4.望んだ祝福は胸を刺す
王都にある伯爵邸は街の活気とは無縁な静けさが漂う。
父と母は爵位の継承を終えると早々に領地へ戻ったからだ。
マルティエナしか主人のいない屋敷では使用人も多くは必要なく、連れてきた使用人の大半は両親に随行して邸を離れた。
父が当主だった頃は茶会や晩餐会、夜会を時折主催していたが、さすがにマルティエナは手が回らない。来年からはルチナが婦人の集う茶会や昼食会を、マルティエナは夜会や晩餐会の手配をしていきたいところだ。
毎日のように届く大量の招待状に優劣をつけてスケジュールを埋めていく。一足早く領地に戻ろうと思っているので、殆どが断りの文を送る箱に積み重なる。
ルチナ嬢はいつ来るかな、と呑気に思っていると締め切った扉の奥から慌てふためく声が届いた。
「ご主様! 大変ですわ、ご主人様――!!」
カーチェの声だ。
いつも粛々と仕事をこなす彼女が慌てるなんて珍しい。
それも危険を知らせるような声音ではなくて、嬉々とした響きである。
どうしたのだろうと立ち上がった時には書斎の扉の前まで辿り着いているようだった。
慌ただしかった足音が消えたのですぐに分かる。
それでもカーチェはノックを忘れず、どうぞと声をかけると秒で開かれた。
「大変でございます、ご主人様!」
「うん、何があったの?」
落ち着いてと言っても効果はなさそうだ。それなら先に要件を聞いてしまって、一息つかせた方が良い。
階段を駆け上ったせいかほんのりと紅潮した頬は持ち上がっている。両手を胸の前で組んだカーチェが笑みを輝かせた。
「今し方、殿下がこちらにお見えになると急使から知らせがあったのですわ!」
「……うん? 殿下というと……」
「第二王子殿下です! すぐ側まで来られていらっしゃるのですって!」
「殿下が?」
先ぶれもなく、突然に?
もしや届いた手紙を見落としただろうか。
手元の文の山に視線を落として、首を傾げる。
昨日出席した公爵主催の夜会ではアスタシオンの姿はなかった。助手の業務が忙しくて都合がつかなかったらしく公爵は大層残念がっていたのだが、偶々昨夜だけ忙しかったのだろうか。今時期はどの学年も年始まりの講義ばかりなので日中の方が雑務も多そうなのだが。
「ご主人様、一刻を争いますわ! 御召し物を変えて、身なりを整えませんと!」
仕立て終えたばかりの服が届いたばかりですし、落ち着いたオリーブ色のスーツもお似合いでしたわ! と口早に続けるカーチェに苦笑いする。
「このままでいいよ。似合う上着を取ってきてくれる?」
青味の入ったグレーのシャツは肌触りの良いしなやかな素材で普段着に気に入っているのだが、真新しい艶がある。スラックスも目立たないストライプが入ったシンプルなものだ。
アスタシオンが王子らしく着飾る理由が状況からして思いつかないので、万が一外出に誘われても並び立てる服装だろう。
「むぅ……お待ちくださいませ」
不承不承ながら足速に部屋を後にするカーチェを見送って、マルティエナは正門側の街道が見える窓枠へと身を寄せた。
アスタシオンとは直接会う機会がほしいと思っていたところだ。昨日の夜会では会うことができなかったので、学院まで赴こうかと思ってもいた。
(もしかしたら殿下も同じ件かな?)
既に誰かを介して話が耳に入ったのかもしれない。
ルチナと婚約したことを直接伝えたかったのに――
(殿下が居る間にルチナ嬢も来てくれたら紹介できるんだけれど)
うーん、と首を捻っていると、二頭の馬が街道の脇をスピードを落としながら走ってくる。開かれた門の内へと入り、マルティエナの視界から消えていった。
「ご主人様、お待たせいたしました。二着ご用意致しましたが、此方がよりお似合いになると思いますわ」
「ありがとう、カーチェ。殿下も到着されたようだよ」
「まあ! お早いですわね。紅茶をご用意するまで少々お待ちくださいね。この日の為に殿下の好まれる茶葉を用意していたのですわ!」
「殿下の従者も来られたから、よろしくね」
「お任せくださいませ! エルジオも懐かしい再会に喜ばれますわね」
エルジオはアスタシオンの従者オットーを警戒し続けていた気がするが、カーチェがいれば和やかだろう。
乳白色の軽やかなジャケットに手を通して、マルティエナはアスタシオンが案内されているだろう応接間へと急いだ。
◇◇◇
さてはて、今の状況は何がどうなっているのやら。
見上げたアスタシオンの微笑みは涼やかながらも圧が重たい。伸ばされた腕は顔の横に手をついていて、片脚はマルティエナが座るソファに膝をのせている。
アスタシオンが離れてくれなければ身動きができない。カーチェは今し方紅茶を淹れて部屋を後にしたばかりだ。彼女の親切心から扉を締め切ってくれているが、今回ばかりは有難く思えそうにない。
「オーレン伯爵はシーク子爵令嬢にご執心で嫉妬深いと噂だよ。学生時代には婚約者がいたから遠くから眺めるだけだったとか、想い人を忘れる為に男女問わずたらし込んでいたとか。今後も口早に増えていくのだろうね。たった一日で凄い効果だね? オーレン」
一体何が彼をここまで不機嫌にさせたのだろう。
何となく思いついたものは自惚だと思うことにして、微笑んでいるのに瞳から光が消えているアスタシオンを見上げる。
「殿下にはこれまで幾度と親切にしていただいたのに報告が遅くなって申し訳なく思っています。ですが、ルチナ嬢は私にとってこの上ない契約相手だと思いませんか?」
