3/5 スランプ娘
スランプ娘
「ふう……なんだろうね、一体どうしたら日本はよくなるのだろうね」
テレビの前でため息交じりに呟く。日本の行く末を憂う大人な俺である。
「パンツ一丁のお兄ちゃんに心配されている時点で、もう大分手遅れな感じはあるけどね」
そんなことはいいからテーブルの上かたしてよ、と、真子は大皿を持って俺の背中を軽く蹴った。まったく失礼な。色々と。
素早くテーブルの上を片付ける俺。おお、今日は酢豚ですか。
「しかしあれだな、いつも悪いな」
台所に行って、茶碗や取り皿を棚から下ろす。
「いいの、私が好きでやってるんだし。それに、料理が出来ないお兄ちゃんの為に料理を作るのは、古今東西二次元でも三次元でも妹と御嫁さんの務めだし」
「え、ごめん最後の方だけ聞こえなかった。全然聞こえなかった。ピーってなってた」
「ううぅ、いいもん。どうせこの後お兄ちゃんは私の料理に感動して、うまい! こんな素晴らしい料理を作れるなんてお前は本当に妹にしておくには勿体無い! 結婚しよう。はい喜んでってなるんだもん」
「なにその頭悪いお兄さん」
ははは、俺じゃないよな? まさかな。
「いいもん。言わせておくもん。私がお兄ちゃんの妹でいるのもあとほんの数分だもん」
「はいはい。というかお前はまず俺の妹じゃないからね?」
従妹ね。
真子は、細かいな~と言いながらご飯をよそい、手渡してくれる。ちなみにご飯は“ひとめぼれ”。真子の祖父(俺の祖父でもある)がやっている田んぼでとれたものです。もちもちしてておいしいです。じいちゃんありがとう。今度のゴールデンウィークには遊びに行くからね。
「いっただきまーす」
「はいはい、たんと食べてくださいね」
まずは酢豚さんの豚肉さんに箸さんを伸ばすさん。柔らかいんだけど肉としての歯ごたえを確実に絶妙に残してあって、味付けも濃すぎず、しかししっかり俺好みの甘さにしてあって、ご飯に合いすぎじゃないすかこれマジで――
「うまい!!!」
「いよっしゃあ! そして、つづきは?」
「こんな素晴らしい料理を作れるなんてお前は本当に妹にしておくには勿体無い!」
「いやぁ~、照れちゃうよお兄ちゃん。さあさあそして!?」
「店開け!」
「おい!!」
バチィンとビンタされた。手首のスナップをいっぱいに利かせた平手打ち。しかし口の中の肉達は一片たりともこぼさない漢な俺。
「最後の台詞違うじゃん! そこは結婚しようでしょ! そして私がはい喜んでって言うでしょ? そして挙式でしょ? ハネムーンでしょ?」
「おい! はお前だよ! なんだそれ? なんですぐ挙式なんだよ!」
「大丈夫だって、私は別にジューンブライドとか憧れてないから五月でもオッケーだよ」
「そこじゃねえよ! 他だよ!」
もっと言うなら全部だよ!
「ああ、もう招待状なら配ってあるから大丈夫心配しないで。式場はゴールデンウィークの初日を押えておきました」
「押えておきましたじゃねえよ! え、てか何やっちゃってんのお前!」
ごめんじいちゃん、ゴールデンウィークは俺が行くんじゃなくて、そっちが来てもらう形になりそう。最近腰痛いって言ってたのにごめんね――って何考えてんだ俺は。天才か。
「いやまあ、冗談なんだけど」
「いやまあ、だろうけどさ」
「お兄ちゃんが褒めてくれたから舞い上がっちゃってさ」
「…………そうか」
笑うと可愛いのがまた厄介だよな。ちょっとドキッとしちまうもん。従妹なのに。
「いやでも、本当に美味いよ。お前いい嫁さんになるって」
ほら、俺照れちゃって確実にコレ地雷踏んじゃってんじゃんか。これまたさっきの話にもどるぜおい。
「七草さん!!」
俺が思わず立てちまったフラグをも叩き折るような勢いで、バンッと扉が開いた。いやいや、その扉金属製でとっても重いんだぜ? そんな勢いよく開くもんでもないし。
扉を開けた人物は失礼しますも御邪魔しますも言わずにずかずか入ってくる。
「七草さん! 大変なんです――」
そしてリビングに入ってくるなり固まった。
「どうした、杏子」
入ってきたのは持舘杏子。三○二号室の住人で、真子たちと同じく宮高校に通う二年生だ。ほらあれ、ライムグリーンの。
「い、いや、あの、その――」
杏子は急激に顔を赤くして頭を下げた。
「失礼しました! 御邪魔しました!」
え、このタイミングで言うのそれ。っていうかそれ出ていく時のあいさつじゃね? っていうかなんで走って出て行こうとしてんの? っていうか待てこの野郎絶対めんどくさい誤解してるよコイツ!
