10.流れ着いた星の名
土の季節は気候が安定していて、一年の中で最も快適なシーズンである。
朝は清々しい涼しさで目を覚まし、昼は微睡む陽気に包まれて、夜は清涼な空気の中で眠りにつく。昼夜を通して暑すぎず、寒すぎない。翳りない晴天の中でも心地よい雨が時折降り注ぐ。
今宵はそんな夜だった。
夜風を取り込む為に開けた数センチの窓の隙間から、しとしとと静かな雨粒の音が場を満たす。それは波紋のように響いて身体から一日の疲れを流し落としてくれる。
布団に包まれば数秒と経たずに睡魔に襲われる。
普段ならそんな夜なのに、今日だけは寝付けなかった。
寝返りをうって体勢を変えてみても状況は変わらなくて、渋々布団から這い出る。
音を立てずに、揺れを最小限に、と意識してそっと抜け出したマルティエナは、振り返って今し方いた場所を確認した。
少しの間を空けて隣で寝ていたルチナからは、今も等間隔の息遣いが聞こえる。
起こさずに済んで良かったと胸を撫で下ろすと、暗闇の中で宙に文字を記して小さな灯火を隅に浮かべた。
暗闇に近い室内を足を滑らせるように歩いたマルティエナはカウチに腰を下ろす。
ユーマとシシティ香草の栽培計画を話し合ってから、既に一月半が経過していた。栽培と経過観察の監督を任せた領地管理人は明日に双方の地で採取したシシティ香草を持って報告に訪れる。
だから、眠れない。
「明日が気掛かりですか?」
背後から届いた雨音のような響きに、マルティエナは振り返る。
「ごめんね、起こしてしまったかな」
ルチナが首を振ると銀の透き通る髪が流れ落ちて見えた。
夜の暗闇の中ではまるで星の軌跡だ。
行き惑うマルティエナの先を道標のように示してくれる。
「構いませんよ。私、貴方様と話がしたいと思っていたのです」
「なぁに?」
隣に浅く腰掛けたルチナの手のひらが、マルティエナの手を包み込む。
新たに灯した蒼白い明かりはルチナの透き通る静けさを際立たせた。彼女は闇夜を音なく照らす月にも似ている。
「以前約束しましたね。機会が訪れたら、幸せを掴むと。私に気を遣う必要はございません」
「私は――」
記憶に新しい二人の約束だった。
マルティエナは、ずっと幸運を実感してきた。
なんたって運が良いのだ。
闇属性を有していても、学院であからさまな冷遇をされることはなかった。それは親しくなった者の影響力が強いからだ。彼らが自分を受け入れて友人と呼んでくれていたことが一つの運。秘密を知られた相手が全面的に協力してくれたことも、また一つの運。伯爵当主になってからは、隣でサポートしてくれる有能なルチナにも出会えた。
全てが期待していた以上に上手く繋がっている。
その上で兄が戻ってきた。
オーレン伯爵家が帰る場所だと今でも思ってくれていた。無理に『マティアス・オーレン』の座を取り戻そうとしないでいてくれている。
なのに今が幸せだと、ルチナには言えないでいた。
見透かされていると思ってしまうから、言えないのだ。
「眠れないのは、貴方様のお兄様への期待からでしょう?」
ルチナが紡ぐのは、彼女にだけは面と向かって口外できないマルティエナの本心だ。
「貴方様は既にあの方を許していらっしゃいますし、あの方が当主として立つ時を心待ちにしてるように私には見えます」
その眼差しに陰りは微塵もなくて、彼女は既に自身よりも先の将来を見据えているのだと実感する。
「あの方はすぐに私を追い出そうとはしないでしょうし、私も素直に従わないことにします。あの方は少々奔放過ぎるところがありますから、私が躾し直そうかと思いますの。この邸の方々は貴方様を含めてあの方に甘いので、私が適任です。ですから、ご安心なさって?」
柔らかくも苦言を呈する物言いに、マルティエナは思わず笑う。
「ルチナさんは頼もしいね」
彼女にとっては自分が妹のように映るのと同じで、大人びた兄ですらやんちゃな弟なのかもしれない。
自身の核を既に持っている強かな女性だ。マルティエナが手を差し出したのは閉ざされかけた彼女の選択肢を広げる一度きり。二度目が来ることはないのだろう。
「私ね――恐れてるんだ」
ルチナのため、という言葉は自分の恐れを隠す一種のまじないのようで。
「兄として過ごしていると分からなくなってくるんだよ。私の本来の姿は何だろうって」
きっと、もう何年も前から胸の内にある、決して口にしなかった不安だ。
「尊敬する兄ならこうするだろうと考えてきたけど、実際に考えて行動するのは私だからね。誰もが知る『マティアス・オーレン』は本来の兄とはかけ離れた人物になってしまった」
兄に成りきろうなんてそもそも無理な話なのに、運良く使えた古代魔法のおかげで風貌は完璧だったから。
だから、中身も兄のようになってしまいたかった。尊敬の内には密かな羨みが巣食っていた。
「だけど、それは私でもなくて、私の理想でできた架空の存在だよ。そんな私が『マティアス』でいられなくなったら、何になるのかな」
縋るような虚しい響きになってしまったのは限界だったからだ。
「私は私の在り方が分からない。――『マルティエナ・オーレン』には何もない。自分で始めたことなのに、戻るのが怖いなんて可笑しいよね」
いつだって矛盾している。
考えれば考えるほど深みにはまって埋もれていくようで、目を背けていた。