カーチェが来る前にマルティエナはルチナと婚約に至った経緯を話し終えている。個人的な契約の上での結婚ということも全てだ。
婚約の手続きを早急に済ませ、貴族へ向けた発表をいつにするかと考えた結果、昨夜の夜会を利用した。
新聞に載せる手もあったが、社交期間であれば毎日のようにどこかしこで開かれる催しで直接紹介するのが主流だ。
何度かルチナと王都の店を巡ってみたのだが、見知らぬ異性がいても「マティアス様が隣にいてくだされば平気です」と話していたので、昨夜の婚約発表を皮切りに少しずつルチナを連れて出席する予定だ。男を前にすると腕に添えられた手に力は入るし、表情は張り付いた笑みに変わるのだが、線が細く儚い印象とは違って気持ちは上向きである。
「領地に戻った私を気にかけてくださっていたので、妻を娶ることでご安心なさると思ったのですが……祝福していただけませんか?」
言葉を重ねてもアスタシオンは変わらない。
期待していた反応と違って不安になる。
「それで? 彼女と結婚した後はどうするの。後継者問題はついて回るんだよ」
柔らかさを欠いた問いかけだ。
彼に連れられて足を踏み入れた禁書庫での一件を思い出す。
忘れ去っていた、恐怖を与える彼の姿を見上げながらマルティエナは浅く頷く。
「そこは勿論考えています。従兄に子が産まれたら養子にしようかと。私が子を産めたら最善なのですが」
それは難しいので、養子を迎えるほかない。
とはいえ子を授からない原因がルチナにあると噂されては困る。養子を迎えた事実は上手く隠蔽した方が良いだろう。自分に原因があると医師に証明してもらう手もある。
思考が数年後へと向かっていたマルティエナは、一段と圧が増えた空気に朧げになっていた焦点がはっと定まった。
「ごめん、オーレン。もう一度言ってくれる?」
無意識のうちにソファの奥深くまで後退していた。
それなのにアスタシオンとの距離は一ミリも離れたとは思えなくて、喉が震えた。
恐怖なんかじゃない。
「ですから従兄の子を」
「その後だよ」
「最善策は私が子を産むことだと思いますが、それは」
「オーレン。自分が言ってることが何を意味するか分かってる?」
「ええ、はい。ですから――」
アスタシオンの額が首元に埋まる。
柔らかな髪が首筋を滑り、吐き出された息に肌が跳ねた。
「なら――私の子を産んでよ。オーレン」
泣き出しそうな子どものように震えを噛み締めた声音が、肩口で押し潰されていた。
自然と手が動くのに行き先が分からず宙に浮く。数秒後には身を寄せたアスタシオンの胸元に当たっていた。
「殿、か――」
名を呼んで、熱い息が混じり合う。
ぞくぞくと、身の内が震えた。
焦点が合わないほどに近すぎる彼に触れた手は押しのけることができない。
「オーレン、誰か適当な相手を探すなんて私は許さないよ」
流れる金の眩い髪の隙間から、獰猛な眼差しが燃えている。アスタシオンは風の化身のような人だ。マルティエナが放った火種が、アスタシオンの纏う風で爛々と燃え盛っていた。
鼻先がぶつかる。
体温の熱とともに上がる息が、互いの中途半端に開いた口を行き交う。
触れてしまう――
視線を逸らすことを許さないアスタシオンの眼差しが、影をつくって降り落ちる。
窓から差し込む日差しによって金の髪が白く眩しい。だから、そのせいだ。抗えなくて目を閉じる。
共有する空気すら揺らす鼓動を感じ取った時、コン、コン、と場を裂く音が静かに響いた。
どっとアスタシオンの頭が抜け落ちたように肩口に埋まる。
マルティエナは音のない息を吐きだしていた。
たった一瞬で現実に戻ったのはお互い様だったらしい。
「はい」
只管に応答を待つ扉越しの執事へと上の空で返事をする。
どうぞ、と言わない限り王都の伯爵邸を管理する執事は戸を開かないのだ。
「ご当主様、シーク子爵令嬢がお見えになられました」
「すぐに迎えに行くから、そう伝えて。殿下に紹介したいんだ」
「かしこまりました」
足音は鳴らない。それもいつもの事なので、ルチナの元へと戻っているだろう。
既に何度か邸に来ているルチナは物静かな老齢の執事に大分慣れている。相手の人となりを知りさえすれば、恐怖は薄れていくようだ。警戒しなくて良いと、無意識の部分で判断できた相手に限られているが。
「オーレン、ここ一年で体重が減ったんじゃない?」
肩口でくぐもった声が問う。
「分かります?」
アスタシオンには見えていないのに、気まずい問いに目が泳ぐ。
食事を疎かにしていた自覚はある。カーチェだけでなくエルジオからも注意を受けたからだ。学生の頃は男の中に紛れているからか大食らいになっていたので余計だろう。
「分からないよ。君の優秀な魔法がそうさせているからね」
でもそうだと思った、と続けた。
「子爵令嬢がいれば君が休息を取れるのなら、祝福するしかないよね。彼女が優秀なことは私も知っている。安心だよ」
アスタシオンの微笑みは、目新しい空気を呼び込んでそよぐ風を感じさせる。
温かいはずなのに胸が疼く温度は消えていて、反対に目頭の奥がひりひりと熱い。
隙間から這い出てきた現実味のない感情には何度だって蓋をする。
「殿下にそう仰っていただけて、光栄です」
マルティエナも微笑んだ。
アスタシオンへのルチナの紹介は、当初に期待していたものだった。




