1 通りすがりの旅人
街道沿いの宿場町で、シリウスは炎上する宿屋を見つめていた。石の建造物は城や教会等ごく限られたものでしかなく、街道沿いの宿屋も木と泥で作られていた。
泊まっていたらしい数少ない人々が遠巻きに眺めていた。近在に住む人々が集まって来てはいても、積極的に消火しようとする者はいなかった。
宿屋が全焼を免れる手段はすでにないかと思われた。火のまわりこそ速いが、隣接した建築物がないため燃え崩れるのを待つのが現実的なのだ。
人々の関心を集めていたのは、燃え盛る宿屋に向かって泣き叫ぶ女がいたからである。
「シリウス、早いな」
背後からの声にシリウスが振り返ると、黒髪に真っ黒い目をした男と、似たような特徴を持つ女性が、連れだって近付いてきた。
「たまたま起きていたからな。あの女の声が聞こえたから、気になってな。来る必要があると思ったわけじゃない。俺たちには関係のないことだ。もっとも、俺たちが早くても意味がない。お嬢様たちはどうしている?」
シリウスが尋ねると、黒髪の男女は薄く笑いを浮かべながら答えた。火事を目の前にして、緊張する様子はない。二人にとっては、どうでもいいことなのだ。それは、シリウスにとっても同じだった。
「気付いてはいるようだ。テントから声がしていたからな。興味があれば来るかもしれないが、なければ来ないだろう。あの二人が本気なら、わざわざ火を消すのに現場にいる必要もないんだ」
シリウスたちは旅の途中だが、宿屋には泊まらなかった。泊まることを許されていなかったのだ。差別を受ける村の出身で、人目を避けるように生きていたのだ。
「あたし達が気張ることじゃないよ。決める権限もないしね」
黒髪の男女に背を向け、シリウスは炎上する宿屋に目を戻した。宿場町といっても、宿屋が一軒とわずかな民家があるだけの小集落である。組織された消防団もないらしく、火の勢いを殺すには、雨が降るのを祈るか、燃える物が無くなるのを待つしかなさそうだった。
火の勢いが強ければ、隣接した民家も被害を受けるかもしれないが、実際にはそれほど隣接した人家があるわけでもなかった。利用者が多い街道ではなく、宿屋も二階建ての簡素なものだった。
燃え落ちたとしても、街道に宿屋が必要ならば、軍隊が通過する時に要請すれば二日もすれば再建されるだろう。
人垣ができたのは、宿の火事そのものよりも、大声で叫ぶ女の存在が大きかったのだ。
女は大声を上げていた。人の名前を呼んでいた。叫んでいた。何度も、何度も、繰り返し、泣き叫んでいだ。
「あの中に、子供がいます。お願いです。なんとか……後生です……」
炎に向かい、成すすべもなく見つめている人間は少なくなかった。その中で、ただ腕組みをしているシリウスに、女はすがりついた。シリウスは鎧を着ていた。剣を佩いていた。衛兵に見えたのかもしれない。
あるいは、女を避ける人々の中で、微動もせず炎を見つめていたシリウスなら、助けてくれると思ったのかもしれない。だが、シリウスは冷静に切り替えしただけだった。
「俺に死ねっていうのか?」
「……ああ……」
飛び込むのには、あまりにも危険すぎるほど火の勢いは強くなっていた。鎧で防げる火力ではない。中に人がいるのなら、もう生きてはいないだろう。
女も、自分があまりにも無理な注文をしていることに気付いたのか、ただ、泣き崩れた。
「その子供は、どの部屋だ?」
女が顔を上げた。泣き腫らし、汚れた顔だった。化粧っけも無く、そもそもの造形も美人とはいえなかった。シリウスの問いに、問われたことに、希望を見出したのか、ほんのかすかに女の顔は輝いて見えた。
「一階の、東側の奥です。一緒に逃げたと思ったのですが、気がつくとあの子だけ取り残されていました」
「結果がどうなろうと、俺を恨むなよ」
