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蜘蛛の姫君と紙の森

作者: USB(記録媒体)


『蜘蛛の姫君と紙の森』



 1


彼女は一人白い部屋に幽閉されていた。

それだけは知っていたが、実は彼女を見た事は一度も無い。顔も見た事は無いというのに、酷く惹かれてしまって、酷く求めてしまった。白い部屋の住人は、いつも緩やかで優しい歌を歌ってくれる。その歌声だけで、恋に落ちてしまった。

「見た事も無い相手に恋をするだなんて、貴方きっと病気なのよ」

そう母親に言われ、先生にも言われ、僕は静かにその口を閉じる事にした。

「顔も見れない人なんて、何を考えているか解らないもの。中にはいい人も居るんでしょうけど、それはお互いにお互いを知ってからよ」

そう母は言った。

「貴方は何も知らないから、だからきっと欲しがってしまうだけなんだわ」

母は私が病人だとでもいうように、そう言ったのだった。僕は静かに微笑んだ。

「そうだな。僕はきっと病人なのかもしれないよ母さん」

貴女がどれだけ言っても、彼女を諦めるという事すら浮かばないのだから。

これは熱病のように強烈で苦しいものなのだと知った。そしてそれは愛なのだと知った。

だからこそ求めてしまった。

張り巡らされた策略と愛欲の糸だとしても、はたまた捕食すべき餌を捉えられる網だとしても、君が与えたものならば構わないと思えた。

その糸に袖を通そう、僕はそれだけで幸せだ。




彼は家族と共に外で暮らしているらしかった。私はこの白い部屋で、ただ歌を歌う事しか出来ない。朝昼晩必ず一回、この歌を歌っている。この歌は母から教わり、母は祖母から教わった。代々口伝されているこの歌は「祈りの歌」だと言われている。私は静かにその調べを歌った。

この白い部屋に一つだけある窓は、天井についている。此処はとても高い建物で、その天窓を覗く客人は居ない。

開いたその窓から零れた歌声を彼は聞いたらしい。私が初めて彼を知ったのは、ある手紙によるものだった。手紙はへんてこで小さな飛行機に括り付けられていた。

その日、私は一瞬の太陽の陰りを感じて、天井を見上げた。開いた窓の隙間からするりと何かが落とされる。

私は両手を伸ばしてそれを受け取った。それが彼を知った初めての手紙だった。

「やぁ、君の歌声を毎日聞いている。この手紙は届くだろうか。何度も何度も飛ばしているから、どれが君に届くか解らない」

私は壊れやすい物を触るかのような手つきで、二枚目の紙を広げた。

それは外の世界だった。

青い空がただ写されているだけの美しい世界だった。

私はそれをそっと脚立の上に登って、壁の一番高い所にその写真を張り付けた。手紙には頭文字で「A」とあった。

ああ、それだけで私は恋に落ちた。




彼女から直接的な返答は無い。そもそもこうして飛ばしている飛行機が、彼女の元に届いているかも疑問だ。

けれどある日、彼女の聞き慣れた歌声に変化があった。曲調はそのままではあったが、口遊んでいる歌詞が異なったのだ。


「あなたの事を待っている EからAへ祝福を」


嗚呼、君に届いたのか。そして君はEと言うんだな。

僕はそれを感じとり、思わず微笑んでしまった。

「また手紙を書こう」

僕はそう決意して、さっそくタイプライターを持ちだした。

「AからEへ 返事有難う。とても嬉しいよ。僕も君に会いたい。何度でも手紙を書こう。どうしたら君に会えるか教えて欲しい」

僕は同じ内容の手紙を何枚か認め、色んな写真を撮り溜めた。空の写真、公園の写真、花の写真。君がお気に召すものである事を願おう。

「何度目かの手紙になるのかもしれない。確実に送る事が出来れば、そんな心配もしなくていいのだけれど。こんな手紙が他の人に渡るのも恥ずかしいな」

僕はそう言いつつ、飛行機を飛ばし続けた。白い搭の周りは茨で守られていたが、何とかいく事は出来る。僕も何度となくその先に行こうとはしたが、その建物には出入り口が無かった。

