29 一族の掟
夜になり、シリウスとガリギュアは、火傷だらけの体を引きずるように宿屋に戻ってきた。
店主の死体がない。魔物が食べたのかもしれない。シリウスは気分を悪くした。
シリウスのほうが軽傷であり、ガリギュアを支えながら宿屋に戻った。
魔物は、執拗には追ってこなかった。
火ダルマになって逃げ伸び、火を消した後、魔物に見つかっても、魔物は攻撃してこようとはしなかった。魔物の攻撃姿勢はあくまで一時的なもので、その場さえ乗り切ってしまえば、追いかけてはこないのかもしれない。
別の理由があるのかもしれないが、シリウスには判断できなかった。ガリギュアに相談するほど、打ち解けてもいなかった。
襲われる心配はないかもしれないとは思っても、明るいうちに宿屋に戻る気にはなれず、辺りが暗くなるのを待った。
闇にまぎれ、宿に戻ると、二階の窓が破壊されたからか、空気が冷たかった。
店主一人で宿を切り盛りしていたとすると、精霊使いたちと王女以外は誰もいないことになる。
二階に上がる。血の匂いが鼻を突いた。シリウスは破壊された窓の近くに、乾いた血だまりがあることを発見した。
「……誰か負傷したな……魔物が襲ったのか?」
「知らん」
ガリギュアはそっけなく言った。
シリウスは炎に巻かれる準備をしていたが、ガリギュアにとっては突然の惨事だ。
兜をしていなかったので眉は燃え尽き、髪もほとんど失った。艶やかな黒髪が、焼け出されて坊主頭になり、顔も煤で真っ黒だ。
ガリギュアは街中で顔を洗おうとしたが、顔がわからないほうが見つかりにくいと言って、シリウスがとめた。シリウスは面頬をつけていたため、兜を脱げば外見にはほぼ変化はない。
「エリス! ユーリー!」
「モーデル!」
シリウスとガリギュアの二人の声が重なるように響き、二階にある一番の奥の扉が開いた。灯火を持ったアルバ王女と、ユーリーが顔を出した。
「無事だったか。エリスはどうした? 誰か怪我をしたのか?」
「エリスが」
呟きのようなユーリーの声に、シリウスはすぐに反応した。疲れており、痛むはずの体で、駆けるようにユーリーに向かう。
「どこだ?」
「こっちへ」
アルバが手招く。
「モーデルは!」
ガリギュアに対して、ユーリーが冷たい視線を投げかける。
「そこの部屋」
アルバとユーリーがいた部屋より二つ手前の部屋を指差し、ユーリーはシリウスが部屋に入ることを見届け、扉を閉ざした。ガリギュアの動きにはまるで関心が無いようだった。
枕元の小さな明かりを受け、ベッドの人影は蝋人形のように見えた。
風色の髪は血で汚れ、一部は固まっていた。
透き通るように白かった肌は、今は無機的に白い。美しかった。だが、シリウスには、違って見えた。
「エリス……」
駆け寄るように近付きざま、エリスが横たわるベッドの横に膝をつき、シーツからこぼれた手を握った。
手は冷たい。だが、体温はある。
体温は低い。それでも、下がりきってはいない。
「ユーリー?」
若き水の術者は、振り向いたシリウスにほほ笑んで見せた。
「生きているよ。大丈夫。きちんと術を施したもの。心配ないよ。安定している」
「ありがとう」
「シリウスにお礼を言われることじゃ……男が泣いたの、初めて見た」
「泣いてない」
シリウスは、エリスの冷たい手に、自分の額を押し当てた。
「泣いているよ。ねぇ」
ユーリーがアルバに同意を求めたようだが、アルバは言葉を発しなかった。
シリウスはエリスの手を自分の頬に押し付けた。エリスの手が、シリウスの頬を撫でた。
「……エリス?」
「駄目だよ、シリウス。今は体力を回復させることが優先だよ。寝かせてあげなくちゃ」
水の術者としてユーリーが止めようとしたが、風の術者は自ら頭を動かし、シリウスの姿を求めた。
「……シリウス……」
弱弱しい。だが、しゃべった。
もう眠りからは覚めていた。
ユーリーの言う事が正しいとわかってはいた。
シリウスは、エリスに眠るよう言わなければいけない。
だが、そうはできなかった。もっと声を聞こうと顔を近付けた。
エリスの顔色は悪い。それでも、ただ眠っている時よりはずっと綺麗だと思った。
「……シリウス。よかった、無事だったのね……」
「無事じゃないのはエリスのほうだろう。心配したんだぞ」
「……どうして泣いているの?」
同じことをユーリーにも言われた。今度は、否定しなかった。
「それは……」
「私のため?」
「そうだ」
エリスは笑った。手がシリウスの顔をもてあそぶように撫で、また、浅い眠りに落ちた。
静かに胸が上下する。
シリウスは立ち上がった。
「ユーリー、すまない」
「んっ? どうしたの?」
「やっぱり、俺は泣いていたらしい。さっきは嘘をついた」
「わかっているよ」
年上の男のあまりにも素朴な物言いに、ユーリーはあきれたように苦笑いを返した。
「魔物か?」
