28 暗殺
「先ほどから、何事なのです?」
化粧を施し、王族としての正装に身を包み、アルバは部屋の戸を開けた。
かなり前から扉の向こうの騒ぎには気付いていたが、身支度に時間がかかって出てこられなかったのだ。
時間がかかったのは衣服でも化粧でもなく、護身用の武器をどこに隠すかということだったが。
「なんでもないわ」
エリスの風色の髪が、赤く輝いて見えた。
アルバは王族の家系の伝統で、茶色い肌と髪、黒い瞳をしている。これは正当な血筋を表す、誇り高いものだと教えられてきた。
だが、エリスの風色の髪と白い肌、空色の瞳は憧れだった。誰にも言えないし、言ってはならない。
そのエリスが、背を向けたまま振り返りもしない。
「なんでもないことはないでしょう。どうしたのです?」
窓が壊れ、熱風が噴き上がる。エリスの髪があおられ、舞い上がる。ユーリーは壁に隠れるように覗きこんでいたが、エリスは微動もせずに往来を見下ろしていた。
「魔物が……苦しんでいます」
「魔物?」
アルバに直接関係のあることだ。自分の国に招こうとしているのだから。
アルバはエリスの背後に張り付き、見降ろした。
凄まじい光景だった。
全身に火がついた無数の魔物が、もがき、苦しんでいた。絶命している魔物も多い。
魔物が火に弱いというより、生き物なら普通は死ぬだろう。魔物が生き物かどうかはわからないが。
「何があったのですか?」
「事故です。たまたま、風に流された油に、火がついたようです」
言いながら、エリスの視線は一点に吸いつけられていた。
「……あれは?」
「シリウス! 早く!」
まるで夢遊病者の寝言のような語り口から、エリスは急に正気づいたように叫んだ。
炎に巻かれた二人の男は、懸命に魔物を振り払っていた。
男たちも火に巻かれ、無事なはずはない。剣を振り回し、動揺した魔物たちを次々に斬りつけて行く。
「早く! こっちに! ……どうして?」
シリウスもガリギュアも、宿屋から離れて行く。エリスの声は焦燥していた。
二人の姿は、建物を曲がり、見えなくなった。
「決まっているさ。あんたを巻き込まない為にだよ。あの二人が宿屋に逃げ込んだら、魔物たちにあんたも襲われることになる。だろ?」
「モーデルもね」
エリスは、黒髪の女性に鋭い視線を投げかけた。
アルバはその存在すら気付かなかった。やせ細り、黒い髪を短くした女は、エリスの隣では霞んで見えた。それほど、風の術者の存在が大きく見えた。
モーデルと呼ばれた女の顔は、見たことがあった。一度見た臣下の顔を忘れないのは、立派な王族としての勤めであるが……。
「……誰です?」
結局、思い出せなかった。黒髪の女は、恭しく臣下の礼をとった。
「精霊使い、金の術者モーデルと申します」
「ああ……エリスやシリウスの仲間ですね。そう言えば、シリウスはどうしたのです?」
アルバも往来のシリウスは見えていたが、精霊使いのエリスやユーリー以上に、できることはあるはずもない。二人がいるのだから、心配することはないだろう。ただ、何が起こっているのは知りたかった。
「大丈夫です」
エリスが振り向きながら応えた。
正装をしたアルバを初めて視界に入れたからか、驚いた顔をした。
エリスの表情が、アルバを愉快にさせた。
立場上、エリスは王族の正装を見たことがあるはずがない。そのエリスが言葉を失うのは、アルバの権威と美しさに呑まれたことを意味する。
アルバが愉快になったのは、王族なのに、最下層の精霊使いに外見上では引けを取っているような気になっていたのだ。
だから、気付かなかった。同じ精霊使いのモーデルが、アルバに握手を求めていた。
アルバはエリスに気を取られ、モーデルをよく見もせず、ただ手だけに儀着いた。伸ばされた手に疑わず、手を差し伸べた。モーデルに強く握られ、握り返した。
