父が死んだ
・月日が経つのは早いもので、もうミンミンゼミがなく季節になった。近年は地球温暖化の影響からか、8月の平均気温は30°c後半が当たり前。
街ではスカートの短い女子校生がポカリ片手に大人達への不平不満こぼし、スーツ姿のサラリーマン達は顔にハンカチを当てながら電話越しで頭を下げている。
父が死んだのも、ちょうどこんな気候の日だった。
かくいう私、赤羽有紗は仕事の帰りに街中にある霊園によった。
今私が手を合わせているのは2歳の頃から大学卒業まで世話をかけた義理の父の墓。
父が死んでからはや7年。夫と子宝に恵まれて、間もなく35にもなるが、いまだにこの人のことはよくわからない。
父は演劇人だった。
演劇人といっても色々あって、劇作家、制作、製作、舞台監督、美術、大道具、小道具、それに俳優と、枚挙に暇がない。
劇団の主宰だった義父は作家や事務方としての役割が多かったが、頼まれればどんなオファーでも引き受けていた記憶がある。
腕前のほどはともかく、仕事でもプライベートでもあの人が誰かの頼み事を断っているシーンを、私は見たことがない。
「おれ、バカだからよぉ、演劇くらいしか出来ねぇんだ。」
父の口癖だった。酒が入るとよく自嘲気味にこう言っていた。
プライベートといえばとにかくめちゃくちゃで、朝早く出ていき夜遅くに帰る。
どこぞのホステスやら仲間の女優やらに家まで運ばれては、新しいお母さんだと大声で笑う。深夜の2時だったこともあった。
たまの休みに遊園地に連れて行ったかと思えば、ジェットコースターに乗り継いで自分が一番グロッキーになっている。
参観日には仕事を蹴飛ばしてでも現れ、教室で大声で私を応援してはひんしゅくを買っていた。
酒はよく飲む、タバコはよく吸う、女とはよく遊ぶ。よく笑う。
そんな父が好きで嫌いで、やっぱり大嫌いで、でも少し好きだった。
そんな父の周りには、いつも人がいた。
褒める人もいた。共感する人もいた。陰口や憎まれ口を叩く人も、真っ向から意見が合わない人もいた。
けれど、なかなか離れていかなかった。
義父が来る者拒まず去る者追う習性だったこともあるだろうが、みんなどこか楽しかったんだと思う。
私と父との間の、忘れられない思い出がいくつかある。
中学2年の頃、今では母と呼んでいる人と父が結婚する、三年ほど前だ。
私は父に連れられてある人の葬式に行った。
その人は、私の実の父親だった。
食事の席でうっすらと聞いた話によると、女に騙されて借金で首が回らなくなった挙句、ヤクザまがいの仕事を手伝わされて路地裏でボコボコに殴り殺されたと言う。
その時まで私はその人が実の父だと知らなかった。
育ての父は終始機嫌の悪そうな顔をしていて、その日だけは口数が少なく、食事の席ではずっと壁にもたれてタバコを吸っていたのを覚えている。
テーブルの上の食事があらかた空になって、皆引き上げようとした時だった。
「なぁお嬢さん、お前さんもそう思うだろ?」
作業着姿の初老の男性が、私の方に寄ってきた。後から聞いた話では、遠縁の親戚だったという。
「なぁ、あの野郎がくたばって助かったよ。あいつは親戚中の鼻つまみ者だったから」
酒臭い息が肩に吹きかかる。醜悪な赤い丸顔と生臭い笑い声がとても嫌だった。
「そういえば娘がいるって聞いたけど、大丈夫なのかね?もう結構大きいだろ」
「やぁねぇアンタ、職人になるなんて言って家を飛び出して、挙句無様に野垂れ死んだ男なんて勘当も同然だよ」
向こうのテーブルから男女の会話が聞こえてきた。
この頃の自分にとっては関係ない、どこかの大人が侮辱されているだけなのに、なぜだか無性に腹が立った。
「それもそうだな!そんな野郎のガキが世間様に出て、お役に立つはずもねー」