「ううん。違う」
エリスの眠りを妨げないように壁際により、床に座ったシリウスは、椅子に腰かけるアルバとユーリーを見上げながら口を開いた。
「何があった? 誰がエリスを……」
シリウスの手が、自然に腰の剣に伸びていた。金属がむき出しになった剣の柄を握る手に、血管が浮かび上がる。
「モーデルだよ。暗殺用の小刀で、エリスを刺した。私が近くにいなかったら、きっと、エリスは死んでいた」
ユーリーの表情からして、冗談ではない。冗談でそんなことを言う娘ではない。
シリウスは視線をアルバに転じた。アルバは、小さくうなずいた。
「モーデルか?」
「うん」
「他の術者の壁となるべき、金の術者か?」
「そうだよ」
表情なく、シリウスが立ち上がった。
「さっきの部屋だな」
「うん」
「待ちなさい、シリウス。モーデルは、もう報いを受けました」
アルバが止めた。シリウスが見たのは、ユーリーだった。
「死んだのか?」
「生きているよ。まだ」
「そうか」
シリウスは剣を引き抜いた。
「待ちなさい!」
追いかけてくる声に、肩越しに王女を見つめるも、シリウスは呟くように告げた。
「王女様は、早く王宮へ行くといい。自分の仕事をすることだ。これは、俺達精霊使いの問題だ。守るべき術者を傷つけた金の術者は死罪とする。しかも、エリスは『風の束ね』として、風の術者の長となるべき術者だ。許されることじゃない。ユーリー、お前もわかっているはずだ。どうして殺さない」
「エリスが止めたから……」
「エリスなら止めるだろう。そんなことはわかっている。だからといって、見過ごしていい問題じゃない」
精霊使いの村で産まれ、育った者は、シリウスのような考え方を徹底的に叩きこまれる。金の術者は使い捨ての壁にすぎず、守るべき他の術者を傷つけることなど、あってはならないのだ。
「結局、シリウスは掟から逃れられないのですね」
アルバ王女が落胆したように口を開いた。
「逃れる必要がどこにある?」
シリウスは迷わず答えた。
「エリスが悲しむでしょうね、私もですが」
茶色い髪を揺らし、アルバが背を向けた。シリウスは答えを見出せず、固まった。
――どういう意味だ?
言葉にできなかったのは、アルバの反応が怖かったからだった。
掟から抜け出したいという自分の気持ちを、素直に認めるのが怖かったのだ。
この任務が終わったら。そう思っていた。
今はまだ、その時ではない。
「ユーリー、俺はどうしたらいい……」
聞くべきではない。ユーリーは一族全体を率いることになるかもしれない身だ。
それでも、聞かずにはいられなかった。
水の術者は明快に答えた。
「シリウスが正しいに決まっているじゃない。だから、私も殺そうとした。とどめを刺そうとして……エリスの治療に力を向けることを優先したんだ。仕方ないじゃない」
「そうだな。悪かった」
シリウスは大人に成りきれない少女に、深々と頭を下げた。
ユーリーを責めたことだけではない。自らの立場に迷いを生じたことに、謝罪した。
エリスへの思いは別にしても、果たすべき義務は貫かなければならない。
「では、エリスを頼む」
「うん」
もはやアルバ王女の存在も気にならなかった。シリウスは扉を開けた。
そこに、毛髪を火で焼かれ、禿げあがった頭に火ぶくれをつくったガリギュアが立っていた。
「モーデルが死にそうなんだ」
ガリギュアの言葉は、部屋にうつろに響いた。
「死んでいないのか?」
「当たり前だ!」
シリウスに怒鳴りつけ、ガリギュアは室内に視線を向ける。ベッドの隣に立つ、ユーリーに目を止めた。
「ユーリー、モーデルが死にそうだ。助けてくれ」
駆け寄ろうとしたガリギュアの肩を、シリウスが掴む。
凄まじい形相で振り返ったガリギュアを、シリウスはさらに険しい目つきで睨み返し、壁に叩きつけた。
「何の用だ! 邪魔をするな!」
わめきたてるガリギュアを、シリウスは壁に押し付ける。
「モーデルはエリスを傷つけた。死んで当然だ。ガリギュアはモーデルと仲がよかったな。信用できない。エリスにもユーリーにも、近付けさせるわけにはいかない」
「モーデルが、エリスを?」
「ユーリーがいなければ、死んでいた!」
ガリギュアの視線が泳ぐ。金の術者はみな、徹底的に叩きこまれている。他の術者を傷つけることが、どれほどの罪か。
「待て。モーデルは……アルバ王女を殺そうとしたんだ。エリスを傷つけようとしたわけじゃないはずだ。そうだろ? ユーリー?」
喉元を押さえつけられ、苦しそうに喘ぎながら、ガリギュアはシリウスの背後の少女に語りかけた。
「うん……たぶん……」
「そんなことは関係ない」
風の術者を傷つけた事実は揺るがない。
「わかっている……だが……モーデルは精霊使いの掟を裏切ろうとしたわけじゃない。むしろ精霊使いを守ろうとしてやったことだ。いや……俺達の国、全部を守るためにやったことだ」
