3.互いを想う契約を
シーク子爵からの招待は舞踏会が終わって一月が経った頃に届いた。
娘は領地で過ごしているとのことでマルティエナはシーク領まで赴くと伝えていたのだが、ルチナ自身が王都に来ることを選んだからだ。
子爵の文に同封されていたルチナの手紙には、一歩を踏み出せるきっかけがほしかったのだと記されていた。
オーレン伯爵邸に伺うとも書かれていたが、流石に親しくもない男の屋敷は居心地が悪いだろう。王都までの旅路も苦労したに違いない。
約束の時間に子爵邸を尋ねて来客の間で待つこと数分。子爵夫人に付き添われながら螺旋状の階段をゆったりと降りてきたルチナに、マルティエナは立ち上がって腰を折る。
「再びお会いできて光栄です、ルチナ嬢。お手紙も拝読いたしましたよ。私のことを覚えていらしたようで嬉しく思います」
手の届かない距離で立ち止まったルチナは人目を厭うてか、肌の露出をぎりぎりまで抑えていた。
首元まで覆うドレスの生地は光沢がなく重厚感がある。深い藍色の色味も相まって一見すると暗い雰囲気になるのに、軽やかさが漂っているのはルチナの白く透きとおるような銀の髪が映えるからだろう。
礼をとったことでクセのない真っすぐに伸びる髪がドレスの上を滑るように流れる。月夜の光を受けた雨粒の軌跡ようだった。
口を開きかけて、すぐに閉じられる。その僅かの間で彼女の緊張が伝わってきた。
マルティエナは静かに微笑みをのせて待つ。
「私の代で貴方様を忘れる者はおりませんわ。……有名でしたもの」
「私が有名?」
まさか、と思ったものの、普段親しくしていた者はアスタシオンを筆頭に学年外にも名が知れている者が多い。学生会入りしていたカストもそうだし、クレイグは不思議なことに学年問わず人脈が広かった。
結果として、有名な者の一人に数えられていたのかもしれない。
喜べない理由を思い浮かべたマルティエナを察したのか、ルチナは浅く頭を振った。
「貴方様がいらしたことで、カムデン侯爵様は随分と柔らかくなられました。貴方様のお人柄があの方を変えたのではと有名でございましたの」
「私がコルスタンを? ――そうでしたか。あの物言いが人を寄せ付けなくさせていますが、出会った当初から変わらず、私の優しい師でしたよ」
コルスタンは口の悪さで損をしている。そうは思っても物腰柔らかな姿は想像ができなくて、口元に指先を当てて笑いをかみ殺す。
社交シーズン始まりの舞踏会では第一王子に連れられてコルスタンも出席していたが、鋭い眼光だけで人を蹴散らしていた。マルティエナが声をかけても悪態は相変わらずで、元気に過ごしているようだった。
第一王子の采配で、国の支配下にあるカムデン侯爵領の管理に少しずつ携われるようになったらしい。
「私たちに分かるところまで引き出したのは貴方様ですわ」
ですから、とルチナが呟く。
胸元で組んだ両手が心の音を聞くように引き寄せられていた。
「貴方様には恐怖を感じないのではと。不思議ですね、他の方と何が違うのでしょう」
不思議でたまらないといった言葉に、マルティエナは微笑みだけを返す。
「では、近づいたらどうでしょう。恐怖を感じたら仰ってください」
離れていると言ってもマルティエナの歩幅で三歩の距離だ。一歩分距離を縮めては様子を伺う。
顔色は腕の良いメイクのせいで判別しにくいが、震えや怯えは見られない。
「できれば二人きりでお話させていただきたいのですが、構いませんか?」
間近に立つと、ルチナはマルティエナよりも僅かに小さい。微かに持ち上げた顔が言葉とともに頷いた。
マルティエナも頷き返して、背後に立つ子爵へと振り返る。
「……ティールームに案内しよう」
ルチナが同意をすれば別室で、というのは事前に決めていた。
子爵の見開かれた両目が何度と瞬きを繰り返して目の前の事実を受け入れている。
それでも一応動き出せはしたようで、今し方ルチナが下りてきた螺旋階段を数段登り、後に続くのを待っている。ルチナはマルティエナが先に歩くのを待っていた。
視線が向けられる中で、マルティエナは流れる前髪へと指先をかける。
(まだ早いかもしれないけど)
この場で断られても話は良い方向に進みそうだ。
そう判断して、後ろではなく先を見据えているルチナへと右手を差し出す。
「ルチナ嬢。私のエスコートは受け入れてもらえますか?」
マティアス・オーレンはどこまでも紳士である。
少なくともマルティエナにとっての兄はそうで、自分を怖くないと話す令嬢に手を差し出すのは紳士としての礼儀だ。マルティエナには体に沁み込んで馴染み切った習慣になっていた。
カチ、カチ、と時計の秒針が進む音が場を満たす。
固唾を呑んで見守っていた子爵夫人の驚愕が無言の中で響いた。
◇◇◇
給仕したメイドが部屋を後にしてから、マルティエナは横目で扉が数センチ開いていることを確認する。
開け放たれた窓からは心地良い昼下がりの風が流れ込んでいた。
膝に置いていた右手で文字を記して防音の結界を薄く張る。向かい合うルチナが弾かれたように口を開いた。
「魔法をお使いになられましたか?」
「やはり気づかれてしまいましたか。失礼ながら、盗み聞きを防止する魔法を施しました」
ルチナは魔力量は一般的なものだったが、魔力の流れを察知することに優れていたらしい。