「おい、待てってマジで!」
「いやいやホントすいませんでした。まさか二人がそんな関係だとは知らずに、くだらないことで押しかけちゃって。あはは、ホント空気読めないっすよね私。今度から空気読め子って呼んでください失礼しました!」
どんだけ自分を落としめれば気が済むんだよ。というか本当に話聞いてください。
「まったく、新婚夫婦の甘い一時に割って入るなんて本当に空気読めないですね。空気読め子先輩」
「真子、お前は黙っとけ!」
「ホントにすいませんでした! 末永くお幸せに!!」
一瞬で土下座に限りなく近い体勢になった杏子の動きについていけず、掴んでいた手が離れ、杏子は脱兎のごとく飛びだしていった。完全に誤解してたなあのおっちょこちょいめ。明日には“従妹の女子高生に手を出した見つけ屋さん。僕の探し物は近くにありました”って記事が新聞一面に載っちまう(冷静な判断力を欠いています)。素早く靴を履いてドアに手をかける。
「あなた、もうごちそうさまなの?」
「お前後でお説教だからな! 覚悟しておけよ!」
真子を怒鳴りつけながらマックスパワーでドアを開け――
「ぎゃんっ!!」
「え? いてっ!」
ようとしたが、ドアは半分ほどのところで止まった。金属製の扉の角は女子高生のくるぶしをジャストミートして、勢いよく出ようとした俺のおでこにもダメージを与えた。
「え……いや、なんで玄関先でお昼寝してんだよ」
今、夜の七時なんだけどね。言葉のあやですよ。
「お昼寝じゃないです。転んだんです」
杏子はむくりと身体を起こしてくるぶしを押えた。痛そうだな。やったの俺だけど。
「いやでもお前が転んだところ、段差はおろかくぼみすらないぜ? ていうか、位置的にドアを開けた瞬間に転ばないとそこに寝そべってんのおかしくないか?」
思ったことを言葉にする俺。すると、杏子はくるぶしを押えていた腕で膝を抱くような姿勢をとった。膝にうずめた顔は今にも泣きだしそうだった。
「――――なんです」
絞り出すように放った言葉は、震えてかすれてよく聞こえない。だけど俺には、杏子が何を言ったか分かった。
ふうっと一つ息を吐いて、小さくなっている杏子に向かい合うように座る。
「七草さん、私、どうすればいいのか、わかんなくて」
杏子はずず、と鼻をすすりながら続ける。俺はただ黙って聞くだけだ。
「私ひとりじゃ、どうにもなんなくて――」
――助けて、と呟いた。
そっと頭を撫でて、泣きやむのを待つ。
「またスランプか……」
「……はい」
ここで、持舘杏子の補足説明をさせていただこう。彼女は私立宮高校で女子バスケットボール部に所属しており、一七一センチという高身長と、弛まぬ努力で一年生の頃からエースプレイヤーとして活躍している。ポジションはチームで一番身長が高いためセンターをやっているが、スピードやパスセンスもガードのソレであり、ユーティリティプレイヤーとして地区でも有名である。
しかしそんな彼女はに、少し変わった欠点があるのだ。それは――
「お前スランプスランプって一週間に一回はなってんじゃん!」
――という事だ。正直このセリフも何回言ったかわからない。
「なるんだもん! なってるんだもん! なっちゃったんだもん! しょうがないじゃん!」
「開き直ってんじゃねえよ! その度に俺んとこに泣きついて来てんじゃねえか!」
泣きやんだ杏子と一緒に飯を食べながら話を聞く。
「しかしこれすっごい美味しいね! こんな素晴らしい料理を作れるなんて本当に後輩にしておくには勿体無い! 結婚しよう!」