そうして、のうのうと日々をやり過ごしてきた。
耳からこぼれ落ちた前髪で視界が遮られる。払い退ける気が起きなくてそのままでいたら、白くて小さな手のひらが額を撫でるように髪を流して、視界を晴らした。
ルチナの波打たない湖面のような瞳の奥に、まだ見ぬ自分が視えた気がした。
「見失ったのでしたら、また見つければよろしいのですよ。カーチェさんも私も傍におりますし、アレッタ様も待ち詫びているでしょうから」
そろそろ寝ませんと明日が来ませんね、と手をひいて立ち上がったルチナの後を引かれるままに歩く。
さらさらと靡く銀の髪が細い光の筋をつくっていた。
(私は流れ星を家に招いたみたい)
陽だまりの残り香がする洗い立ての布団に包まれば、瞬く間に眠れるだろう。
口には出さずに願いを唱えてみる。
眠りにつく頃には明日への恐れは洗い流されてしまっていた――
◇◇◇
来客の去った室内で、湯気の消えた黄味の強い若草色の香草茶を飲み干す。並べられた二種の茶の違いは明らかだった。
何方も美味しい。けれど、人々の生活に馴染みやすく、オーレン領の特産になれるのはどちらかとなると結果は歴然だ。
「決めたよ、お兄様」
苦手だと言っていた香草を満遍なく感じられる茶をご満悦で飲んでいた兄が、手にしていたティーカップを落としそうな勢いで瞼を開く。
次いでゆるゆると頬が緩んでいく兄を見ていると、マルティエナも柔らかに微笑した。
「今回もお兄様の案でいこう。これからはお兄様が責任を持って、進めてくれる?」
お兄様、と呼んだのは兄が戻ってきた日以来だ。
そこに込めた意味を噛み締める。
「私でいいの? マルティエナ――」
微細を読み取ることに長けた兄にも当然伝わっている。
確認の意味での反復に、あっさりと返すのも癪なマルティエナは忠告を含めた。
「ルチナさんも了承してくれてるよ。けれど、いくらお兄様でもルチナさんを泣かせたら私は生涯許さないからね。その時は『マティアス・オーレン』の座は返してもらう」
ルチナは兄が近づいても拒絶を見せない。不思議に思って聞いてみたら眼差しが似ているのだとか。
――あの方はとても貴方様に似ております。人を見る眼差しは特に、そう感じますわ。
だから平気なのだと話すルチナは不思議に思っていなかった。
「ありがとう、マルティエナ。兄さん、マルティエナが認めてくれる当主になれるよう努力するから」
「そんなの、もう認めてるよ。私はお兄様が気負わずに自由に過ごしてほしいかな」
「そう言ってくれて嬉しいよ。ルチナさんも、これからは夫婦としてよろしく。私には気兼ねなく何でも言ってほしい」
ルチナへと移る兄の眼差しにマルティエナは安堵する。恋人を連れ帰ってはこなかったが、想い人がいるかもしれないとは思っていた。
けれど、兄はルチナを快く受け入れてくれている。ひとまず心配はいらなさそうだ。
「ええ、今日からよろしくお願いいたします、旦那様。早速一つよろしいですか?」
「うん、どうぞ」
「植物の病を侮ってはいけません。この病を聞いたことはございます?」
携えていた本を開いたルチナは、慣れた手つきでページを開いて指先で示す。
兄は素早く目線を動かして文字の羅列を追う。マルティエナもそんな兄を見てから本を覗き込んだ。見聞きしたことのある病だが詳細が思い出せない。
「『マティアス』様が学院で受けていらした魔法植物研究学は病原菌を取り払った研究施設でしたが、私が専攻していた講義では病と植物との関係性が重要視されておりました」
「ああ……」
魔法学は科目が細かく分かれている。選択する科目を最大まで選んでも、全体の半分以下だ。
選びきれなかった科目はカストと互いに教え合っていたこともあり、ルチナが論点を置いた病はカストを通じて聞きかじったことがあった。
「イーバルという村は存じ上げませんが、こちらの病は一定の温度で繁殖が活発になることと、水の魔力を多く含んだ植物を好みます。つまり、この地でシシティ香草を栽培しますと病にかかる危険も増します。収穫した葉に、この病の兆候が少し見られるのがお分かりですか?」
今度はテーブルの中央に置かれたガラス管の中のシシティ香草が指差される。言われてじっくりと観察すると確かに、葉先の色味が少し淡い。まだらな斑点が爪先もない小さな葉の一部に見える。
「本に書いてある症状と同じだ。よく気づいたね?」
「『葉先から根に向かって病が移る』か。根に病が移ったら厄介だなぁ」
「一箇所での栽培は危険ですので、なるべくサジェの木を間に挟んだ小域を点在させるのが宜しいかと。サジェの木はこの病を打ち消す作用があります」
「へえ! それなら……」
区域はこうして分けて、と計画書の案に書き加えていく。それぞれが意見を出し合って、納得のいく案がまとまった時には陽がすっかり傾いていた。
「ありがとう、ルチナさん」
「本当に。嫁が秀才で助かるよ。おかげで上手くやっていけそうだ」
揃って感謝を述べるとルチナはたおやかに笑む。
「旦那様にまでそう仰って頂けて光栄です。夫婦間の決め事は後ほどに。――何事もルールは大事ですわ。そうでしょう?」
「もちろんだよ、食後に時間をつくろう」
夫婦間の主導権はルチナが握る。
何となく、二人の様子を見ていたマルティエナはそんなことを思っていた。