声が届いている事を考えると、建物の頂点に窓があるように思った。その思惑はどうやら当たっていたようだ。




彼はとても聡い人だった。彼から届く手紙は日に日に増していったが、その分取残している手紙も多いのだろうと思えた。

その全てが欲しいと思ったけれど、それでも此処に居ては無理な事だ。

「AからEへ 君の事を愛している。可笑しな話だろう? 会った事も見た事も、話した事さえ無いのに君の事を愛した」

そんな手紙と共に送られる数々の写真。それは様々な色合いを持って、私の手元に届く。空の写真は高い所へ、草木の写真は床に、花の写真は壁の低い所へ。私の白い部屋は、いつの間にか多くの色に囲まれるようになった。多くの手紙の山と共に募るのは、彼への恋心だった。

そして、私は毎日のように歌を歌う。僅かなメッセージを含めながら、「祈りの歌」を貴方に贈る。

「EからAへ 貴方の声が聞きたい 愛している 信じている」

私の声は届いていても、貴方の声や言葉の全てを手に入れる事は出来ない。それが妬ましいと思いながら、いずれそれも手に入れられると信じていた。

私は酷い女だ。それは重々理解していた。母も、祖母もずっとそうやって生きてきたけれど、いざ自分の番となると気が引けてしまう。彼がもし拒んだらどうしようか、という不安も徐々に薄れていくのだから、私もきっとどうかしている。

「EからAへ 天井の窓から助けに来て」





天井の窓から助けに来て。嗚呼、君はそこにいるんだな。

僕はすぐ様荷造りの用意をした。そんな僕の姿を見て、母は慌てた様子で声を掛けた。

「どうしたというの? 何処に行こうとしているの?」

こんなにも慌てた彼女の姿は初めてだった。

「僕は彼女に会いに行くんだ。彼女はあの建物の中に居る」

僕がそう言うと、母は更に慌てた様子でこう言った。

「駄目よ。見た事もあった事も無い女の所に行くだなんて。あの白い搭の住人の事は知ってはいけないのよ」

「何で?」

私は酷く狼狽している母にそう尋ねた。

「それは……解らないけど……」

「じゃあ、行ってみないと解らないじゃないか」

僕は母の頬に優しくキスをして「少し見に行くだけだよ。会って、写真を撮ったら、母さんにも見せてあげるから」と伝えた。母は恐ろしいものを見るような目をして、僕の腕を掴んだ。

「行かないで」

「母さん……何でそんなに怖がっているんだ。彼女の歌声を聴いた事あるだろう?」

あんなに美しい歌声なんだ。

僕がそう言うと、彼女は驚いた表情のまま首を振った。

「そんな歌、聴いた事も無い」

「母さん、仕事で忙しいから聞き流していたのか。僕には届いていた。彼女の悲痛な声。そして優しく緩慢な囁き。全て僕には届いていたんだ」

彼女を救えるのは僕だけなんだ、と叫ぶように言った。




 2


この白い搭には数々の伝承があった。それは何度となく書き起こされ、何度となく消滅していった伝承だ。この白い搭を囲う一つの田舎町で繰り返し行われ、受け継がれていった伝承。その昔、この町は多くの紙で覆われていた。

それはゴミなんてものではなく、多くの遺書、恋文、伝令といった手紙の類が、何故か森に放置されていたのだ。

宛名は無いが、必ず「Eへ」という言葉が最後に書かれていた。その手紙たちは誰にも撤去される事無く、ただそこに山のように積まれていくだけだった。

ある時、一人の旅人がその手紙の山を見て、「此処は紙の森だ」と笑って言ったそうだ。彼もその手紙の山に自分の手紙を重ねて、その町を出て行った。

その旅人は数十年経ってもう一度その町にやってきた。相変わらずの有様だったが、彼は一つ疑問に思った。

街の人々に聞くと、手紙を置いていく人数は日に日に増しているとの事だったが、一度訪れた時と比べて増えているようには見えなかったのだ。旅人は不思議に思って町の住人にこう尋ねた。