「死んだ人のことをそんな風に言うのは、良くないと思います」
声に出したつもりはなかったが聞こえてしまっていたらしい。
「何を、生意気な小娘だァ。そう、そういえばあの野郎も、お前みたいなつり上がった憎たらしい目をしてたな」
「やだアンタ〜。その娘あいつの子じゃないの?」
下品な中年女性の笑い声がした。
「いや何、まさか!いたとしても、あいつに育てる甲斐性があるわけゃねえよ!」
違いないと誰かが言って、どっと笑いが起こる。その空間の全てが嫌ですぐにでもそこから逃げ出したかった。
その後のことはよく覚えていない。
一人壁にもたれかかっていたはずの父が、いつのまにか私の盾になるようにそこに立っていた。
丸刈りの男性を殴り倒すと、テーブルに押し倒しひたすら殴りつけた。
男性も抵抗した。男性の方は酒瓶で殴ったり、背中を引っ掻いたりしていたはずなのに、父の方はまるで機械のように乱れぬ動きでひたすら殴り続ける。
その後は葬儀屋の係員達に止められ、故人の一友人に過ぎなかった父はその場で葬儀場から追い出された。なぜ警察沙汰にならなかったのか、今思うと不思議である。
「なーアリサ、俺ってダメなやつだよなぁ」
答えに迷って、思わず父の顔を見た。コンビニで買ったアイスをかじりながら、父は笑っていた。
口角は上がっていたのだが、目からは大粒の涙が流れていた。
こんな顔をする人間がいることを、生まれて初めて知った。
いろいろ聞きたいことがあったけど、それを問う勇気なかった。
冷たい風が吹きすさぶ中で、せめて元父の手を握った。
言葉に出さず、泣かないでほしいと伝えたつもりなのに、父はますますヒーヒー泣いてしまった。
手はゴツゴツしていたが、気が抜けて力は宿っていなかった。
父がどういう思いで、私をあの葬儀に連れて行ったのか。
あの人は最後まで教えてくれなかったけれど、故人が実の父であったということは、その翌年に知ることとなった。
真夏の下校途中にワンピースを着た女性に出会った。
気さくに話しかけてきて、カフェテラスで話をしようと言った。
私は少し警戒したが、美味しそうな新作ケーキにつられてついていった。
私はそれを深く後悔することになる。
お茶をしながら、彼女はいろんなことを教えてくれた。
去年の葬儀が実の父親のものであったこと。
彼女はその前妻、つまり私の実の母であること。
義理の父は大学時代の芝居仲間で、実の父と二人、母を取り合ったのだと言う。
大学2年の冬のこと。母は私を妊娠し、しかし学生の父にふたりの家族を養う余裕はなく、旧家の彼の両親はよりにもよって、「近所で噂になるから赤子を始末しろ」と言い出した。
やむなく実家と絶縁し二人遠くに出たが、無論やっていけるはずもない。
実当時家暮らしだった義理の父には、二人に比べて生活に余裕があった。
これ幸いと両親は、義理の父に私を預けたという。
今の再婚相手となら何不自由なく育てられるから、共に暮らさないかと誘いに来たと、四十近くなった母はそう話を結んだ。
私は凍りついた。
今淡々とこの人が話していることを聞いて、私がどう思うか、何を思うか、この人には全く想像などつかないだろう。
どの面下げて今、私の前に現れたのか。
こんな酷い人がいるのか、そんな人から私は生まれたのか、絶望とも怒りともつかない、一種の放心であった。
言いたいことはいろいろあったのだが、とりあえず首は横に振れていた気がする。
母は残念そうに笑うと、名刺と一万円札を置いて消えた。
両方をくしゃくしゃにしてポケットに入れた。
それらをどうこうするつもりはなかったし、できることならもう二度とその人に会いたくはなかった。
その日家に帰ってからは、父と口をきかなかった。
父は料理をしながらワープロを打ち、ああでもないこうでもないと唸っていた。
