14.無色透明な残痕
穏やかな気候が移ろい、乾燥した空気に肌が過敏になってきた今日この頃、オーレン伯爵邸の朝はいつにない活気に満ち溢れていた。
「お嬢様、お忘れものに心当たりはありませんか? 私なにか忘れている気がしてならないのですが」
「王都にはなんでも揃ってるから安心して。カーチェ」
これまでだってカーチェとともに王立魔法学院や王都に行っていたのに、随分と気がそぞろだ。
カーチェに限らず邸で働く使用人が皆、数日前からそわそわしていた。
「マルティエナ、今少しいい?」
「お兄様? どうぞ入って」
コン、コンと小さな鐘を響かせるように鳴ったノックにつづいた兄の声に頷く。
「……随分と、寂しくなるなぁ」
数歩踏み込んで足を止めた兄は、すっかりもぬけの殻になりつつある部屋を見渡して呟いた。
長い空白期間があるマルティエナの部屋は私物が少ない。
古くなったものは整理したし、兄として過ごしていた際に愛用していた物はここにない。
それらは全て『マティアス・オーレン』が持つべきもの。
邸に人を呼ぶこともあれば、余所の使用人の出入りもある。疑いを持たれないためにも兄に名を返す際に引き継いだ。
アスタシオンからもらった香水だって、マルティエナにはもう持つ資格はないのだ。
それでもちらほらと部屋を賑やかせていた『マティアス・オーレン』の友人から送られた見舞いの品々は、日常使いできるものを王都に持っていくことにしたので、半分ほど減っている。
マルティエナも兄と同じように見渡して、些細な差から感じる寂寥をどことなく嬉しくも思えた。
(何もなくなんてなかったのに、見えてなかったんだな)
近すぎて、何も見ていなかった。
想像ばかりの固定観念に縛られて、自分自身を見つめ返せてなかった。
そんな自分の狭まった視野をクレイグが広げてくれた。
顔を合わせたらもう一度礼を伝えよう――そう心に決めたマルティエナに、兄は言い迷うように頬を掻く。
「参ったなぁ。マルティエナに心残りがないかと思って来たんだけど」
「女学院に通うために王都に行くだけなのに、お兄様まで大袈裟だよ」
流れる前髪に指先を添わせたマルティエナは気恥ずかしげにはにかむ。
カーチェ含めた使用人が皆、落ち着かない日々を送っている理由はそれだ。
マルティエナが邸を離れるのを心待ちにされているわけだが『マルティエナ・オーレン』を送り出す日を楽しみにしてくれていた結果なので、嬉しくも妙にいたたまれなく思っていた。
それに加えて兄まで今生の別れのような台詞を口にする。
「みんな良くしてくれるから、心残りなんてないよ」
心配しなくても大丈夫だと微笑めば、兄も笑む。けれどマルティエナとは違って、眉根を下げた困り顔だ。
「マルティエナとは話す時間がそれなりにあったのに、個人的な話はできてなかったよね?」
「そう? ……確かにそうかも」
思い返せば、兄とは伯爵当主としての領地管理の話や『マティアス・オーレン』の引継ぎばかり。優先順位を考えるとそうなっていた。
「兄さんに聞きたいことがあれば、何だって聞いていいんだよ? 例えばさ、ほら――」
いつになく弱気な兄の様子に得心がいく。ここまで赴いた理由を悟ったマルティエナは逡巡した後、はっきりと告げることにした。
「なんで失踪したのか、とか?」
兄が失踪してからというもの毎日考え続けていた疑問を、戻ってきた兄に尋ねずにいた。だから、兄は気に病んでいる。
「なかなか聞いてくれないから、言い訳みたいで言いづらくてさ。でもマルティエナには苦労をかけたし、知りたい……よね?」
こちらの様子を伺う兄をマルティエナも伺い見る。
結局、緩く首を振った。
「何となくお兄様の気持ちも分かるから、いいよ」
兄自身が話したいのではない。兄のために、と当の本人に望まれていない日々を過ごしていた妹の心境を気遣ってくれているのだ。
「それは……」
だから、聞かなくていい。
「お兄様も、カムデン侯爵家の二の舞になるんじゃないかって不安だったよね? お父様もお母様も、もちろん私も。お兄様は何をしても完璧だって信じすぎていたから、余計に」
失踪してからも気づけなかった。
年の割に大人びた兄の不安に、誰も目を向けていなかった。心許ない立場を兄だって恐れているのに、勝手に否定していた。
