5.見知らぬ兄の面影
「おかえりなさいませ、ご主人様!」
「ただいま、カーチェ」
ローブの留め具へと手をかけると、後ろに回ったカーチェが手慣れた手つきでローブを引き抜く。
胸元を彩る若草色のネクタイを緩めたところで、帰ってきたという実感が湧いた。
「お疲れと思いましたので、ジャスミン茶をご用意いたしましたよ」
「ありがとう。……エルジオはいないんだね」
「ええ。忙しく動き回ってましたけれど、もうすぐ戻ってこられます」
「なら先にお父様に手紙を書こうと思うから、用意お願いできる?」
マルティエナの言わんとしたことを察して返事をしたカーチェに礼を告げて、ソファへと腰掛ける。
そうして、用意してくれた茶を片手に一日を振り返った。
兄の失踪に関する情報を得られればと期待はしていた。けれど、初日から有力な話が手に入るとは思ってもいなかった。
主にネヴィルから得た話。そしてクレイグが受け取った手紙についてを、便箋に書き出していく。透明の液体で書いた文字が渇いて分からなくなると、今度は適当な挨拶程度の内容を認めていく。
なるべく炙り出した後の文字が被らないようにしたので、問題なく読めるだろう。
一見しただけでは違和感がないことを確認して封筒に入れ、最後に蝋で閉じる。
そうしているうちにエルジオが戻ってきた。
「エルジオ、さっそくで申し訳ないんだけど、これをお父様に届けてくれる?」
「お任せください。ですが、随分と早いですね」
「私と瓜二つの人物に会ったことがある人がいてね。それがリエーヌ王国だっていうからお兄様には困ってしまうよ」
「国を出ておられたのですか……」
流石のエルジオも顔を顰めて、マルティエナも苦笑する。
オーレン伯爵領から離れるだけでなく、国まで出る必要がどこにあったのだろうか。
「カーチェ、少しの間一人でも問題ない?」
「ええ、もちろんです!」
いくら偽造したとはいえ、オーレン伯爵家全員の命が掛かっているといえる手紙を郵便屋には預けられない。
兄に関するやりとりは全てエルジオを通して行うことに決めていて、そのためには数日は不在になってしまう。
気合の入ったカーチェの返事に心配が募る。
「もし他の使用人に手を出されそうになったら、すぐに助けを呼ぶんだよ? 騒ぎになっても、私が話をつけるからね」
「ええ、ご安心なさってください」
「私も手は打っていますので、余程のことがない限りは問題ないかと」
「……そう?」
使用人同士の牽制の仕方はマルティエナにはよくわからない。エルジオが言うなら大丈夫なのだろうと判断して、確認しておかなければならないことをマルティエナは問うことにした。
「エルジオ、貴方の目からは私の兄が女好きに見えた?」
「……何故そのようなことを?」
本人は軽く問おうとしたのかもしれないが、明かにマルティエナは思い悩んでいる。
突拍子もない質問に困惑したエルジオは、個人的な主観を述べる前にマルティエナが問うに至った経緯を探る。
「クレイグ・アルカシアは随分とお兄様に馴れ馴れしいんだけど、彼からはお兄様がかなりの女好きに見えていたらしいんだよね。それも、年上の女性が好みだとか」
「そんなこと、絶対にありえません!」
真っ向から否定していたマルティエナだったが、何度も繰り返されたクレイグの発言に、もしかしたら自分の知らない兄はそのような人物だったのかと思い始めていた。それで兄に仕える期間が長いエルジオにこうして質問してみたわけだが、先に返事をしたのは静かに聞いていたカーチェだ。
「マティアス様はとても私達使用人に親切に接してくれて、よく使用人の間で話題に上がっていましたが、下心を感じた者などおりませんわ」
「やっぱり、そうだよね」
そうして、エルジオの意見も聞かずに話は終着に向かっている。
額へと手を当てたエルジオはどうしたものか、と逡巡することとなった。
実際、エルジオから見たマティアスは女好きだった。
それもまだ10才にも満たないころから、身体が成熟した女性に興味をもっていたと言える。街へ出かけた際には、どこでそんな言葉を覚えたのかと疑うほどの美辞麗句をすれ違う女性や店先の売り子へと流暢に並び立てていた。
けれども、それを妹であるマルティエナに伝えるのは良心が痛む。
兄を尊敬している彼女には心底信じられない話だろう。カーチェの言う通り、マティアスは伯爵邸内では品行方正な紳士として振舞っていたのだから当然だ。
かといって、クレイグとの齟齬がある現状はいかがなものか。もしかしたら、今回の件以外でも似たような食い違いはあるかもしれない。
長年仕えてきた主の外面の皮一枚剥がすくらいは許されるだろうと、女性二人の会話に割って入る。
「お二人の理想を壊すことになるかもしれませんが、男と女ではものの見方が少々異なります」
「というと?」
「つまり、私から見たマティアス様は、女性を口説く傾向があったということです」
ゆっくりと瞬きをし合った二人の視線がエルジオに集まる。全くもって想像ができないと口を開いたのはマルティエナだ。
「それは、どんな風に?」
「行く先々でお会いした女性に、過剰ともいえる誉め言葉を並べ立てておりました」
「褒めることが女好きになるの?」
「物事には限度というものがございますから」
「そう……?」
限度か、と呟いたマルティエナにエルジオは満足気に頷く。
エルジオから見るに、マルティエナにも似た傾向がある。兄を尊敬して成長したからか、人に賛辞を送ることに恥じらいが微塵もないのだ。
女性として過ごしていれば素直な賛辞は男女ともに好まれるかもしれないが、男性として振舞うのなら度を越えれば支障があるかもしれない。
身の振り方を考えるきっかけになってくれれば嬉しいと思った矢先だった。
「それは偏見ではありませんか」
カーチェの冷えた一言がエルジオに突き刺さる。
「……はい?」
「女性を褒めることができない殿方が圧倒的に多いのです! マティアス様は躊躇うことなく女性を褒めてくださいますから、きっと嫉妬してマティアス様のことを女好きと蔑むのですわ」
「落ち着いてください、カーチェ。私もアルカシア様も嫉妬はしていません」
「いいえ! そのことに気づいていないだけです!! 誉め言葉をいただいて喜ばない女性などいません!」
「いえ、ですから……」
限度があるから程々に、と伝えたかっただけなのだ。
それなのに頭に血が上ったカーチェは聞く耳を持ってくれない。
「限度など考えずにご主人様は今まで通り、いえ、マティアス様なのですし、普段より一言二言、言葉数を増やしても問題ないと思いますわ!」
「そう? なのかな」
(だめだ、こりゃ……)
マルティエナが抱いた僅かな疑念をカーチェが完全に拭い去ってしまった。加えて、方向性が完全に悪化したことにエルジオは手がつけられないと降参することにした。