しばらく何も考えられずベッドに眠っていた。
「おい、飯」
「いらない」
「おい、ジャンプ」
「読まない」
こんな簡素なやり取りがあったものの、父は何も聞いては来なかった。後から聞いた話だと、私が母にあったことは知らなかったらしい。
それから2、3日。
飲まず食わずでベッドの中にうずくまって、母が置いていった名刺をずっと睨んでいた。
母親に文句を言いたかったこともある、父親に聞きたかった話もある。何より義父には言いたいことがいっぱいあった。
意を決してベッドから這い上がりふらふらしながらリビングに降りた。
父は珍しく酒を飲んでいた。
「何してんの?」
「おー!アリサよく降りてきた!お前も飲め飲め!!」
父は酒瓶を出してきたが、私がムッとしたのが分かったらしい。
「あーそうだお前まだ駄目だったな!こっちか」
私がジンジャーエールにも無反応なのを見ると、父はようやく真剣な顔になった。
「お前よォ、最近」
「何かいいことでもあった?」
「え?」
「何かいいことでもあったのかって。お父さんこの時間からお酒飲むの珍しいでしょ」
父はまるで何かを誤魔化すか、思い出すように指をならした。私にはそれがたまらなく腹立たしかった。
「おお、聞いてくれや!!実は、天王洲の銀河劇場で興業が決まってよオ」
「よかったね」
それだけ言って、私は乱暴にリビングを出た。バタン、と大きな音を立てて扉が閉まる。
父の顔は、見なかった、というか見れなかった。機嫌がいいと父は五月蠅いのに、その時は物音がしなかった。少なくとも、笑ってはいなかった筈だ。
その日からしばらく、私は父と口を利かなかった。
夜の街に出かけては言い寄ってくる男を吊り上げ、朝帰りも徐々に当たり前になった。
酒やたばこに手を出したのもその時だった。
めっきり学校に行かなくなり、二学期の成績はボロボロだった。
父はいつも起きて待っていたが、何も言わなかった。夜食だけを置いて、私のことをちらちら見ながらRPGにふけっていた。
まるで私から逃げるようで、その時はすごく腹が立っていた。
今思えば、あの人なりに色々と探っていたんだと思う。
私が目に見えてこれだけの非行に走ったのは、これが初めてだったから。
「お前よォ、なんで学校行かねーんだ。」
父の説教を耳が捉えたのは、天王洲の舞台が間近に迫った12月の初め頃だった。
「べつにいいじゃん」
「よかねーよ。単位落とすぞ」
まったく予想通りの反応で、びっくりするほど冷静な自分がいた。
「アンタにカンケーあんの」
「あるだろ、娘のこと関係にしねー親父がいるかよ」
この時、父はまだ一度も両親の話をしたことがなかった。それを突き付けるいいチャンスだったのだ。
「ほんとの娘じゃないじゃん」
父はゲーム画面から目を離し、私のほうへ振り返った。
いつも能天気な瞳には、焦りと驚きが浮かんでいた。
「何言ってんのお前」
「まだそうやって惚けるんだ」
「何の話だよ」
「先月ママにあった」
父は、すべてを察したように首を横に振って、ため息をついた。
「お前……それでふて腐ってたのか」
「だから何」
「なんで言わねえんだよあの女にあったって」
「いやそれこっちのセリフだから!アンタ十何年黙ってたじゃない」
怒りを通り越して笑っていたが、父はこめかみ一つ微動だにしない。
「あの女に何吹き込まれた」
「私アンタの子じゃないんだよね?吹雪の夜に、パパとママがアンタに赤ちゃんの私を押し付けてったんでしょ?!」
父は黙って立ち上がると、キッチンの戸棚からウィスキーを出した。ヤケ酒用の、スーパーに並んでいる安くて強めの一本だ。
いい兆候だ。この人は今、追い込まれている。
この際だ、二度と会いたくもない母さんに言えなかった事、全部ぶつけてやろう。