アルバはエリスに笑いかけた。手を握っているモーデルではなく、驚き、称賛する表情の風の術者に。
だから、気付かなかった。モーデルが腕に力をこめたことに。
握手した手が強く引かれ、アルバは体勢を崩した。モーデルに倒れかかった。
エリスの表情が変わった。アルバの視界が、風色に埋め尽くされた。
エリスの髪だった。
――……やっぱり、綺麗……。
素直に認めた。
「エリス!」
ユーリーが叫んでいた。
モーデルが立ち上がった。
手には、血に染まった小刀を握っていた。
廊下が、血に染まった。
エリスの血だった。
「エリス、邪魔をするな!」
モーデルが叫び、風の術者を踏み台に、アルバに小刀を突きつけた。
アルバは咄嗟に、崩れるエリスに覆いかぶさった。
風色の目の前が、赤く染まった。顔を上げるアルバの目の前に、モーデルが横倒しに倒れた。
モーデルの小刀は、空を掻いた。
モーデルの腹部に手を押し当てた姿勢の、ユーリーがいた。
大量の血を吐き、目からも血を流し、モーデルが痙攣していた。
「……ユーリー……やめて……」
「でも! エリス!」
水の術者が手を離すと、モーデルはぐったりと動かなくなった。エリスが腕に力を込め、自分の体を持ち上げる。腕が震えていた。
「動かないほうがいいわ」
アルバは、それ以上言えなかった。自分はなんて無力なのだろうと思った。
旅を供にし、王宮では造ることができなかった友達を得た気分だった。
その友達が、自分を庇って負傷し、大量に出血しているというのに、ただ声をかけることしかできない。
「……私は大丈夫」
エリスの顔は蒼白で、声が震えていた。とても大丈夫には見えなかった。
「……ユーリー……お願い……」
「うんっ!」
モーデルをそのまま転がし、水の術者がエリスに寄り添った。
アルバがエリスの体を支える。力なく、もたれかかってきた。
仰向けに抱き抱える。
風の術者の薄い衣が、べったりと血で汚れていた。アルバは顔をそむけた。
血は苦手だった。直視できなかった。
ユーリーが迷わずエリスの手を取り、もう片方の手を腹部に当てた。
「……モーデルは?」
「エリス、喋っちゃ駄目」
ユーリーの厳しい声を、アルバは初めて聞いた。
「……私は大丈夫よ。だって、ユーリーがいるもの……」
「だけど、状態が安定するまで、駄目」
「……モーデルは?」
「生きているよ。エリスが止めたから、殺さなかった」
「……そう……良い子ね……」
エリスが震える手で、ユーリーの頭を撫でた。意識がもうろうとしているのだろう。
アルバはただ、唇を噛んだ。
「大丈夫だから! 誰も死なないから! エリス、黙って」
「……ええ……」
風の術者の瞳が、徐々に閉ざされる。アルバの腕の中で、エリスの体は人の体温とは思えないほど冷たかった。
「ユーリー、血を流し過ぎているわ」
口を挟んだアルバに、ユーリーは鋭い口調で反応した。
「わかっているよ。これぐらいじゃ、死なせない」
「ユーリー……」
「何?」
集中しているのだろう、水の術者は目を閉ざしていた。アルバが話しかけても、身動きはしない。ただ、言葉のみで反応した。
「あなたは、何をしているの?」
「……今、答えなきゃダメ?」
「……ごめんなさい」
ユーリーは集中している。話などしたくないのだ。友達だと思っていても、自分は部外者なのだと痛感させられた。
外であれだけ勇敢に戦っているシリウスも、エリスのためだから命を懸けているのだ。
たとえ、結ばれることは無いと諦めていてさえ、無私を貫くことができる男を、アルバは他に知らなかった。
アルバ本人がシリウスをどう思っているのか、自覚はなかった。ただ、シリウスはできればずっと近くにいてほしかった。
アルバは黙ってエリスの体を抱いた。
冷たい。
だが、呼吸は安定している。
