おかしな、距離
「ぐずぐすするな。」
「はい、申し訳ありません。」
どうして私はここにいるのだろう。
書類の束を鞄に詰め込み、財布と、ハンカチ、ティッシュ、腕時計もしたし、身だしなみ…も多分大丈夫。
粗方脳内で確認していざ旦那様の後に着いて馬車に乗り込んのは今朝早くの事。
この季節にしては肌寒いなとは思っていたが、予め執事さんからそのことを聞いていた私は寝巻きに一枚多く着ていた。
それが良かったのか、今日も元気。
でもウィルズさんは違ったらしく、熱を出して寝込んでいるのだとか。困り顔の執事さんに訳を聞くと今日は旦那様と仕事関係で出掛けなくてはいけなかったらしい。
でもこれは珍しいことでもなんでもない。
以前にも何度か同じ状況はあったし、覚えている。
旦那様はその時確かお一人で普通に仕事をこなして帰ってきておられた。
今回もそうなると思っていたのだ。
いたのだが…。
「ウィルズが寝込んでいる。代わりに来い。」
まだ寝起きの私の部屋にノックもなしに入ってきた旦那様。
キャーなんて女子らしい反応は出来ないが驚きのあまり呆然とし固まってしまった私。かろうじて「はい」とだけ言えた自分を褒めてやりたい。
(寝巻きを、見られた)
恥ずかしい、穴があったら入りたい、とは思うものの入って来られたのは旦那様なわけで。世間一般的にはなんの問題もないどころか10ヶ月もいて寝巻きを見せたことがない方が問題にされるだろう。
そんなこんなで。
がたりがたり。
悪路とは言わないがそれなりに揺れる馬車。
行き先は旦那様が兼ねてから付き合いのある資産家なのだとか。
私は旦那様ほど良く働く貴族を知らないが、なんのために旦那様が必死に働いているのか知らされていなかった。
「言い忘れていたが、今月で予定していた仕事が全て完了する。来年から3年は王都に住むからジジイに詳しいことを聞いておけ。」
さらりと知らされたのは馬車の中。
ここでいう来年とはあと丸2ヶ月後のことだ。
(え、聞いてない…)
「私も、行くのですか?」
「当たり前だ。む、向こうはこちらより夜会が多い。お前が居なければ余計なものに邪魔をされる。連れて行くのは必然だ。」
「はぁ…」
視線を逸らし、珍しく若干どもったのが気になるけど、それでも当たり前のように言う旦那様。
ここで言う“余計なもの”とは恐らく旦那様に迫る女性達のことだろう。
旦那様が夜会に求めるのはあくまでも仕事のためのパイプであって、その期待が出来ない夜会には参加しない傾向にある。
(え、でもそれって)
奇しくも私がサロンへ通う期限と共に私は旦那様と王都に行く。
とすれば今頑張って恋人を作っても遠距離か、もしくは破局となってしまうだろう。
なんということだ。
遠距離恋愛の難しさは女学院でも嫌という程見てきた。
戦地に行く許嫁、王都に移住する恋人。
大抵は帰って来ない。
だと言うのに男達は言うのだ。「待っていてくれ、必ず迎えに来るから。」
私の統計では確か本当に帰ってきたのはその内僅か15%だ。非情なことである。
だから私は決めていた。
遠距離恋愛などするものではない、と。
だと言うのに。
(成果は出ていないとはいえ、ど、どうすれば…)
いや、ポジティブに考えよう。
サロンに通うのに期限は設けたけれど、何も恋人を作るかどうかに期限を設けたわけではない。王都で夜会が多いと言うのならばそこでまた恋人を探せば良いだろうし、それこそあのサロン的な場は王都なのだからないわけもない、はずである。
黒い噂なんてのはそこかしこにあるが、女学院で聞いていた黒い噂は王都のネタが断トツで多かった。それこそ浮気や不倫の巣窟のような地区まであるとかないとか…。
私の場合その不倫になってしまうのだろうけれど、最近はサロンで懲りてきたため私的にはもう“恋人”というハードルを設けるよりも“想い人を作る”方に転向するのがステップとして正解だと思いはじめていた所だ。
となるならば、王都の夜会にバンバン出て好みの殿方を遠目に物色するだけでいい。
そう思うと気が楽だしなにより楽しそうだ。
うんうん、ポジティブな方に向けられた気がする。
よし、と脳内を整理し終わる頃には目的の場所についていた。
石畳が続く豪勢なお屋敷。
入口のアーチには薔薇がいくつも咲いていて美しい。
旦那様がズカズカと慣れた様子で入って行く。資産家だと言う割に執事などの出迎えがないことに違和感を覚えながら私も旦那様について行った。
「おいジジイ、生きてるか…」
(え、この方もジジイ呼び?)
