笑みをつくっていた。
――大丈夫。いつもと変わらずに微笑めているはず。
「ほんと頑張り屋さんだよね〜。今日も一日お疲れさま」
帰ろう、と言って馬車の扉へとクレイグが手をかける。
離れた手によって耳の横へと縫いとめられていた髪が流れ落ちた。
奥底が空虚だった。
兄として立っていたら、彼は暑苦しく抱きついてきたはずだから。肩に腕を回して、体重を掛けずにのしかかってきたはずだから。
距離感を履き違えた弊害だ。
充分に近いのに、遠く離れているような。
他人にならずに済んだことに満足すればいいものを、それが出来ずに欲が生まれる。
「今週末はご褒美に良いところに連れてってあげるよ。あっ、それとも疲れてるなら休みたい?」
向かい合って座る馬車の中で、クレイグはにこにこと目を細める。
瞬時に心待ちにしてしまう己を恥じて、マルティエナは笑んだ。
「大丈夫ですよ」
「うん? 大丈夫ってどっちのこと?」
「クレイグ様のおかげで友人も増えましたから、毎日私に付き合っていただかなくても、大丈夫です」
クレイグに向けた言葉は、自分への暗示のようだった。
繰り返すことで脆い心を固めていく。強がるための自己暗示。
「それって」
続く言葉が決められずに唖然としたクレイグを見ていられなくて、視線が手元に落ちる。
彼がひねり出して空けた時間を自分に費やしてくれていたことを知っている。
彼のため、ではなく自分の心を守るための拒絶だとも理解していた。
今ですら距離を感じている。
それなのに図り間違えた日々を日常にし続けていたら、いつか破綻する。
兄に対してクレイグがそうしたように、彼に恋人ができたら隣にはいられない。慣れるなら早い方がいいのだ。
「クレイグ様と恋仲なのかとよく聞かれます。親しい友人だと訂正はしていますが、友人の間柄にしては近すぎたようです。貴婦人方の間で噂になってしまうと貴方がお相手を探し辛くなるでしょうし、今の関係は良くないと思うのです」
「……マルティエナちゃんがそうしたいなら、俺は嫌がることできないけどさ。それって本心?」
視線を戻せなかった。
目を合わせてしまえば、違うことがバレてしまうから。
けれど、視線を合わせられない時点で答えは見えている。
「違うなら良いじゃん? 俺は気にしないし。というか、そういう噂なら大歓迎だけど?」
膝の上で重ねていた手を握りしめたマルティエナは弾かれたように顔を上げた。馬車の中でなければ、立ち上がっていたところだ。
「冗談で済ませないでください!」
「冗談? そんなつもりはないけどな〜。あのさ、マルティエナちゃん。今の関係が友人同士って言えないなら、俺の恋人になってよ。――それじゃ駄目?」
彼の笑みを崩さない唇は、綺麗な弧を描いている。
釣り目がちの眼差しはどこまでも優しく、緩んでいる。
右から左へと水が流れ去っていくように、彼の突拍子のない一言が過ぎ去った。
「え……?」
たった数十秒前に告げられた台詞を思い起こしながら、マルティエナは口ごもる。
「いえ、ですから……」
「俺は本気だよ。じゃないと、毎日会いになんてこないね」
また冗談を、と言わんとするマルティエナをクレイグが否定する。
「俺は面倒なことはしないってマティアスなら知ってると思うけど――聞いてなかった?」
道路沿いに植えられた街路樹が街明かりを遮るたびに、彼の瞳は鋭い銀に変わる。
慈しみしか滲み出ない、澄み切った銀の煌めき。
「友人に対しては違うでしょう。……クレイグ様は私にしてくれたように、お兄様の行動範囲を広げてくれたと聞いています。感謝をしていましたよ」
兄として過ごしていた時に勉学に勤しんでいたマルティエナをあちこち連れて行ってくれたのはクレイグだ。顔が広く声をかけやすい空気のあるクレイグやカストがいたから、マルティエナの交友関係も広かった。
学院での日々が楽しかった思い出でひしめいているのは、そんな環境を彼が整えてくれたから。
クレイグは面倒ごとを好まないわりに、細々とした気遣いをやってのける。そのうちの半分は利点を考えていても、残りは彼の素の面だろう。
「へえ? あいつ、俺に感謝してたんだ? 嬉しいなぁ」
綻んだクレイグに『マティアス・オーレン』の愚かさを思い返す。
日頃から感謝を伝えるようにしていたのに、肝心の彼には口にできていなかった。その穴を埋めるようにマルティエナは言葉を付け足す。
「私も同じです。感謝しているからこそ、幸せになってほしい。私よりも良い相手は大勢います」
「まあ、マルティエナちゃんの言いたいことは分かるよ。婚約者の条件を考えると、そりゃ他にもいる」
行き違いだったクレイグがようやく頷く。
自ら始めた会話の結論に、再び胸の閉塞感を覚えた。
視界を狭めるこの感覚が彼への罪悪感と後悔なら、今度は何に対してだろう。
「でもさ」
答えを知る前に息苦しさは消えてくれた。
彼の眼差しが変えてくれた。
「俺は地位や名声には興味ないんだよね。それよりも好きになった人といたい。だからマルティエナちゃんが俺の恋人になってくれたら幸せになれるね」
揺らぐことなく一心に向けられる彼の瞳が透き通った銀色の光をのせる。
「でも、いつから――」
冗談とは言えなくなっていた。
代わりに疑問が口をつく。
今の自分に可愛らしさも愛嬌も足りていないことは誰よりも知っているつもりだ。
兄として過ごしていたからこそ、よく知っている。
「積もり積もって、だよ」
彼の余韻が車輪の音を鳴らす馬車の中を埋め尽くす。
低いけど低すぎない、清涼感のある低音。冷えた水のような涼しさの中に、温もりが詰め込まれている。
「答えは急がないから考えてくれる?」
へらり、と気の抜けた笑みを浮かべたクレイグが声を紡ぐ。
馬車は止まっていた。
鳴り続けていた車輪の音がゆっくりとスピードを落として止んだことにも気づけずにいたマルティエナは、促されるままに首を縦に振った。