エリスの体を抱き、自らのぬくもりを伝えようとしているかのように、アルバは包み込んだ。
「もういいよ。何を聞かれたんだっけ?」
外の喧騒も収まったころ、ユーリーが口を開いた。
魔物がどうなったのかは解らない。
エリスを抱いたまま、アルバは動けなかった。宿屋に入ってくる魔物がいない以上、とりあえずは安心なのだろう。
「エリスは大丈夫?」
「うん。大分安定した。もう、自然に回復すると思う。傷も塞がっているはずだよ」
「……どうやって?」
「精霊使いの術だよ。決まっているじゃない」
危ない状態を脱したとはいえ、術の最中のユーリーの口調は冷たかった。
アルバには理解できなかったが、当たり前のことらしい。アルバが全く理解できなかったことを察したのか、ユーリーは説明を加えた。
「私は水の術者だから、水の動きを操れるの。大量の水は無理だけど、緩やかな流れをちょっと変えるぐらいはできる。人間の体の、七割ぐらいは水だもん。ちょっと暴れさせれば、そこのモーデルみたいになるし、怪我をして、出血しても、体の中の水を正しい流れに戻してあげれば、傷ついていても正常に流れるし、正常に流してあげれば、傷も自然と治るよ。人間の体って、割と強いから」
ユーリーは淡々と語ったが、王宮内のあらゆる医師を上回るほどの力だと、アルバは実感した。
「水の術者って、だれでもこんなことができるの?」
「ううん……体内の水を暴走させて生物を殺すことができたのは、私だけ。怪我した人を手当てできる人は何人もいるけど……一人でできるのは……やっぱり、私だけかな。普通はエリスぐらいの傷だと、五人ぐらいでやるね」
恐るべき力だ。アルバがユーリーを凝視していると、水の術者は患部に当てていた手を離した。
「うん……もう大丈夫。さて、エリスはこれでいいけど……」
ユーリーが立ち上がる。アルバはエリスを抱きしめた。
涙が溢れてきた。
エリスの頬に、アルバの涙が落ちる。落ちるに任せた。水の術者は、全く違う事を考えていた。
横になり、痙攣するモーデルを、ユーリーは仰向けさせた。アルバが見ている先で、一番小柄で幼いはずの少女が、足でモーデルを仰向けにさせていた。
まだモーデルの手には、小刀を握っている。
形状が反り返り、刃が波打っている。暗殺用の武器だ。
この刃で肉体を構成する組織を斬り裂かれると、縫合しなければ自然治癒はしない。そのための武器だ。
もしユーリーがいなければ、確実にエリスは死んでいた。
「モーデルは、エリスを殺そうとしたんじゃないよね。アルバ、どういうことかわかる?」
モーデルの手から暗殺用の小刀を取りあげると、ユーリーはまだ痙攣を起こしているモーデルの手足を縛りあげた。
「その人、死なない?」
「死んでもいいよ。アルバは優しいんだね。自分を殺そうとした相手を心配するなんて。私は許せない。たかが金の術者が、風の術者を束ねるって言われているエリスに怪我をさせるなんて」
アルバは知った。
ユーリーは、エリスとは違う。精霊使いの力に誇りを持ち、力の無い人間を見下している。
エリスはだから、ユーリーから離れないのだ。ユーリーが認めた以外の人間の言う事を、決してユーリーは聞かないのだ。それが例え、王族であっても。
「きっと、私を殺したがっている誰かに雇われたんだわ。ご免なさい、私の代わりに、エリスが……」
「ううん。仕方ないよ。アルバを守ったのは、エリスの意思だもん。エリスが止めたから、モーデルをすぐには殺さない。でも、私は許さない。それで、アルバを殺したがっている人って、誰?」
「……ユーリーがその人を殺すつもりなら、エリスに相談してから教えるわ」
ユーリーあからさまに舌打ちした。
アルバはエリスを抱く腕に力を込めた。
真に恐れるべき存在が誰なのか、初めてわかったような気がしていた。