「誰か手紙を片付けたのか?」

そう聞くと、彼らは一様に首を横に振って「そんな事はしていない」と言った。旅人は更に不思議に思った。一度来た時はそういう習わしなのだろうと考えていたが、何故そもそも手紙を此処に捨ててしまうのだろう。

彼がそれを知ったのは翌日になってからだった。


翌朝、旅人が目を覚ますと、外は何やら騒がしかった。

聞けば、宿屋の息子の姿が見えないのだと言う。女将は泣き崩れ、主人はそれを支えた。旅人は泊めてくれたせめてものお礼として、その息子を探すことにした。彼は町の隅々を探したが、息子の姿を探すことは出来なかった。

そしてふと、白い搭の麓に辿り着き、手紙の山の前まで来た。手紙は相変わらず転がっていたが、何故か極端に数が少ないと感じた。不審に思いながらその建物の周りと歩いていると、ある一通の紙がどろりと溶けて地面に消えていくのが見えた。旅人はぎょっとして、そこに駆け寄るが、特にこれと言って変化は無かった。

旅人は奇妙な体験をしつつも、街に戻った。

夜になるまで必死に探した宿屋の息子は、結局見つける事が出来なかったのだ。

旅人は申し訳ない気持ちで一杯になりながら、自分が泊まっていた宿に戻ってきた。女将と主人が旅人を出迎えてくれたので、彼は「申し訳ないが、見つからなかった」と言った。