ずっと黙っていたんだから、この人だって共犯だ。
「ママってさ、ヤリ手のくそビッチ臭ムンムンだよね!むっかしからそうなの?アンタお人好しだったから、ママがちょっと泣いて縋ったら引き受けたんでしょ」
よっぽど傷つけて、二度とたてなくしてやるつもりだったが、一糸乱れぬ動きでアイスピックで氷を砕いている。
「アンタの人生虚しくない!?だってさ、昔はパパと二人でママのこと取り合ってたんでしょ?ホンっと、よくやるわ~~」
削った氷をグラスに放り、その上から安物のウィスキーを注ぐ。
「女奪っといて困ったら友達ぶるクソ男と、振ったくせにいい様に利用するビッチの娘だよ!?なんで育てるかな~!普通見限るでしょ!?私なら速攻庭に埋めると思……」
ドンっと大きな音がして、父が思い切りグラスをテーブルに叩きつけた。
「そんなこともあったな」
「え?」
「まあもう、どーーっでもいいんだけど!!」
当惑している私をよそに、父はいつもの大笑いをかます。
「どうでも、いいんだ?」
「俺の人生の今後に、何も影響しねーもん」
「あっそ!!!!!!!!」
じゃあ、もう勝手にすれば、と怒鳴ったところまでは、たぶん声に出なかったと思う。
少なくとも、あの人は追ってこなかった。今思えば、心のどこかで追いかけてくれるのを期待していた気がする。
コートの袖で涙をふきながら、もういっそ死んでやろうかと思った。それまでにないほど死にたくなった。
あの人にとって最も不名誉な死に方をしてやろう。
そこまで考えてふと、目の前の川に橋の上から飛び込んでやろうと一瞬思い立ったが、その日は東京でも珍しく雪が降った。
尋常ではない冷たさの川から翌朝発見されるのは御免だった。
いくらあのくそオヤジに復讐されるためとはいえ、最後にそんな苦しい思いをするのは嫌だ。
どうせ死ぬ度胸なんてない。なら、一層悪くなってやろうか。あの人がもう出世などできないよう。
上のグレードの仕事など来ないよう、あの人の経歴に泥を塗ってやればいいんだ。
その日から私は、家に帰らなくなった。
学校で以前からつるんでいた、割と良くない方の友達と夜な夜な遊び歩いて、明日帰りは日常茶飯時。
授業は何日欠席していただろうか?
街で見つけたあの人の舞台のチラシを破いて回るようなこともしていた。
楽しかった、というのとは少し違うと思う。
ただひたすらに楽だったのだ。
義父が私に関心を示してくれない現実。
母が心ない女である現実。
実父の気持ちをもう聞くことができない現実。
こうやって夜通し、馬鹿みたいに仲間と遊び歩いていれば、現実から逃げおおせることができた。
そんな喧しい死体のような日々が、何日続いただろうか。
それはある日突然崩壊した。
「これ、先輩がくれたやつなんだ」
高校の先輩がやっているバーに遊びに行った時、仲間の一人が薬物に手を染め、同じものを私に勧めてきたのだ。彼女の家はシングルマザーで、母親はホストに首ったけだった。
「すごく効くんだよ!アリサもやってみなよ!」
久しぶりに笑顔を見せた彼女の言葉に、マスターもニヤリと頷いた。
あの薬は、クラブで騒いでいる時の高揚感を常時味わうことができるのだという。
今にして思えば断固として断り、その場を立ち去るべきだった。
あの段階で、仲間達が異常であったことには気づいたのだから。
若く弱く、世間知らずだった私は、今一歩でその注射針を腕に差し込むところだった。
その時。
バーの入り口が乱暴に開いたかと思えば、ボーイをやっていた青年が乱暴に店の中で飛び込んできた。
というより、誰かに乱暴に投げ飛ばされたような状態だ。
ヒョウ柄のジャケットを着たボーイの青年は、泣きつくようにして先輩にすり寄った。
続いて店に入ってきたのは、サングラスをかけたスーツ姿の男。
