7.勇気を出して
マジやばい。
と、言うと、まったく緊張感も何もなくなってしまう気がするけど。
さっきの恋敵ちゃんは、やばい。
あの女が邪魔って言ってた。
それって、相田ちゃんのことだよね…?
懸命に、そう懸命に。
50メートル走10秒台の鈍足を呪いながら走り、ようやく職員室まで辿り着いた私は、目を皿にして賢ちゃんの姿を探した。
「ちょっと! 今は会議中よ、扉横の注意書きが見えなかった?」
いつもなら注意されるだけでビビりまくってるところだが、今は気にしてられない。
緊急事態なのだ。
私は賢ちゃんの居場所を尋ねようとした。
でも。
その瞬間、甲高い悲鳴が外から聞こえ、誰も彼もの意識がそちらに向いた。
「え? 何?」
先生たちが、窓際に集まる。
みんな驚いた様子だった。
「おい、あれって、渡会じゃ…。」
「な、ナイフみたいなの持ってるわよ!」
渡会。
恋敵ちゃんの苗字だ。
私は顔から血の気が引いた。
ナイフって…。
「おい、誰か警察呼べ!」
「でも……!」
言い争う先生たち。
警察沙汰になれば体裁が悪くなると、通報するのに躊躇っている。
その中に賢ちゃんはいない。
私は弾けたように走り出した。
向かう先は、校庭だ。
ナイフを持っているらしい恋敵ちゃんがいる場所。
おそらくそこに、相田ちゃんもいる。
恋敵ちゃんの目的は――。
目の前には、私が予想していた通りの光景が広がっていた。
ナイフの切っ先を相田ちゃんに向ける恋敵ちゃんと、恐怖で足が竦んでる相田ちゃん。
彼女を守るようにして、俺様生徒会長もいた。
私は隣の“先生”に、促す。
「説得! 説得してあげてください! 先生の言葉なら、彼女も聞くと思うんで!」
私が職員室を後にしたとき、ちょうど職員用のトイレから出てきた横峰先生。
有無を言わさず、連行してきた。
「え、あ、え? ど、どういうことだよこれは……。」
混乱してるのか、うまく状況が飲み込めていないようだ。
私は先生の背中を押し、前に踏み出させた。
「……。」
横峰先生が汗だくなすごい顔で振り向く。
折角のイケメンも台無しだとか思ってる場合じゃないぞ、私。
「(ま、松村…!)」
「(行ってください先生! 生徒の命がかかってるんですよ!?)」
「(で、でも……。)」
「(いいから! 男なら、行け!!)」
言葉にしたら、多分こんな感じのアイコンタクトを私たちはとっていた。
意外と及び腰な横峰先生。
そんなんだから、高校時代好きだった女の子を他の男にとられるんだよ。
ヘタレ横峰先生がこの状況をどうにかしてくれるとは到底思えないけど、恋敵ちゃんを止める別の手段も思いつかないので、私はひたすら祈る気持ちで行方を見守った。
「わ、渡会!!」
声だけは、本当に声だけは威勢よく。
恋敵ちゃんが目を丸くしてこちらを向いた。
「せ、先生…。」
「渡会、やめろ。やめるんだ。こんなことして、何になる。」
「なんで…。なんで先生がここに…。」
横峰先生も、私を含めた群衆もびっくり。
恋敵ちゃんがいきなり泣き出した。
涙をポロポロと。
これは、案外いい感じ?
「先生も…先生もあの女を庇うのね!!」
けれど。
恋敵ちゃんの脳内変換能力は、超一級品。
何故か、そんな風な解釈をしてしまっていた。
「あ、あの女? 庇うって…。」
「来ないで先生! それ以上近寄るなら、私、死ぬから!!」
ぐっ、と。
恋敵ちゃんは、自身の首筋にナイフの刃を突き立てた。
「やめろ!!」
緊張感が広がる。
不意をつこうと、死角から忍び寄っていた生徒会の書記…女嫌いで天使みたいな顔してでも意外と武闘派なその人も、恋敵ちゃんの唐突な行動に様子を見るしかなくなって。
辺りは静まり返った。
私は焦る。
けけけ賢ちゃん!
今、どこで、何してるの!?