「……どういうことだ?」
突然話が大きくなったため、シリウスは眉を寄せた。ガリギュアを壁際から離すが、代わりに床に転がした。
剣を引き抜く。切っ先をガリギュアに向け、先を促した。
「その女は、国を魔物に売ろうとしているんだ」
アルバ王女を指差し、ガリギュアが叫ぶ。
シリウスはアルバを見た。ガリギュアから視線を離しても、剣を抜いたシリウスに死角はない。
「エベリン卿がそう言ったのですね」
「ああ……アルバ王女は条約で魔物に国を渡そうとしている。条約を結ぶ前に殺さなければ、国は魔物に乗っ取られる」
「なぜ、そんなことを私がしなくてはならないのですか?」
「もし、そうならなくても、王女の国は戦争に巻き込まれて、解体される。そのためには、王女が条約を結ぶ前に殺さなくてはならない」
「世迷言です。シリウス、信じてはいけません」
アルバが踏み出した。
シリウスに近付いてくる。
シリウスは混乱した。政治のことなど考えたこともなかった。護衛している人間が何を考えているか、どうでもよかった。
「そんなこと、関係ない」
シリウスの結論だった。剣をガリギュアに向ける。
シリウスの背に、アルバが手を触れた。体を寄せるのを、背中で感じた。
まるで、シリウスの体温を感じ取ろうとするかのようだ。鎧を着たままなので、それは叶わないはずだが。
「シリウス、その女に惑わされるな」
「『女に惑わされる』? 俺がそんな……」
振り向こうとしたシリウスは、まじかにアルバの顔があるのに気付いた。
とても、近かった。
輝くような澄んだ瞳で、シリウスの顔を見つめていた。
「どうした?」
シリウスが、アルバに尋ねた。アルバは、囁いた。
「私を信じて。私は、あなたを信じています。思い出して。平原でのこと」
アルバは、自分の唇を指で撫でた。シリウスは唇の柔らかい感触を思い出した。
「シリウス!」
水の術者、ユーリーの激しい声が聞こえた。シリウスが振り向くと、ユーリーが湯気を立ち昇らせて睨んでいた。
「な……なんだ?」
「エリスに言うよ」
「え……ちょっと待て……俺は何も……」
シリウスは慌てた。混乱し、意識が逸れた。
ガリギュアが立ち上がるのを許し、アルバを背に貼り付けたまま、シリウスは戸惑った。
「シリウス」
ガリギュアの声は、むしろ落ち着いていた。剣を引き抜く所作にも、迷いはなかった。
シリウスはアルバを丁寧にどかせ、対峙した。
「俺はモーデルを助ける。お前が邪魔をするというのなら、殺す」
「では、やむを得ないな」
「言っておくが、シリウス、俺とモーデルは、ティエラの指示で動いている。この意味、お前もわかるな?」
光の術者ティエラも、一族で最も強い力を持つ術者だ。俗世間に積極的に関わろうとする悪癖さえなければ、いつ光の術者を束ねる地位についてもおかしくはない。
「なるほど……だが、ティエラはどこにいる? 何をしている?」
「アルバ王女を殺すことが、まず第一の目標だ。だが、王都は広い。発見できるかどうかわからなかった。ティエラは今、一人で王宮に侵入している。王女の殺害に失敗した場合、この国と魔物の繋がりを突き止め、この国ごと魔物に飲み込ませるためだ」
「……私は魔物に国を売るなんて考えていません。魔物は労働力として手頃だから、魔物を使役する国に国力では敵わないから、国の繁栄のために……」
「あんたは! この国で何を見た!」
ガリギュアが剣を構え、構えたまま、叫んだ。シリウスは動かなかった。動けなかったのだ。
シリウスがするべきことに変わりはない。だが、ガリギュアの言い分を聞いてみたくなった。ガリギュアは続けた。
「魔物がどれだけ凶暴で救いのない連中か、俺とシリウスは知っている。俺とモーデルは、魔物が……元々人間だったものを、無理やり変えられたことを……知っている」
「嘘です! 魔物と人間は違います。魔物は凶暴ですが、人間が上手く操れば、これほど便利な道具はありません!」
「本気でそう言っているのか? 俺とモーデルは、この宿にいた魔物を殺した。宿の主人が、変わり果てた妻だと言って、俺達を魔物に殺させようとした。嘘じゃない。もし、俺が嘘をついていると言うなら、この町の状況をどう説明する? 確かに建物の中に人間はいるだろう。だが、出てくることもできない。魔物がうろついて、恐ろしくて窓もあけられない。あんた、自分の国をこんなふうにしたいのか!」
「……そんなこと……」
健康的な茶色い肌を蒼白にした王女に肩を貸し、シリウスが支える。ガリギュアが吐き捨てた
「もういい。モーデルには時間がない。シリウス、ユーリーを貸してくれ。ユーリーを傷つけても意味がない。絶対に、そんなことはしない」
「それとこれとは、話が別だ」
「……単細胞め……」
二人の金の術者は同時に床を蹴り、剣と剣が高い音を立てた。