「な、なんなんだあんたらは!」
先輩が怯えたようにカウンターから叫ぶと、スーツの男は一瞥をくれただけですぐに後ろを向いた。
「兄貴、ブツがありましたぜ」
黒スーツの男に兄貴と呼ばれたのは、後から入ってきた、白スーツの30代前半ぐらいの若い男。
黒スーツの男よりも身長が高くガタイもいいが、金髪をオールバックに仕上げ、舎弟と違ってふちなしのメガネをかけている。
「やっぱり、ここか」
白スーツの男は店の中を全て見回すと、注射器を持っている友人たちを一発ずつ殴り、注射器を取り上げた。
私の出番が来た時、私も殴られるかと思った。
だが男は、私を見て驚いたような顔をしたかと思えば、注射器だけを取り上げてその場で握りつぶした。
「見つからねェと思ったら……こういう遊びはいけないっすよ」
スーツの男は私を知っているようだった。
その時初めて気づいた。私もその男をよく知っていることを。
下北沢初の小劇場劇団にして、今や商業演劇にも進出している、劇団シルバーバッグのリーダー。
義父にとって最強の商売敵である。
にもかかわらず何度も義父と酒を酌み交わし、私自身何度も遊びに連れてってもらったことがある。
なぜ今まで気づかなかったか。
彼がスーツのヤクザを率いて、こんなところにいるはずがないからだ。
「おい、責任者を出せ、誰だ」
先輩はおじさんが現れたことで腰が引けたらしい。
だがおじさんは、先輩が一番に目をそらしたのを見逃さなかった。
おじさんが部下に裏口を封鎖させ、酒棚の手前まで先輩を追い込む。
「選べ。サツにしょっぴかれる、俺たちに消される。どっちだ」
もじもじと思い悩んでいた先輩に対して大声でカウントダウンを始めるおじさん。
ゼロになる前に、先輩は出頭しますと両手を上げた。
「他の連中呼んで。全員連れてけ」
スーツの男が頷くとほぼ同時に、ヤクザらしき男達が一斉に店の中に入ってきた。
仲間たちは必死に抵抗したが、鬼の形相で恫喝してくるヤクザたちにすっかり抵抗する気は失せているらしい。
私は止めようとしたが、なぜか体の力が抜けて、その場で倒れこんでしまった。
目を覚ました時。私は店のソファーで横になっていた。
「お目覚めスか、アリサちゃん」
吟醸のおじさんは、カウンター席に座りタバコをふかしていた。
「あれ、私……」
「お友達はつかまりました。ちゃんと更生すれば数年で出て来れますよ。ここのバーテンはそうもいかないでしょうけど」
「なんで?なんでそんなことするの!!」
「ここがウチのシマだからっスよ。シルバーバックはもともと用心棒が立ち上げた劇団ですから。チンピラ風情に街を汚されちゃ困るんです」
「じゃあ私はどこ行けばいいわけ!?ここ、私の唯一の居場所だったんだよ!?」
声量を一ミリも引き上げないおじさんに対して、私の声はどんどん大きくなる。
「彼らは取り調べで、薬のことも全部アリサちゃんのせいにしてます。そんな連中でも、ここはアリサちゃんの居場所ですかね」
「そんなことどうだっていいんだよ!!」
本当はショックだった。本当はどうだってよくないのに、偽りの居場所にすがりたくておじさんに食ってかかった。
「他にどこに行けって言うの!?どこにも私の居場所なんて……」
「お父さんがお持ちですから。色々あるでしょうけど一旦家帰ってください」
私はつけていたマフラーを床に叩きつけて叫んだ。
「それが出来ないからここにいるんだよ!おじさんだって本当はわかってるでしょ!あの人は自分の演劇のことしか考えてないんだよ!私がどうなろうとどうでもいいんだよ!」
「どうでもいい人間の為に、商売敵に頭下げますか?」
おじさんはポツリと言った私は耳を疑った。いや、厳密に言えば聞こえていたのだろうが、意味が分からなかった。
誰が?誰のために頭を下げたって?