旅人は頭を深く下げ、ゆっくりと顔を上げたが、女将も主人も何故かきょとんとした様子で、お互いの顔を見合わせていた。

「何か探し物でもしていたのですか?」

そう呟いた女将の言葉に、旅人は耳を疑った。

「何を言っているんです? 貴女のお子さんが居なくなったではありませんか」

旅人がそう言った所で、二人はますます不思議な物を見るような目をして「お恥ずかしい話、私達夫婦の間に子供はいません」と主人が答えた。

旅人は更に目を見開いた。

「そんなわけないでしょう。奥様に似た綺麗なブロンドで、旦那様に似た赤い目をした、良くできた息子さんが居たではありませんか」

旅人が大きな声でそう言うと、主人も女将も驚いた様な顔をした後ににっこりと幸せそうに微笑んだ。

「二人の間に子供が出来たなら、きっとそんな男の子が産まれたんだろう」

「でも、私達夫婦は両方とも、子を成せる体ではないのです」

二人はそう笑って、静かに旅人を部屋に促した。

「お疲れなのでしょう、ゆっくりお休みください」

そう優しく諭されては返す言葉もない。旅人は狐に化かされた気持ちになりながら、部屋に入りベッドに腰掛けた。

宿の一室の片隅には小さな本棚がある。そこには町のイベントや観光場所が書かれた冊子や、町の伝承が記された本が置かれていた。

旅人はその一冊を手に取り、静かに読み始めた。

『蜘蛛の姫君』という名前の、おとぎ話のような伝承だった。彼はそれを読み始め、そして暫く考え、自分が見てきたものを思い出した。

旅人は大きな溜息をつき、翌日には何も言わずその町を出て行った。白い搭の麓には何故か一通も手紙は残されていなかった。




旅人がその町を訪れるよりもずっとずっと昔の話。これは最早おとぎ話と言ってもいいもので、信憑性も無い荒唐無稽な話がある。

ある移動民族たちは、とある感覚に於いてどの人類よりも優れていた。

一つは皆の為に、皆は一つの為にという格言がよく似合う部族だった。

彼らは痛みも、感情も「共有」するのだ。

それは誰から生まれた痛みで、誰が抱いた感情も気付かぬまま、彼らはその「共有」を誇りに思い、安らかな土地を目指して旅をしていた。

ある日、一人の若い女が倒れた。その旦那である男は彼女を抱え、必死に看病をして旅を続けたが、無駄に終わってしまった。

彼は大きく哀しみ、怒り、嘆いてしまった。そして翌日、彼は彼女の遺体の横で毒を飲み死んでしまった。

残された部族の民たちは、その怒りや悲しみの余波で暫くの間泣き続けてしまったが、ある民がぼそりとこう言った。

「何で泣いていたんだ?」

その言葉に他の部族達は顔を見合わせ、また首を傾げた。

そして同じように何に悲しんでいたのかを忘れて、旅を再開した。

そうしていく中で、その民たちはある事に気付いた。自分たちが共有していた「感情」が見つからないという事に。彼らは焦った。自分たちの「共有」が「感情」を殺していたのでないかと不安に思い始めた。

その不安や不信が部族の中で広まりつつある中で、一人の子供が生まれた。

子供が少女になった瞬間から、彼らの中で膨らんでいたあらゆる負の感情が死滅し、代わりに人間らしい「感情」を蘇らせた。

彼らは「共有」していた訳では無い。ただ「影響」を受けていただけだったのだ。

そうして生まれた彼女は、与えられる食べ物の一切を拒絶した。けれど食べずとも健康体だったのだ。それを部族は認知する事は出来ず、ただ当然の事と考えていた。

彼らはその旅路の中で、一つの安らかな土地を見つけた。川もあり、木もあり、動物たちも居る。

彼らはそこに町を作って暮らし始めた。少女は女性になり、母となった。そして母となって数年後彼女は流行病で死んでしまった。

男は悲しみ、彼女の想いを吐き出す手紙を何通も何通も書き、そして同じように流行病で死んでしまった。そしてまた、彼ら部族の中で大きな不安が蔓延った。

彼らはその言い様も無い不安から、かつて男がしたように手紙を書く様になった。何故自分が不安なのか、何故こんなにも空虚なのか。それを実感する為に、何通もの手紙を認めたのだ。

やがて残された子供が少女になると、ぴたりとその不安は無くなった。けれど住人達は習慣として手紙を書く様になっていった。



僕はロープに重りを付けて、飛行機に括り付けた。今までの紙や木の飛行機ではなく、鉄製の、電動の飛行機だ。

長年作り続けた手製の一品だ。飛行機は白い搭の頂上に着陸し、ことりと落ちて行った。僕はロープを引っ張って、登れるかどうかを確認し、リュックを背負いながら登り始めた。

今まで夢中で気付かなかったが、白い搭の周りには沢山の手紙が転がっていた。全て僕が書いたもののように思えるが、他にも多くの人が書いていたのだろう、山のように積まれていた。