「お兄様が気軽に相談できる家族じゃなかったこと、反省してる。先が見えない不安は耐えられないよ」
マルティエナには秘密を共有する仲間がいた。いつだって相談できて、道を共に拓いてくれた。
そんな相手がいない中での王立魔法学院は虞が付き纏う。貴族同士のしがらみや、教会から来た教師の評価、師との関係性も誰かに掌握されているようで。
注目されるだけ、向けられた視線から生まれる見えない恐怖が蓄積されていただろう。
そうした不安の積み重ねが入学を拒んだ要因ではあるまいか。
闇属性の魔法士集団だって、不明瞭な存在ゆえに不安なのだ。だから兄は接触を試みた。そうして彼らと行動を共にする道を選んだ。
のし掛かる重圧が多ければ、マルティエナだって同じ道を選んでいたかもしれない。きっと、そうしていた。実際に行動に移せなくとも、選択肢の一つにあったはず。
不甲斐無さに視線が翳るマルティエナの頭を何かが覆う。想像よりも大きい兄の手だった。
「あのな、マルティエナ。兄さんは大それたことは考えてなくて、ただ生きていたかったんだよ。この世界で、長生きしたかったんだ」
紡ぐ言葉は風に揺られて宙を漂う羽のように軽いのに、深みに嵌まる暗さがある。
「意外かもしれないけど。生き残ることに必死過ぎて、兄さんが消えたあとに家族がどうするかを考えられなかったんだ」
マルティエナが見上げると柔らかに眦を下げた兄が映った。深い後悔が滲む笑み。
何が兄をそこまで追い込んだのか。
幼き日の兄は、知らぬところで命の危機を感じていた。
一体いつだろう。
思い当たる節のない新たな疑問は生じても、追求しようとは到底思えない。
「打ち明けられなかったのは、見栄……かな。恥ずかしい話だけど、私には似合わない過大評価も期待も嬉しかったから、最後まで言えなかった。ごめんね、マルティエナ」
兄は全てが自分の責だと思っている。
兄のため、だなんて己の独りよがりな行動も全て。
その思いを否定はせずに、マルティエナは頷く。
「私も同じだよ。自分のことばかりでお父様の気持ちを考えれなかった。だからね、お兄様が話したいなら聞きたいけど、知らなくてもいいよ。お兄様には戻ってきた理由もあるんでしょう?」
ただ単に戻る気になったのではなく、明確な理由がある。これは期待から生まれた結論ではなくて事実そのものだ。
マルティエナが思うに、兄は宿命を課せられているのだろう。エレノアやアスタシオン、ネヴィルのように、他とは一線を画す雰囲気があるのはその為ではないか。
だからこそ、兄にはなりきれない。
口を閉ざす兄を見上げる。
多少の違いはあれど己にそっくりな兄へと、眼差しに意志を込める。
「でもね? これからは私を頼ってほしい。お兄様が休みたくなったら、いつだって代わりになるよ」
明日は我が身だと、父は常々話していた。
長年の積み重ねによる偏見は易々とは変わらない。闇属性を有していることが、いつだって行先を不明瞭な闇路に変えていく。
信頼のおける協力者が数人増えたところで、大多数の偏見を相手に太刀打ちできないこともある。完全に拭い去ることのできない不安は、いつも心に潜んでるから。
きっと兄はこの先も不安に駆られるのだろう。
胸の内にある闇は薄れることはあっても消えはしないと思うけれど、逃げ出したくなった時に休める場所をつくることならできる。『マティアス・オーレン』として積み重ねた努力が兄の助けになる。
「お兄様の力になれるから、これからは独りでいなくならないで」
震える声に今になって気付く。
心残りがあるとすれば、これではないか。
兄がいなくても上手くやっていけると思っていた分だけ言えずにいた本音。
強がっていただけの弱さが表面化したと奥歯を噛みしめるマルティエナに対して、次ぐ兄の言葉は違った。
「マルティエナは見ない間に頼もしくなったね。……私は年齢差に胡座をかいていたのかもしれないなぁ」
途中までは心温まる言葉だった。けれども口の中で掻き消えるような兄のひとり言に目を丸くする。
「年齢差って……私達同じ日に生まれたのに。そんなに私のこと幼く見えてたの?」
最初に感じた驚きは、その意味を想像する間にマルティエナを膨れっ面にさせる。
失言に大慌てした兄が身振り手振りもついた訂正を捲し立てる珍しい姿だったので、笑って許すことにした。