今朝の私の部屋同様、ノックなしに部屋に入り気品とは程遠い挨拶を投げる旦那様。
失礼ですよ、窘めたいがこんな場で部下が、ましてや妻である自分が夫で上司な人間に注意できるわけも無く、内心あわあわしながら私も続く。
広い書斎には天井まで所狭しと並んだ本棚とそこかけられた梯子。
壮大にシンプル、しかしそれでいて本棚にも机にも掘り飾りがある。
ちなみにこれらと比較して旦那様の選ぶ調度品のコンセプトを言うなら“完全にシンプル”である。正直に言えばこのお屋敷の調度品ぐらいの可愛らしい控えめオシャレ家具の方が好みだ。
「ジジイと呼ぶのはおよしなさいといつもいっているでしょう。」
声の主はこの部屋の中央に座していた。
銀髪の髪にほっそりしたシルエット。
結構なお年を召した御老人。
背筋はピンとしているが手には杖を握っている。顔は彫りが深くてシワもそれなりにあるがあと30年若ければ相当なイケメンだったに違いない。
「まあまあこりゃ美人さんだな。ウィルズはとうとうクビかい?ハッハッハ」
ニヤリとニヒルに笑いながら冗談を飛ばすあたり旦那様とは仲が良いと言えるのかもしれない。
美人さん、というワードに若干照れながら控えていると旦那様がちらりとこちらを見てまた前を向いた。
え、なになに何か言ってよ…あ、お世辞ってことかな。わかってますよそんなこと。
でもかっこいいおじいちゃんに褒められたら嬉しい。お世辞でも。
「ジジイ、仕事を終わらせた。来年には王都に戻る。」
「全くお前さんと来たら仕事を目の敵のようにしている。誰がそんなに急げと言ったんだ。」
「ここに誰が待ってるわけでもないだろ。」
「お前さんを待ってる女の子はわんさかおるのにな。」
(わんさか…)
「知るか。」
「それでその彼女が君の本命かい?」
「妻だ。コイツも王都に連れて行く。」
「おやおや、結婚式に呼ばれてませんよ?」
ん、と小首を傾げる御老人に旦那様は苛立ったように舌打ちをした。
「知っているくせに白々しい。」
(あ、知ってらしたのか)
旦那様風に言うならばきっとこの方は“食えない爺さん”なんだろうな。
そして若干旦那様の“妻呼び”に心ときめいたのは内緒である。
「屋敷などの手配、確かに承った。来週からでも行けるがいつがよろしいかね。」
「予定通り年明けでいい。」
「でもまさか君が奥さんを同行させるとは思ってなかったな。前はそんなこと言ってなかったじゃないか。いや実にいい兆候だね。」
孫を見るような優しい眼差しで旦那様に微笑む御老人。
子供扱いにひたすら苛々している旦那様も本気で怒ってる感じは一切しない。
「申し遅れました、私はエミリア・ハインリッヒと申します。突然の訪問で申し訳ありません。」
「あぁ、いや丁寧にありがとう。私はトーマスだ。突然でもいいんだよ、君も私の孫になったんだからね。」
「え?」
「トーマス・ハインリッヒ、俺の爺さんだ。」
本物のジジイだったのですね。
あ、いや失礼な言い方をしてしまった。
「お爺様でしたか。確かに言われてみればどことなく似ておいでですね。」
「私のせいで孫がこんなにモテるとはね、ははは」
「調子に乗ってんじゃねえ…」
その後はなんやかんやと仕事の話と転居中の屋敷の管理に関する引き継ぎなどをし、夕食をご一緒させてもらった。
何気に旦那様との夕食もこれが初である。
というか、旦那様もだけどまさかこのお年でばりばり仕事されてるなんてこの一族の勤勉さには驚かされる。
王都にある別宅もお爺様の部下が住み込みで管理しているらしく、いつでも引き渡せる準備を既に進めてくださっていたそうな。
「君がいるならもう一つ上のグレードの屋敷を用意させてもらうよ。」
この一族いくつ屋敷を持ってるのだろうか。