これでは紙の森のようだと思いながら、僕はせっせと登って行った。リュックには沢山の手紙と写真が入っている。

全て彼女に見せる為に持ってきた。母にはああ言ったが、僕は家に戻るつもりはない。

いや、きっと戻れないのだろう。

僕は建物を上りながらそう感じていた。これはきっと宿命で、運命で、呪いだ。

僕には彼女が必要で、彼女にも僕が必要なのだ。EにはAが必要だ。そしてこの町にもきっと必要だ。

ようやっと頂上に辿り着き、大きな窓から下を見下ろした。ふわりとした金色の髪を揺らし、蒼い大きな瞳で僕の事を見上げている女性が居た。

「今から降りるよ」

僕がそう言うと、彼女はうっそりと美しく微笑んでくれた。

「ずっと、ずっと待っていたの。私のA」

彼女はそう言って両手を広げた。


 5


手紙を書く様になった部族達は、綴る事で「感情」を知る事が出来た。けれどそれを続ける事で、彼らにとっての「感情」はそこまでで終わってしまった。

ある民は、食事をしない少女の成長を見守りながら、その成長を恐れる様になった。民の平穏と不穏はある少女の生死で繰り返される。

食事をしない少女は、その民の気付きによって、いつしか部族の中で囲われるようになった。

部族の大工は、彼女が死んでしまわないように頑丈な建物を建てた。

医者はありったけの薬を調達した。

学者は危険に近付かぬようにと知識を与えた。

いつしかその白い搭は、何よりも優れた施設となった。


そうして神のように崇められ、囲われ、守られた彼女は、孤独に生きるしかなくなってしまった。彼らの「感情」を生かす為に、彼女は生ける偶像として君臨させられたのだ。

誰も入ってはならない。誰も交わってはならない。

そうした掟が定められ、彼女は益々孤独になった。

そのまま長い年月が経ち、いつしか部族の人々は娘の存在を忘れてしまった。忘れてしまう代わりに、何通もの手紙を白い搭に投げる風習を遺した。

それは彼女によって与えられた「感情」を返す為の仕来りとして、今も尚生き続ける風習だ。

そうして彼女は正真正銘の神となり、今日も「感情」を供給している。



このおとぎ話は何度も改変されているが、それでいてタイトルだけは相変わらず『蜘蛛の姫君』として遺されている。

それだけは確かに的を射ているな、と私は密かに笑った。私の膝の上に頭を乗せ、健やかに眠る彼の頬を撫で、色付いた部屋を見上げた。


このおとぎ話は所々間違っている。


私達が此処に入れられるようになったのは、祖母の時代よりもずっと前の事だ。初代と呼ばれる彼女は、酷い孤独と悲しみの中で、一つの歌を歌った。特定の人物にしか響かない音を鳴らし、初代はただ歌い続けた。