こういう時こそ、賢ちゃんの出番なのに!
銀行強盗をひっ捕らえた過去を持つ賢ちゃんなら、きっとこの場にいれさえすれば、恋敵ちゃんをどうにかしてくれるだろう。
肝心の横峰先生は、完全に怯んでしまって役に立たないし。
この膠着状態が、いつまでも続くわけではない。
いつ、恋敵ちゃんが自分を傷つけても、おかしくないのだ。
どうしよう…。
賢ちゃん―――!
「渡会!」
「渡会さん!」
と、そこで。
バタバタと、慌ただしくやって来た先生集団。
そこには、賢ちゃんもいた。
賢ちゃんは恋敵ちゃんが自分にナイフを突き立てているのを見て、眉を顰める。
――やっぱり、状況がよろしくない、か。
「渡会、やめろ! 何か言いたいことがあるんなら、口で言え! 自分を傷付けたところで、何も解決しないぞ!」
立ちすくんでいた横峰先生を押しのけ、賢ちゃんは前に出る。
この度胸と行動力。
少しは、横峰先生にも見習ってほしい。
でも……。
「来ないで!! 私、死ぬわよ! ここにいる全員も巻き込んでやる!」
頸動脈にピッタリと添えられたナイフに、流石の賢ちゃんも、迂闊に動けないようだった。
それでも、棒立ち同然の横峰先生よりはマシだ。
会話で彼女を引き止め、チャンスを伺っているから。
そう、機会があれば。
少しでも隙ができれば、賢ちゃんはこの騒ぎを鎮圧できる。
どうにかして、恋敵ちゃんの注意をそらすことができないだろうか。
私はふと、昇降口の傍に置かれていた、黄色い箱が目に入った。
「渡会、悩みがあるなら、俺が聞いてやる。俺だけじゃないぞ、先生はみんなお前の味方だ。」
「嘘! どうせ私の心配をしてくれる人なんていないわ!」
「そんなことはない!」
そろりそろり。
抜き足で、昇降口の方に移動する。
気配を薄めるのは、私がもっとも得意とすることかもしれない。
「太陽がいつもすべての人を見守っているように、お前を心配し、気にかけているやつは大勢いる。現に俺がそうだ!」
「た、太陽…?」
「灼熱に輝く宇宙の核! 惜しみなく降り注がれる陽の光は、俺たちにああならなければと諭してくれるようだろう。太陽の如く熱く! 俺は、お前の良き師でありたい!」
「……。」
賢ちゃん、いい感じじゃないか。
持ち前の熱血ぶりに、恋敵ちゃんが押されてる。
もうひと押しだ。
「な、何言って…。」
「共に苦悩を分かち合おう! 困難は二人で÷2、楽しいことは二人で×2だ!」
「わけ分かんない!」
私は、黄色い箱の中に重ねられていたソフトボールの一つを手に取り、構えた。
これを、恋敵ちゃんへ投げるのだ。
恋敵ちゃんに当てるつもりはない。
私のコントロール力から言って、無謀にもほどがあるから。
それに、もし恋敵ちゃんに当てて、衝撃でナイフが皮膚に食い込んでしまってはいけない。
恋敵ちゃんの注意を一瞬だけでもそらせられれば、それでいい。
その一瞬で、賢ちゃんが取り押さえてくれるだろう。
ふ、ふぅー。
緊張する。
横峰先生のことをヘタレと散々心の中で罵倒してしまっていたけど、私も人のことが言えない。
今更ながら、手足が震えてきた。
私のこの一投に、すべてがかかっている気がして。
大丈夫だ。
ここには、賢ちゃんもいる。
私ならできる。
勇気を出して、せーのっ!
「ふんっ!」
振り絞れるだけの力を込めて、私はボールを投げた。
私の手のひらを離れたボールはくるくると弧を描き、落下する。
そう、落下。
しつこいようだが、落下したのだ。
つまり地面に落ちた。
恋敵ちゃんのところに届く前に。
「……………。」
私は、しばし茫然自失した。
嘘でしょ…。
たったこの程度の距離さえ、私は投げられないっていうの?
