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『マティアス・オーレン』の行方 〜ところで、兄はいつ戻ってくるのでしょう?〜  作者: 青葉 ユウ
-- Chapter 2 --

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12.夢の終わりに触れる




 アスタシオンとエレノアが乗った馬車が伯爵邸の門をくぐったのは、暑い日差しを遮る薄い雲が伸びた、昼下がりのことだった。


 客人の到着を伯爵一家と上級使用人が並んで待つ。

 マルティエナも質の良いドレスに身を包んで、兄に寄り添って立つルチナの隣に立っていた。


 馬車に随行していた馬から降り立ったアスタシオンの従者が扉を開く。


 軽やかな風が舞った。

 柔らかに肌を撫でる風に、懐かしいアスタシオンの香りがのる。


 姿を現したアスタシオンは胸元まである髪を一括りにせず、右肩に寄せて流していた。さらさらと気持ちよさそうに靡く太陽の陽射しに似た金の髪に目を細めて、アスタシオンを見る。


 誰よりも早く、真っ先に目が合った。


 視界の端にいるルチナが消えたことに気づいて、遅れてマルティエナも礼をとる。


「やあ、オーレン。急な訪問になってしまって申し訳ないね」


 聞き慣れた、余韻を占める低音まで心地よいアスタシオンの声。紡がれる呼び名は自分を呼んではいなかった。


「ようこそお越しくださいました、殿下。オーレン領に足を運んでいただけて光栄です。――エレノアさんも久しぶり。会えて嬉しいよ」


 アスタシオンのエスコートで馬車を降りたエレノアに兄は微笑む。


「マティアス君、久しぶり! 元気そうで良かった!」

「エレノアさんもね」

「伯爵夫人も、突然押しかけて申し訳ない。助手の業務の一環で彼女と隣領に用事があったから、少し顔を出そうと思ってね」

「殿下のご来訪を光栄に思いますわ。お時間の許す限り、休んでいかれてください。夫も喜びます」

「ありがとう」


 隣で繰り広げられる会話を他人事のように眺める。『マティアス・オーレン』がアスタシオンやエレノアと会話している姿を他所から見るのは妙な感覚だった。

 他人事のよう、ではなくて、実際他人事だ。

 事実を眼前に突きつけられて、理解していたはずなのにマルティエナは苦笑する。


 だから、無意識のうちに胸に手を寄せていた。



「――――大丈夫?」


 音なく吐き出した重苦しい息に重なる、たった一言に感情が詰め込まれた声が呼吸を楽にしてくれる。

 眩し過ぎた視界は目の前に立つ人物のお陰で翳ったのに、マルティエナには晴れ渡って見えた。


「……っ」


 喉が詰まって、向けられた眼差しに浅く頷く。

 青みを帯びた透き通るエメラルドの瞳に映った姿に、寄せていた手をきつく握りしめた。


(マティアス・オーレンじゃなくて、私がいる――)


 頬を冷たい何かが伝った。

 胸を熱くする感情が、僅かに抱きしめられて頭を優しく撫でてくれる感覚を焼き付ける。


「大丈夫。落ち着いて、息を吸って」


 最後だ、と思うと抑揚の付いた耳心地の良い一音一音に涙が溢れた。

 笑っていようと心に決めていたのに、外れた栓が戻ってくれない。


「殿下、すみません。私の妹のマルティエナです。今日は珍しく体調が良かったのですが、体が保たなかったようです。カーチェ、妹を頼める?」

「はい! お嬢様」

「ごめんね、カーチェ」


 駆けつけたカーチェの手を握って、そのまま寄りかかる。

 演技でもないのに、これでは本当に臥せっている病人に見えていそうだ。


 揺れ動いた衝動がアスタシオンから遠のくたびに退いていく。


「ああ、待って。容態が落ち着いたら、ご令嬢を私たちがいる部屋に連れてきてくれないかな?」

「かしこまりましたわ」


 出来うる限りのお辞儀をしたカーチェが先導して、マルティエナも開け放たれた伯爵邸の玄関を跨ぐ。


「――オーレン、私たちは君の妹を救いに来たんだよ」


 そんな、アスタシオンの慈愛に満ちた声が背後から風と共に流れ着いた。



 ◇◇◇



 エレノアは光の古代魔法の一種である癒しの魔法を習得したらしかった。


 今はまだ教会には知らせていないヴァルトセレーノ王国の秘密なのに、アスタシオンが友人の妹に力を使わせてほしいと国王に願い出たのだという。

 そこにエレノアの意志も加わって、指示するまで公にはしないことを前提に特例的に許されたのだと、アスタシオンは「なんてことない話」だと前置きして語った。

 癒しの魔法を公表した際にエレノアの名声を高めるための一手に数えてくれたのだろう。先の思惑を利用してマルティエナのために動いてくれたのだ。


 そうしてエレノアに魔法をかけてもらったマルティエナは、アスタシオンと邸の庭園を二人で歩いていた。


 実際、病弱でもなく至って健康なマルティエナには、稀有な魔法の効果は全くもって分からない。

 けれども真白な光に包まれた数秒の間は、教会領で見た雪を思い出していた。白く降り積もる、陽光よりも眩かった雪。光の神からの恵みを一身に浴びていると感じられる、そんな魔法。