「アリサちゃんが出て行った翌朝のことです。烏丸さんは俺んとこに頭下げに来ました。俺一人じゃ劇団ほっぽり出しても探すのには限界があるから、町で1番顔の利く俺に手を貸してくれってね」
「……嘘だよ。あの人がそんなこと……」
「してなかったなら、俺はアリサちゃんだろうが、彼らと一緒にしょっ引かせてましたよ。まあアリサちゃんはまだ物を体に入れてないってのもありますけど」
呆然としていた。
猛烈に自分のしていたこと、思っていたことの意味が分からなくなりあの人のことはもっとわからなくなった。
そこにあるのは嘘か本当かわからない、しかし嘘とは思えない事実。
あれだけライバル視していた吟醸のおじさんに、父は頭を下げたのだ。
次に出すべき言葉や行動が浮かばないでいると、おじさんはタバコを灰皿に押し付けて私に微笑んだ。
「表に一応車停めてますが、どちらまでお送りしますか?」
久々に玄関の扉を開けた私。父は珍しく、ザーサイをつまみに無言で缶ビールを煽っていた。
晩酌をするあの人は普段はもっとうるさい。
美味いとか不味いとか、聞いてもいないのにガンガン喋る。
凝視しているニュース番組の内容も入っていないらしい。
どうしようか迷っていると、父は驚いたように立ち上がる。
ゆっくりとこちらに向かってくるがその表情はうかがい知れない。
その時もまた、いつになく真剣な見たこともない顔をしていた。
次の瞬間張り手を食らった時は、一概に怒っているようには見えなかったから驚いた。
「どこ行ってたんだよバカ娘」
ポツリと言った。言いたかった不平不満があふれ出てきたが、結局口に出てきたのはたった一言。
「なんだよクソジジイ!!!!!」
「お前、さぁちょっと……えぇ……じじいはねえだろ!最近敏感なんだからやめてよ白髪とかさぁ」
家を出て行く前のいつものふざけた調子に戻った。
とてもとてもついていけなくて後はびょおびょお泣いているだけだった。
「あーもー悪かったって!ごめんひっぱたいたの本当ごめんな!ちょっとほっとしてついさぁ……もういいから座れよ、チャーハン炒めるから!!」
「そうじゃねぇよバカぁ……!!!!!」
「まあ色々あるよな。俺も色々あったよ」
私が何も言えないでいると、父はビーフシチューを器に注いで私の席の前に置いた。
久しぶりの父の少し焦げているビーフシチューは、苦くてコクがあって、何よりしょっぱかった。
鼻水をすすりながらビーフシチューを啜っていると、父は少し高い酒を冷蔵庫から出してグラスに注いだ。
それを仰いで、グラスで3杯ほど飲んだ時、徐ろに話し出した。
「この時期だったなぁ、ちょうど。サークル紅一点がすげー美人でさ。俺めっちゃくちゃアプローチしたんだよ、ノートテイクとか、飯奢ったりとかな?
告白したんだけど、恋愛に興味はない、って言うから諦めてたら、サークルのめっちゃモテてたやつと付き合ってな。大学出た途端に結婚するってんだから、参ったよ」
どこか遠くを見るような父の喋り方は、どんどん声の大きさを増していく。
何かを懐かしむような、博物館のガラスケースに入った、手の届かない宝物を見つめるような目だった。
「俺はそいつのことも大好きだったから手を引いたんだけど、その年のちょうどこのくらいの寒い季節にさ、赤ん坊連れて家に来たんだよ。預かってくれって言われた時、俺は不安でしょうがなかったけど、笑ってる赤ん坊の顔見たら、そんなことどうでもよくなっちゃってさー。こいつが元気でいてくれるなら、もう何だって犠牲にしてやるって言う……」
「なんでそれ、ずっと黙ってたの?」
「忘れてたんだ、ずっと前から一緒にいすぎて。ふと、たまに思い出すことがあっても、お前が元気に帰ってくるのを見たら、やっぱそんなことどうでもいいやって。
ごめんな、お前の方はこんなに悩んでたのに」
頭を下げたと思ったらグラスを仰ぎ、テーブルに置き直しては涙と鼻水を袖で拭く。
こんな情けなくて、愛すべき父を、私はこれ以上攻め立てることなどできなかった。
「売れてなかった俺を助けてくれたのは、お前の笑った顔だったんだよ。どうにもならなくて、死にたくなっても、お前がいてくれればとりあえず頑張れたから。俺を救ったのはお前だから。
自慢の娘以外の何者でもねえんだよお前は」
そこからもう涙と鼻水が倍以上溢れ出てろれつなど曲がってはいなかった。
それは私も同じで、その夜私たちは、笑ったり泣いたりを思う存分しながら冷蔵庫の中身をありったけで開いて贅沢な晩餐をした。
それから数十年後、私は父の劇団に入り、演劇界の覇権を賭けて戦ったり、世界の危機を救ったり何度もピンチに陥りながら、なんやかんやあって結婚して子供ができる。
その数年後に父は満足げになくなるんだけど、それまでのなんやかんやの話は、またいずれすることにしましょう。