…そういえば、体力測定のときに測った投球テストでは、5メートルも飛んでいなかったことを思い出した。
熱血な賢ちゃんがいるから、ついなんでもできるように錯覚してしまっていたけど、人はやはり自分の限界を超えることはできないのだ。
コロコロと恋敵ちゃんの背後、足元を転がるボールを見て、虚しくなった。
誰もボールの存在に、私がボールを投げたことにすら気づいていない。
も、もう一球投げろってことか!?
箱の中のボールたちと睨み合いながら、私はどうするか考えた。
仮にまた投げたとして、果たしてノーコンな私の球は恋敵ちゃんのところまできちんと届くのか。
謎だ。
「渡会ッ!!」
――刹那。
恋敵ちゃんの死角にいた生徒会書記が叫ぶのと同時に、何かを投げた。
あ、あれ!
私のボール!!
「きゃっ!」
真横を飛んだ豪速球に、恋敵ちゃんは驚きの声を上げた。
そしてそのわずかな隙を見逃さず、賢ちゃんが動く。
手に持ったナイフを弾き飛ばし、あっという間に恋敵ちゃんを取り押さえた。
これには、感嘆の息すら漏れる。
何度見ても、賢ちゃんの動きってすごい。
まるで人間じゃないみたいだ。
私は、地面にからんからんと飛ばされたナイフを見て、少しだけ違和感を覚える。
え、もしかして…。
「嫌! 離してっ!!」
「渡会! 落ち着け!」
「嫌ぁぁっ!」
恋敵ちゃんは、その場に丸くなって泣き始めた。
もう安全なのだと分かると、周囲で固唾をのんで見守っていた人たちや先生たちも安堵の吐息をつく。
相田ちゃんは腰が抜けたのか、地面にへたり込んでいた。
それを俺様会長がお姫様抱っこで抱き上げ、どこかに連れていってしまった。
たぶん、相田ちゃんの心のケアをするのだろう。
どんな方法でかは気になるけど…。
「…っ、渡会! お前……!」
金縛りから解放されたように、横峰先生も動き出したので、相田ちゃんたちのことは私の意識から追い出された。
私は慌てて、横峰先生の腕を引っ張る。
「先生、待って! 違う! 偽物!」
「は……?」
「だから、偽物なの! あのナイフ!」
「――え?」
地面に落ちた時の音で分かった。
恋敵ちゃんが持っていたのは、ただのオモチャだ。
小学生の頃に賢ちゃんと行った夏祭りで、あれによく似たものを射的ゲームの景品として貰ったことがある。
だから分かった。
「偽物…?」
信じがたいのか、横峰先生は置き去りだったナイフを手にとって、確かめる。
するとすぐに顔色が変わった。
切れ味の良さそうな刃も、プラスチック製では何も傷つけることができないのだと、分かったのだろう。
「渡会…。」
横峰先生は、そのまま恋敵ちゃんのもとへ向かった。
とりあえず、一見落着ってとこ?
良かったぁ…。
緊張が緩んで、私はヘナヘナと校舎の壁に手をついた。
………疲れた。
恋敵ちゃんをこうまでさせた恋の力って、怖いな。
「お前……。」
不意に、声がかかる。
ギクリとした。
この声はおそらく、さっきの生徒会書記だ。
な、何故私に?
「…いや、なんでもねぇ。」
怖くて顔を上げられないままでいれば、書記はさっさと去っていった。
何だったんだ、今の…。
心臓が止まるかと思った私の緊張感、返してほしい。
恋敵ちゃんが先生たちに連れられどこかへ消えた後。
私はなんとなく思い立って、恋敵ちゃんの教室に向かった。
彼女の机の上に、ポケットに入っていたパックンチョを乗せておく。
“通行人Aより”
マジックでそう書いた。
何がしたかったのか自分でもよく分からないけど、恋敵ちゃんに励ましの言葉を送りたかったんだ。
なのに直接言う勇気も、恋敵ちゃんにかける言葉も見つからず、結局宛名しか書けなかった臆病な私。
このパックンチョが恋敵ちゃんに届くかどうかも分からない。
でも、さっきのソフトボールよりは可能性があると信じたい。
偽物ナイフ事件の騒ぎは、翌日恋敵ちゃんが転校していったことで、終幕した。
とても早い幕引きだった。