 ――エレノアから感じる特別な空気感に酷似していた。

 彼女は光の神に愛されている。


 エスコートしてくれているアスタシオンをちらと見上げると、瞬時に気づいた彼は歩みを止めた。

 広大な庭園のちょうど中央。ずっしりと根を張った樹木や、柵やアーチ状の枠組みを彩る薔薇の蔦や葉が、人目を阻んでくれる場所だ。


「先程はお見苦しい姿をお見せしてしまい申し訳ありませんでした」

「私は気にしていないよ? 本音を言うなら嬉しかったからね」


 惜しんでくれているのだろう? と深く濃い翠の瞳が語っていた。


 木の葉の囁きは侘しく、満たす空気は水分を失いつつある。

 咲き誇っていた花々も大半が散り、小道には散った花びらが敷き詰められている。

 満開の花で埋め尽くされた庭園とは違った趣はあるが、土の季節の終わりを表すこの光景が余計に胸に刺さる。


「ねえ、オーレン」


 ――胸の奥まで沁み込む、馴染み深い彼の声が()を呼んだ。


「まだ間に合うよ。君を来月から聖テレシア女学院に通わせるようお兄さんに話は通してある。君なら、三か月もあれば余裕だろう?」

「どうでしょう……私は女性らしさを忘れてしまいましたので」


 礼儀作法も舞踏も身に染みているのは男性に必要なマナーで、今のままでは淑女としての評価は得られない。

 聖テレシア女学院への在籍が可能な年齢は今年まで。残りの火の季節の間に、昔の感覚を馴染ませられるだろうか。


 無理かもしれない。

 彼の期待を裏切るようで言葉にはしなかったのに、アスタシオンは首を横に振った。


「君はいつだって、私にとって唯一の女性(ひと)だよ。不安なら私の言葉を信じていて」


 真っ直ぐに下ろされた金の髪は、微々たる風の揺らめきでさらさらと気持ちよさそうに流れていく。


「来年の社交界で、また会おう。どうか、君の華やかに着飾った姿を私に見せてほしい」


 アスタシオンの言葉はいつも、そんな風にマルティエナの耳に流れ着く。



「その時は私と――」



 光の神に愛されているのがエレノアなら、アスタシオンは風の精霊に愛されている。

 新たな年の芽吹きを運ぶ風と同じで、物語の始まりを運んでくれる。

 『マティアス・オーレン』の行先を繋いでくれて、『マルティエナ・オーレン』としての物語を踏み出す一歩を与えてくれる。



「殿下、これ以上は夢になってしまいます。私も貴方も夢の中では生きられない。そうでしょう?」



 だから、続く言葉を言葉で塞いだ。

 これ以上を望んではいけないから。他の何よりも、互いのために。


「それは、君も私と同じ気持ちだと思っていいの?」

「――今と似た気持ちを、アレッタ嬢にも感じていました。もしも、兄が失踪していなければ私は私として殿下にお会いできた」


 もしも、状況が違っていれば。


 その時は好きだと口に出して伝えれたのではないか。

 好きだという感情を積み重ねて、友人ではいられない情を宿していたのではないか。恋人になれる世界線があったのではないか。第二王子の婚約者に相応しい存在になれていたのではないか。


 そんな、どうにもならない可能性を考えてしまう。

 考えてしまう時点で、この感情は恋に近い。限りなく、否定できないくらいには。


 認められないだけで既に恋に変わっているのだ。


「殿下と同じ気持ちを返せたはずです」


 日々の些細な選択が生み出す感情に枷をかける。

 足場となる現状が心の重しになる。意識の外で、確実に心の行き先を狭めてきた。

 だから、どうしても認められない。


「私は君に惹かれている。もしも、ではなくね」


 マティアス・オーレンとして過ごしたマルティエナだから惹かれたのだと、和らいでいるのに熱の籠った眼差しが視界を埋めた。


「どちらにせよ、夢でしたね。――叶うことはありません、殿下」


 アスタシオンの吐き出された散り散りの吐息が、耳の奥に残る。今日の選択をこれからも後悔するのだろうと思った。


「オーレン、一度だけだ。君の本当の名を呼ばせて?」


 アスタシオンが自らに嵌めた枷だった。

 一度だって名を呼ばれたことはない。兄の名すら、彼は口にしなかった。

 アスタシオンが第二王子として在り続けるために定めたルールなのだろう。



 ――最後に一度だけ、許してほしい。



 滑り落ちた呟きが時を止める。

 アスタシオンの眼差しに灯る小さな光が繊細に揺らいで、吸い込まれるように瞼を閉じた。


 頬に温もりを感じて、唇に触れる。

 微かに震えていた。どちらのものだろう。


 重なり合った唇から心地良い熱が生まれて、何故だか瞼の奥まで熱くなる。

 瞼を上げたら夢から覚めてしまうと悟っていた。



 もしも、を思い描く。

 彼と結ばれる世界線を脳裏に焼き付ける。忘れはしない。



 頬に感じていたアスタシオンの手のひらの温もりが離れて、止まっていた時が動き出す。

 瞼が開かれた時には、夜を照らす火明りのように静かな情熱は消えていた。


「困ったことがあれば、いつでも君の兄の名で手紙を遣して」


 それが『マルティエナ・オーレン』と『アスタシオン・ヴァンビエント・ヴァルトセレーノ』の立場だ。

 こうして二人きりで会うことも、手紙のやり取りも異様な関係。


「ありがとうございます、殿下。――私は殿下をお慕いしていますよ。これからも変わりません」

「私もだよ、オーレン」



 もしも、を思い描く。


 視線を下げると、花びらを放射線状に広げた星のような紫苑の花が散らずに咲いていた。

 生まれ変わっても忘れない。そんな可能性を信じていたい。






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