旦那様と恋人
「旦那様を…恋人に…?」
「そうだ。」
上目づかいで戸惑いがちに、でもじっと見つめてくる瞳。
キスをされたことに気づいていないかのような呆然具合だ。
俺の腕は相変わらずダンスするかのように腰元から離れない。
聞かずとも困惑しているのが見て取れた。
「で、で、でできません…」
蚊のなくようなそれに俺はスッと目を細める。
ひぃ!と少しびくつく反応が楽しい。
目の前のコイツは慌てたように付け足した。
「だ、だって旦那様を降格だなんて…」
「降格…だと…?」
俺は瞬時にコイツの言いたいことを理解した。
今が夫なら恋人は降格。
わからないではない。
でも俺の求めているものとも違う。
コイツが来てから俺は変わった。
認めたくもないが今さら誤魔化せるわけもない。
でも、変わったのはコイツに対してだけだ。それもわかっている。
「お前はどうやら鈍いようだな。」
「…?」
「俺は今お前を口説いている。」
「…何故、旦那様が私を…?」
「そうか、わかった。」
「…?」
きょとんと首をかしげる。
可愛げというのか、惹かれるしぐさなのに今はただ苛立った。
「お前がそうくるならやはり離婚だ。」
「…り!!?い、嫌です!!!」
あっさり告げた俺の言葉にコイツは今度こそ本当に怯えていた。
半ば叫ぶように拒否されたが、思えばコイツがこんなに何かを強く主張するのは初めてのことだったかもしれない。
化粧をしていつもより大きく見える瞳にうっすらじわじわと涙が溜まってくる。
悪くない。
「だ、旦那様は私がお嫌いですか?な、なんでもしますから離婚は嫌です…」
「お前こそ何故そんなに離婚を嫌がる?」
「…え、なんでってそんなの…だって…私は…」
「仕事は正式に雇ってやる。今の場所が嫌なら斡旋もしよう。お前は自由だ。」
「…なんで、なんでですか旦那様…なんでそんなこと…私、旦那様から離れたいなど思ったこともありません…!」
殺し文句かよ、と思わず悪態をついた。
俺の腕にしがみ付きながらぽろぽろと零れる涙。
見惚れているのにも気づきはしない。
泣かせたいわけではなかったのに、無自覚とはここまで恐ろしいものか。
おそらくキスをしたこともコイツの中ではもう記憶の彼方だ。
俺は片手で涙を拭ってやりながら言った。
「お前は俺が好きか?」
「…え?な、なんでそんなこと今…」
ほら、やっぱりコイツはわかっちゃいない。
「賢いだけじゃ、やっぱダメだな。」
「!!?」
「ほら、今日はもういいから帰るぞ。」
「…そ、そんな旦那様…」
賢い云々は自分自身に言ったつもりだったが、何故かコイツの方がショックを受けていた。
しかし、コイツにも言えることか、と思い至れば訂正するのも面倒くさい。
ショックで半ば放心中のコイツを引っ張って俺はウィルズたちに挨拶をすることもなく屋敷へと帰った。
無理に抱くことならできた。
俺の意思があって呼び出せばきっとアイツはなんの疑問も無く部屋へと来ただろう。
だがそれで満足できる気など微塵もしない。
(それじゃ足りない)
自覚したからにはそんなものただ手に入れたって面白くもなんともない。
ましてや夜会での反応を見る限り満更でもないようだった。
焦ることはない。