思い出とリミット
「縁談が決まりましたの。」
「それは良かった。」
凛とした声で言う彼女に旦那様は不遜な態度を崩さない。
(あれ、でも確かグラント様は旦那様に求婚中では…?)
「とうとう、貴方を諦めねばならない時が来てしまったのです。」
「…だからなんだ。」
彼女は紅茶を一口啜り、言った。
「思い出を下さいませ。」
空気がピシリと固まる。
(え、あ、思い出…とはまさかそういうことだろうか。)
「何故俺がそんな真似を…」
「娼館から呼ぶくらいなら一度私と、と言っているだけですわ。」
「ふざけるな、面倒になるとわかっている人間なんかごめんだ。それ以前にコイツが来てからそういう女を呼んでもいない。」
コイツ、とは私だ。
誤解がないように言うが私と旦那様の間柄は洗いたてのタオルより清い。
優雅な態度を崩すこともなく淡々と話すグラント嬢。
旦那様の不機嫌さは今や極悪と言っていい。
しんと静まり返る室内。
まぁ、仕事を邪魔された上にこのようになにやらハイレベルなことを迫られているのだから不機嫌なのも当たり前と言えば当たり前なのだが。
しかしながら。
(グラント様…なんとハートの強いお方でしょう…)
ずっと一途に、結婚や娼婦、どんな話を聞いても揺るがなかったのだろうか。
私ならきっととっくに心がおれている。
バッキバキに。
まっすぐな愛、そうこれはあれだ私の望む羨ましいほどの純愛なのではないのか。
恋い焦がれ、家にまで来られる間柄にも関わらず触れることも叶わない。
好きな人に邪険にされ、睨まれても愛を紡ぐ心。
そんな中決まった縁談とはこれいかに。
切ない…まるで数年前に大ヒットした純愛小説並の衝撃。
不憫すぎる。
私の目からは知らず知らずのうち涙が一筋零れていた。
泣くつもりなんてなかったのに。
泣いてるなんて気がつかなかった。でもそれに気がついたのは旦那様が驚いたような顔でこちらを見ていたからだった。
呆然とした顔から落ちる一筋の涙、出会ったばかりのご令嬢にこんな感情移入の仕方、旦那様には不可解に違いない。
「おい、…」
「旦那様…差し出がましいのはわかっております……しかし、しかし…」
驚きで丸めていた目を今度はひどくしかめ、旦那様の眉間に苛立ったようやシワがよる。
「…チッ…心配するな、すぐに追い返…」
「いえ、ダメです……どうか、どうかグラント様のお願いを聞いて差し上げられはしませんでしょうか…」
一瞬の間。
「は?」
「なんですって…」
私の感情移入の出所は心当たりがあった。それは私は女学院でみてきた光景のせいである。
想い人と添い遂げられないたくさんの子たちを。
中には遠くから見つめるばかりで会話を交わすことなく恋に蓋をする子や、想いだけは胸に秘めて学院を去っていく子たち。
想いは通じても親が望まなければ仲を引き裂かれる子も少なくはない。
でもグラント様は拒否されても拒否されても想い待ち続けてとうとうタイムリミットが来てしまったのだろう。
恋をしたことがない私でも「思い出が欲しい」という彼女の気持ちは痛いほどよく伝わった。
女とはそういう生き物だ。
思い出があればそれを糧に生きていける。
旦那様は割り切れるタイプのお方だ。
であるならば、グラント様が嫁いで行ってしまう前に、その夢をひとかけら叶えて差し上げてほしいと私は思ってしまった。
差し出がましい。
わかっている。
私が何をいう権利などない。
(馬鹿か私は…)
ざっと席を立つ。
「申し訳ありません、私が発言すべきではありませんでした。」
旦那様とお客様の顔も見ずに礼をして部屋を出る。失礼な態度であることも承知の上だった。
バクバクとうるさい胸を抑えて自室へと戻った。
(ただでさえ私は不介入…)
私とは大違いだ。
学院を出たのに恋に焦がれても出会えない。焦っているのかもしれない。
グラント様のような方ですらままならないのに。
女学院で涙に暮れる子たちを思い出している自分。
馬鹿みたいだ…。
私の目の前で、彼女の想いが少しでも叶ってくれれば、私も希望を持てる気がした。
でも旦那様にそれを押しつけるような真似をしてしまった。
瞬時に過ちを理解した。
良くない。良いわけがない。
後でちゃんと謝罪しよう、許してはいただけないかもしれないけれど。
「…不思議な奥様ね。」
「…俺にもよくわからん。」
「でも、大事になさってるのね。」
「どこがだ。どうせ契約書の件は知ってるんだろう。」
「有名ですもの。氷の君の“契約結婚”について知らぬ者はこの界隈ではおりませんわ。」
「ウィルズかジジイが触れ回ったからな。」
「あの内容でまさか上手くいくとはおもっておりませんでした。すぐに離婚なさると思っていたのに…時間切れは私の方とは。」
大きなため息を一つ零すと諦めたように笑った。
「私では、きっと耐えられないのでしょうね。」
「…お前が特別ではない。」
「そうね、貴方からの信頼だけで苦もなく生きられるのは特殊な子でしょうね。」
愛を求める相手に氷の君は適当ではない。わかっていた。
彼に期待せず、惹かれず、求めずで居られるなど無理に決まっているとたかをくくっていたのに、先ほど目の前にいた子はなんでもないように恋敵を部屋に招き入れ、美味しいお茶を出し、あまつさえ共感し涙を流して応援してきた。
「幸いアレは俺に微塵の興味もない。」
「あらあら、珍しく可哀想だこと。そうね、きっとそのうち貴方が追い回すことになるわ。いい気味。」
「そんなことになるわけ無いだろう。」
「あら、お気づきではなくて?貴方さっきあの子が泣いたのを見て慌てて私を追い返そうとしたのよ。そのやり取りもすぐ流されたし、泣いた原因も貴方の勘違いだっただろうけど、貴方は貴方なりにあの子を大切にしているのは間違いないわ。」
「…馬鹿なこと言うな。気のせいだ。」
「ふふ、こんな貴方を見れるなら…なんだか悪くないわね。」
先ほど美味しいと何気なく褒めた紅茶をもう一口。
冷め始めた紅茶だけれど豊かな香りは変わらない。
「で、どうすればお前の家とヒビを入れずに済ませてくれるんだ?」
「そうね、本当は抱いて欲しかったけれど…あの奥様に免じて私の好きな場所に連れて行ってくれればいいわ。思い出には違いないもの…。お父様にはそれで取り成してあげる。」
「行きたい場所を考えておけ。」
「ありがとう、奥様には謝っておいて。婚約パーティにはご夫婦でお呼びするわ。」
「何年も前の婚約破棄がこうも響くとは思わなかった。」
「婚約というより許嫁だけどね…。」
紅茶を飲み終えた頃ようやくお騒がせな令嬢は自分の屋敷へと帰って行った。