女はかすかな希望を見出したものの、言葉の意味が理解できなかったのか、ポカンと口を開け、シリウスを見上げていた。黒髪の男がシリウスの肩を掴んだ。
「おい、辞めとけ。縁もゆかりもない子供だぞ」
「そうだよ。一文の得にもならないのに」
肩に置かれた手を振り払い、背後の男女には目もくれず、シリウスは近くの男から桶を奪い、水を被った。
「俺一人なら、どうにもならないがな」
シリウスは笑って、一方向に視線を向けた。黒髪の男女も気づいたようだ。苦笑しながら道を空ける。すべての決定権を持つ、二人の女性だった。
「シリウス、どうしてもやるの?」
中の一人が尋ねる。聞きなれた声だった。薄い衣に上着を羽織った肉感的な女性が微笑んでいた。
「どうしてもって訳じゃない。でも、やるさ。俺が、自殺するのを見届けるために来たんじゃないんだろう?」
「仕方ないなぁシリウスは」
背の低い小柄な少女が、肉感的な女性に並んでいた。肉感的な女性は風の術者エリス、小柄な少女は水の術者ユーリーだ。二人とも若々しく美しいが、実年齢は見た目ほど若くはない。自然現象を操る術者は、自らの肉体を操り、老化を止められるという。シリウスと黒髪の男女は、二人を守る護衛、使い捨ての駒にすぎない。
黒髪の戦士は男をガイウス、女はモーデルという名だ。
皆、シリウスと同じ村の出身である。シリウスが生まれ育った村は外部から隔絶され、独自の文化を育んでいる。外の世界に出るのは、特別な場合に限られる。生活に必要な物資を調達したり、術者の得意な力を借りて、飢饉に見舞われた土地に雨を降らすこともある。
シリウスは、ガイウスと同様に自然に対して働きかける力を持たずに産れてきた。差別を受ける村の中でも、さらに下層の住民である。もっとも、自然に働きかける力をもたないというだけで、肉体の強化をする能力までないというわけではない。
「私たちが居合わせたのも、何かの縁よ」
風のエリスが進み出て、上着を脱いだ。まるで踊り子のような薄い衣に、見事な肢体が包まれている。風通しがいい。それが目的の衣である。厚手のはずがない。
「シリウスの頼みじゃ、仕方ないよね」
水のユーリーが覗き込むようにエリスを見上げていた。エリスがどのように返答するのか、シリウスは非常に興味があったが、シリウスは野次馬たちの視線からエリスを隠すのに忙しかった。
エリスに背を向け、見えないように壁を作っている間、野次馬たちの視線が痛かった。シリウスが顔だけで振り返ると、エリスは軽くユーリーの頭を小突いていた。
「シリウス、私が合図したら突っ込んで」
エリスの声に感情はなかった。術に集中しているのだ。シリウスは小さくうなずき、野次馬に背を向けてエリスに並んだ。声に出し答える必要は感じなかった。声に出さなくとも、シリウスがエリスの術者としての命令に逆らうことも、聞き逃すこともありえない。そう信じてもらえる程度には、信頼関係を築いてきたつもりだった。
「お前一人で行けよ。巻き添えはご免だ」
背後でガイウスが毒づいていたが、シリウスはこれも首肯した。エリスは、シリウスにだけ命じたのだ。役割を他人に分けるつもりはなかった。
エリスは両腕をかかげ、その腕の中で風が渦巻いていた。宿を包む炎は相変わらず激しいが、徐々に収まりつつあるようにも見えた。シリウスとは反対側にユーリーが並び、エリスと同じような薄い衣に包まれた細い体を現した。
「風と水で包み込む。シリウス、今よ。中に入ったら息を止めて。空気を遮断したわ」
「了解」
エリスの腕の中で渦巻いていた風が、シリウスを包み込む。しっとりと湿った風は、水の術者の協力があって可能となっているのだ。火事の現場にいながら、シリウスは一切の熱気を感じず、焼けながら倒壊しつつある宿屋に飛び込んだ。