おとぎ話で彼女は、丸で神のように崇められているが、実際はそうではない。

おとぎ話よりも以前の話。彼女は人の形を成していなかった。

手足は数本多く、地を這うしかできなかった彼女を、彼はただ優しく見守ってくれていた。

その手と足を優しく汲み上げてくれた彼も、人の形をしていなかった。いつしか二人は交わりたいと願った。けれど彼女にはその力は無かった。

彼にだけはその力があり、先に人の形を象った。優しい彼は自らの体の一部を彼女に与える事で、人として生かした。

手を取り合えた瞬間、二人は当然のように恋を知り、愛を誓った。

密やかに交わされた挙式で永遠を願ったのだった。

けれどそれを許さないものがいた。

彼女のように地を生きるものと、彼のように地を司るもの達が、彼らを妬んだのだ。彼は仕方なく、自らの血を海へ流すことにより、人を大量に生み出した。

けれど優しい彼は、全ての願いを叶える為に多くの血を流し過ぎ、短命で死んでしまった。

彼は死の間際にこう言った。

「待つのは苦手なんだ。追う事は得意なんだけれど」

彼女はそれにこう返した。

「私は待つのは得意なの。追う事は出来ないけれど」

そうしてお互いに微笑み合い、再び見える事を誓った。そして彼女は密かに呪いの種を撒いて死んだ。

おとぎ話の彼女は「感情」を供給していた訳では無いのだ。逆に「感情」を奪っていた。

母の腹の中で、原初の人間の「感情」を食い続け、誕生と共に食事を緩めただけの事だ。

彼の血によって生まれたもの達は、良くも悪くも深く繋がり続けていた。だからこそ容易く食べる事が出来たのだ。

彼と彼女は必ず同時に生まれ、惹かれあう定めになっていた。

それが彼女の撒いた、彼の知らない呪いだった。

母の腹から出た彼女は、胎児であった頃よりも少ない食事で生きる事が出来た。けれど、供給は原初の民族からしか出来なかった。 

故に彼女は長い年月を掛けて、部族に錯覚させたのだ。


その策略は実を結んだが、代わりに彼女を孤独にさせてしまった。蜘蛛の糸のように張り巡らされたそれの中心に居る癖、それ以上は動く事が出来なくなってしまったのだ。

彼女は嘆き、ただ愛しい彼を欲して歌を歌った。彼はそれを聞き入れ、彼女の前へと舞い降りた。

天窓を潜り、優しい微笑みで彼女の体を抱き締めた。

「家族を悲しませたくない」という彼の願いを聞き入れ、彼女は彼に抱き締められながら、民の記憶という「感情」を食らった。

彼は満足したように笑って「有難う。愛しき君よ」と額に口付けを落とした。

「追う事は得意だと言っただろう」という言葉に、彼女は擽ったそうに笑った。

彼と彼女の二人しか居ない世界で、彼女は子を宿し母となった。その間に多くの「感情」を食い続けても、建物の外は騒がしくならなかったと言う。

やがて彼は若くして死に、母となった彼女は娘と共に暮らし始める。

娘が少女になる頃に歌を教え、静かに生を閉じる。彼らはそれを繰り返してきたのだ。

私も同じ。そう思いながら、愛しい人の額に口付けを落とした。あどけない顔で眠る彼は、ゆっくりと目を覚まし、酷く優しい顔をして微笑んでくれた。

「また会えた」

君に触れた瞬間、全てを知ったよ。そう続ける彼は、顔を近付けて首元に優しくキスをしてくれた。

「俺は待つことは苦手なんだ」





 6


おとぎ話のAはこう言った。

「彼女は何故いつも早く死んでしまうんだ」

「俺は待つことが出来ない。苦手なんだ」

「彼女は平穏を保つために、最小限の食事しか摂らない」

「彼女の食事を溜める事は出来ないだろうか……?」

おとぎ話のAは考え続けた。そうして考えている間に、彼女はやはり弱って死んでしまった。

一度目は森で過ごし、二度目は世界を見せようと旅をし、三度目でまた森へと戻り、四度目で町を作った。五度目で文明を築いたが、彼女はそれでも早く死んでしまった。

追う事は得意だ。けれど自分より早く彼女が死んでしまうのは耐えられ無い。そしてAはある答えに辿り着いた。


手紙を認めよう。文字は感情だ。人の心だ。


そして彼は死の間際、大量の手紙を書き、その生を閉じた。六度目で彼女は頑丈な檻に入れられる事になった。これで彼女は動く事は出来なくなってしまった。

Aは手紙を建物の周りに投げ続けた。いつしか人々はそれを真似るようになった。

Aは「彼女から与えられた感情を返さなければ」と言いながら手紙を投げた。住人達はそれを習い、日々多くの手紙を書く様になった。

そして彼女の頭文字を最後に加え、建物の周りを多くの手紙で埋め尽くす様になった。それがこの町に根付く習わしになった。そして彼女を生かす餌となった。

蜘蛛の姫君は自分こそが彼を縛り付けていると考えている。

彼はそれ以上に彼女に執着していた。

まるで神のように君臨する彼の、完璧な箱庭は、常に蜘蛛の糸で作られていた。その糸を優しく指ですくって、形作っていた。彼女は痛いほど純粋に、壊れていってしまったが、それはそれで良かったと今のAは思う。

そしてその糸を生む彼女に心底うっとりしながら、自分は彼女の胸の中で死ぬ。

Aは思うのだ、自分が死ぬと解った時に見せるEの顔がこの世の何よりも美しいと。

それを待つことは苦手だった。

一度目に見せた彼女の顔をまた見たいと言う気持ちの所為で、彼は酷く生き急ぐ。

何も知らずに生まれても、君の元に辿り着こうとするのだから、これはきっと一重に俺の愛が成したものなのだろう。

彼はそれを声に出さず、今一度彼女の唇に唇を重ねた。


運命だと感じながら。








 此度もまた、その森には手紙が投げられる。



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