13.私の友人だった彼
それはアスタシオンとエレノアが去って一週間が過ぎた日のことだった。
聖テレシア女学院の入学に向けてルチナから指導を受けていたマルティエナは、階下から賑やかな声を聞き取った。
(この声……)
扉を開けたままにしていたので、彼の声は邸内に行き渡って聞こえる。
「あら。お嬢様、やはり来ましたね!」
「断っても来るとは思ってたけどね。もしかして手紙を読んでないのかな」
嬉しそうに来客を喜ぶカーチェに、マルティエナは苦笑いした。彼女のように来訪者を素直に歓迎できないが、アスタシオンの来訪を知った時とは反対に、本当しょうがないよね、と呆れ半分に嬉しく思う。
「私はご挨拶に伺いますが、マルティエナ様はいかがなさいます?」
向かいの席に座っていたルチナの問いかけには決まったように首を横に振った。
「ううん。どうせ一泊はしていくだろうし、どこかのタイミングでお兄様に紹介してもらうよ」
「わかりました。では、これまでお伝えした点を復習なさってくださいね」
「ううっ……ルチナさんを先生にして正解だったみたい」
聖テレシア女学院の卒業に必要な淑女教育をお願いしたい、と自ら頼んだマルティエナは、ルチナの事細かな指導についていくのに必死だった。
優美な所作にするためには一秒だって気を抜けない。
基準を満たしさえすれば良いと思っていたマルティエナとは違って、ルチナは「私がお教えするからには完璧を目指してもらいます」とスパルタなのだ。
それが後々の自分を思ってのことだと分かっているからこそ、甘やかしてくれないルチナの期待に応えるよう努力している。
(お兄様は上手くやれているかな? でも、まあ大丈夫か)
一瞬の懸念をあっさりと拭い去る。
元々親友だったのだから、彼の扱いはよくわかっているだろう。
それにしてもクレイグの考えることはさっぱり分からない。
助手として仕事に走り回っていた熱意は何処に消えたのか、任期満了を待たずに「帰国する」と先日文が届いていた。
王都に戻る道すがらオーレン領に寄るとも書かれていたので、クレイグが立ち寄るルートの郵便社に断りの文を送りつけたのだが、彼は読んでくれただろうか。
教会領で会った際に、異国に居ても連絡を取り合えるように行き先を記しておくと言ったのはクレイグだ。
その上で読んでいなかったのなら小言の一つは許されるだろうと、もう兄ではないのに、マルティエナはそんなことを考えた。
◇◇◇
光の加減で透き通って見える色素の薄い髪をマルティエナは眺めていた。
読んでいた本を枕に寝入っているので、寝心地が悪いのか身じろぎしている。
この男は何を考えているのだろう。
それとも気ままに行動してるだけなのか。
向けられたつむじをなんとはなしに見下ろしていると、塞がった口から微睡んだ声が漏れ聞こえ、頭を右へと傾けた彼と目が合った。
うろんに溶ける寝惚け眼だ。気の抜け切った姿を見ることは余りなかったので、目を逸らさずに見下ろす。侯爵家の彼は存外人目を気にしているから珍しい。
少しずつ意識が覚醒してきたようで、その上でにへら、と気を抜いた笑みを見せた彼に目を見開いたマルティエナは流されまいと口を引き結ぶ。
「つかぬことをお聞きしますが、貴方は一体いつまで滞在なさるのですか」
クレイグが伯爵邸を訪ねてから更に数日。流石に立ち寄るではなくなってきている。
「え〜いつまでってそりゃあ……追い出されるまで? えっ俺追い出されちゃう?」
マルティエナちゃんはそんな酷いことしないよね? と調子良く続けるクレイグに深く息を吐いた。
親友の『マティアス・オーレン』に会いに来たクレイグは、その妹にかかりきりだ。
ルチナの元で淑女はなんたるかを教わっていても、庭園を散策していても、テラスで本を読んでいても、必ず彼はやってくる。
クレイグの姿が見えないのは自室に戻った時くらい。
「新婚夫婦の邪魔をしたくないというお気持ちはわかりますが、お兄様は貴方を邪険に扱いませんよ」
これまでの自分のように。
それを真似るのではなくて、兄自身もそうだろう。
クレイグはしつこいようで引き際を心得ている。馴れ馴れしいのに嫌になる踏み込み方をしない。それが気楽で、毎日をともに過ごせていた。
お調子者の面がある彼にはつい小言を言いがちだが、面倒に思ったことは一度もない。
それに思い返してみれば、結婚披露パーティーに先立って早々と到着したクレイグには新婚夫婦に配慮する心配りは皆無だった。近隣の村や教都への観光も、邸内で羽根を休める間も、ひたすら三人で過ごしていたのだから。
(自分の行いを省みたのかな?)