全てが魔力量に比例するわけではないのは、精霊の意志があることの証だと伝えられている。もちろん、魔力量が多いほど精霊との疎通は容易になるのだが、魔力が少なくとも精霊から好かれている者はいて、ルチナはその恩恵で魔法の発動を視力に頼らずとも感じられる。
彼女本人や取り巻く状況を下調べして知ったことである。
「子爵からはどの程度聞いておられますか?」
「父が隠し事をしていなければ、全てに思います。貴方様には私との婚姻を望むに至る事情があると」
じっと逸れることなく向けられる瞳に、ゆっくりと頷く。どこから説明するべきか悩んで、テーブルを彩る色彩豊かな果実や焼き菓子、湯気の立つ濁りのない燕脂の紅茶を見下ろす。
淹れたての馨しい香りに意識を向けるだけで、体の芯が温まる感覚がある。
「折角ですので紅茶をいただきながらお話しませんか? 実を言うと私が緊張を紛らわせたいのです」
小首を傾げて見せると、口元に指先を添えて笑んだルチナがティーカップを持ち上げる。
静々とした優美な所作を眺めて、一拍遅れて紅茶を口にする。
彼女の自然と浮かんだ笑みは初めて見た。それに、二つしか違わなくとも年上の落ち着いた物腰がマルティエナに安心感を与えてくれる。
(やっぱり、私にとってはまたとないチャンスなんだよね)
学院で受けた選択科目の中で重複しているものは少なかった。マルティエナの思慮が足りていない面も、きっと彼女が補ってくれる。
「――私に触れて、どう思われました?」
ルチナの垂れ目がちの青い瞳がきょとんと開かれる。
触れても怖くないと初めに話していた。だからだろう。
「私に恐怖を覚えないことが不思議だとおっしゃっていましたね。貴女は無意識ながら私の本質に気づいていたのでしょう」
「貴方様の、本質……?」
繰り返される言葉に頷く。
「私には瓜二つの片割れがいます。表向きは病弱で療養中としていますが、実際は失踪しているのです」
マルティエナは微笑みながらも淡々と言葉を紡いだ。感情を削ぎ落として、端的な説明を続ける。
「私たち双子は闇の魔力を有しています。加えて、国も教会も知らない闇の古代魔法が使える。事実を明らかにしたらどうなっていたと思われます?」
「……危険視されるのではないでしょうか。貴族は恐れています。皆が、カムデン侯爵家のようにはなりたくないと」
「私は事実を隠すために、闇の古代魔法を使っています。そのおかげで毎日を過ごしていますが、今日は貴女に恐怖を抱かせないために本来の姿で参りました。ですから、何も不思議なことはないのですよ」
「それは――」
双眸とともに開かれた唇が戦慄く。やはり助手に選ばれていただけあって頭の回転は早い。
「失踪したのは私の兄です。私は兄が戻ってくると信じていましたし、父の後を継ぐ伯爵当主は兄だと当然のように思っていました。その居場所を守れるのは私しかいないとも。結果はこの通りですが」
ルチナは視線を逸らすことなく、静かな眼差しを向けていた。
「今はもう『マティアス・オーレン』は私です。例えこの先兄が戻ってきても、譲るつもりはありません」
感情を隠すのは得意だ。貴族の大半はそう。
けれど、彼女に見つめられると心の底を見つめられている気がする。
シーク子爵と同じだった。湖面のような静けさのある瞳を通して、見過ごしてきた自分に気付かされる。
「貴族間の婚姻は家同士の契約のようなものですが、私は貴女と個人的な契約をしたい。私は貴女の居場所の提供を、貴女は学院で培ってきた知恵の提供を」
勝手に気まずくなって、耳にかかる前髪を不必要に指で透く。
「貴女の身の安全は第一に考えますが、保証はできません。私は先代のカムデン侯爵とは違って冤罪にはなりませんから」
窓から入り込んだ風が白銀の長い髪を揺るがす。横髪が顔にかかって合わさっていた視線が途切れる。
はらはらと流れ落ちていった時には、ルチナは凪いだ笑みを湛えていた。
「どうして私に話してくださったのです? 言わずとも良かったはずです」
「騙してまで貴女を迎え入れたいとは思いません。それに貴女が口外する利点を考えてみたのですが、名案とは思えませんでしたのでね。私たちは対等に互いを利用しましょう。噂を消すにも、異性への恐怖を克服するにも、私なら力になれます」
能力を買っただけで、決して同情ではない。
そう言い含めたつもりだったのに、なぜかルチナの瞳が嬉しそうに細まる。
「私は父に話を伺った時から心に決めておりました。貴方様に如何なる事情があろうとも、例え恐怖に震えようとも、差し伸べられた恩に見合う行いをすると決めて王都に来たのです。貴方様に選んでいただいたこと、後悔はさせません」
断固として言い切ったルチナに不安は微塵もみられなかった。
心に傷を負った脆い女性を想像していたのに、芯が強く頼もしい。
「契約成立ですね。私も貴女に後悔させたくありません」
これから宜しくお願いします、と右手を差し出す。
握手のつもりがルチナは両の手のひらで包み込んだ。
「このまま、古代魔法を発動してみましょうか。私が怖くなったら、いつでも手を離してください」
空いている左の指先を唇に触れ、首筋に滑らせる。記した文字がじんわりと熱を生み出して、空気を吸い込む音が響く。
「怖く、なりませんか? これが知れたら、私はきっと――」
言葉は続かなかった。
ルチナの両手に力が加わって、空いていた隙間から空気を追い出す。密着した肌から伝わる柔らかな感覚に、いつの間にかこちらが守られてしまっていた。