三人での教会領観光は楽しかったので小言を言った覚えはないが、周りから指摘でもされたのだろうか。
(それならそれで、こんなに長く滞在しないと思うけど)
いくら考えてみてもさっぱり分からない。だからこそ一緒にいて退屈しないのかもしれないが。
「あ〜いいのいいの。マティアスとはマルティエナちゃんに会えない時にたっぷり話してるからさ。もう話し尽くしちゃったんだよ」
「でしたら尚のこと、もう用はないのでは?」
「ええ〜つれないなぁ。マルティエナちゃんって――俺といるの嫌だったりするの?」
「ちがっ! そうではなくて!」
突然思い詰めてはトーンダウンしたクレイグの声音に、少し言い過ぎたと慌てたマルティエナは机に両手を置いて立ち上がる。
反動で音を立てて机が揺れ、体を預けていたクレイグの瞳は驚きに染まった。取り乱してしまったことを後になって反省して、咳払いして居住まいを直す。
「……それはありえませんけど、親友の妹といるのは貴方が暇なのではないかと」
長い付き合いだと思っているのは兄のふりをした自分だけで、クレイグは違う。
彼にとっての『マルティエナ・オーレン』は今回初対面した親友の妹でしかない。『病弱で療養生活を送り続けていた親友の妹』を憐れんで傍にいてくれているのなら、もっと自分に目を向けて欲しい。
「俺が暇――?」
けれど、クレイグにとってはマルティエナの思考が予想外だったらしい。
言葉を繰り返すことで、その意味するところを考えている。
「まさか! それこそあり得ないから心配しなくて大丈夫大丈夫」
そうして彼はへにゃりと笑った。それこそ、兄としても見たことのない笑みだったかもしれない。
「それにマルティエナちゃんは親友の妹だけど、文通仲間でもあるだろ? ようやく直接話せるようになったら嬉しくてさ〜」
「文通って……私が送るのはいつもお礼状でしたが……」
王立魔法学院に入学してからというもの、彼は『マルティエナ・オーレン』に見舞いの品として毎年様々な物を贈ってくれていた。
花や茶葉、本や魔道具、筆記具や便箋、洒落た置物にレースのリボンなど、なんでも。
ここ一年は異国巡りをしていたこともあって、贈り物の頻度も多く、都度お礼状を認めるのが大変だったくらい。
感謝しつつも、妹を気遣わなくて大丈夫だと『マティアス・オーレン』として何度か告げたことがあったが、結局彼はやめなかった。
「礼状も手紙の一つだよ、マルティエナちゃん! つまりはさ、かれこれ五年来の友人ってことだね。そんな君がもうすぐ王都に行くって言うんだから、俺が一緒に行って色々案内してあげようと思ってさ」
さも当然のように流暢に語るクレイグに言葉を失う。
(私、全てを失ったわけじゃなかったんだ)
『マルティエナ・オーレン』には何もないと思っていた。
秘密を共有することになった数人はいても、表向きは自己紹介で始まるから。
アスタシオンとは親友の妹で始まって、それ以上にはなることはないのだろう。アレッタやコルスタンとも、親友の妹から始めなければならない。
だから、何もないと思っていたのに――
「へえっ!? マルティエナちゃん、どうして泣くの!? 俺なにかまずいことでも言った!?」
「――え?」
言われて目元に触れてみると、雫が指先につく。
茫然としてる間に立ち上がって距離を詰めたクレイグに見られまいと、両手で顔を覆った。
「違う、違います……。わ、私にも友人がいたんだなって……思ったら」
言葉にすることで更に実感する。
徐々に尻すぼみになっていく声と比例して息苦しくなる喉と鼻を啜る音がやけに響いて感じた。泣きたくないのに、抑えられない。一度端を発してしまえば、堰を切ったように止められない。
「あ〜、うんうん。大丈夫、領地に残る兄ちゃんの代わりに俺が俺と兄ちゃんの友人を紹介するからさ! 楽しくなるよ、間違いないね」
そんなマルティエナに「だから大丈夫」と首に両腕が回った。後ろからクレイグの温もりを感じて、首筋に彼の髪がさらさらと流れた。
同じだった。
学院の頃から変わらない。自分は変わってしまったのに、変わらないでいてくれる。
そのことにまた涙が溢れた――