「ほらお兄ちゃん、こうなるじゃん! 普通はこうなるんだよ! 今からでも遅くはないよ? やり直してもいいよ?」
もうなんか突っ込むのめんどくさいなあ。
「んで、今度はどんな感じなんだよ?」
「ん~、なんと言うか、調子悪い」
「よし帰れ」
やってられるかよ。もう完全にふざけてるよねこいつ。
「な~んだよ~、見捨てるなよ~。私と七草さんの仲じゃんか~」
「めんどくせえなこいつ。というか俺とお前ってそんな大層な間柄じゃねえだろ」
アパートの住人と管理人だろ。
「何言ってるんですか。幸せや喜びを共に分かち合い、悲しみや苦しみは共に乗り越えてきた仲じゃないですか!」
「なんで結婚式の誓いの言葉みたいに言ってんだよ!」
「お兄ちゃん、ちょっと詳しくお話聞きたいな」
「お前まで絡んでくんなよめんどくせえ!」
話が進まない――ってこれ何? 毎回やんの?
「あ~、これは二人の問題だってやつですか?」
「言ってねえよ」
「真子ちゃん、ごめんね。そう言う事なの」
「おいお前ら、俺にも我慢の限界ってのがあるんだぞ」
「お兄ちゃん酷いよ! 私のことは遊びだったのね!」
「よし、歯をくいしばれ!」
「でね、なんていうか、いつもよりもシュートの成功率が格段に落ちてるの。他もなんだかキレが無くなったっていうか物凄いドジ連発したりとか――」
俺の広げた右手が行き場を失う。素晴らしいスイッチだよ。そうやって普通に相談してくれればいいのに。いや、でもね?
「何回も言ってるけど俺バスケ素人だから」
頼られてもね、相談されてもね、どうしようもないんですよ。仕方無いじゃないですか。バスケなんて学校の授業と休み時間にしかやった事ないんだから。
「でも七草さんは、これまで私を幾度となくスランプから立ち直らせてくれたじゃないですか」
「それが不思議だよねっていうかお前スランプじゃなかったんじゃねえの?」
「スランプだもんスランプだったもん!」
「いや、だってなあ」
「お兄ちゃん!」
真子がバンっとテーブルをたたく。実際はバシイィィイイッ!!! みたいな凄い音だったけどそこは置いておこう。あくまで女の子だからバンっとたたいたことにしておこう。そうしよう。
「お兄ちゃん!」
「なんだよ、なんで二回呼ぶんだよ」
「お兄ちゃん!」
「まさかの三回目!? なんだよもう!?」
「杏子先輩は困ってるんでしょ? 困ってる人がいたら助けてあげる。それが見つけ屋七草でしょ!」
「……真子」
強くまっすぐな瞳が、俺を離さない。
「真子……」
「えへへ、私も見つけ屋七草の助手だからね。二人で確かめ合ってまっすぐ歩いていこうよ。かたっぽが忘れても、もうかたっぽが教えてあげればいい。そうやって歩いて行こうよ」
最後にまた、えへへ、と照れたように笑う。
「真子……」
「ね?」
「いや、ね? じゃねえよ。何勝手な設定作ってんだよ。見つけ屋は困ってる人を誰かれ構わず助ける仕事じゃねえよ。探し物を見つける仕事だよ。それと、お前いつから俺の助手になったんだよ。俺は許可した覚えはないぜ」
こいつの台詞はフィクションです。作品内の人物、団体、物語には一切関係ありません。
「ちょっ、フィクション内でフィクションってどういうことよ!」
こらこら、今のは声に出してないぞ。反応しちゃだめじゃないか。あと台詞が危ういよ。
「というわけだから、お引き取り願おうか」
俺は食事が終わった食器を重ねる。その手を杏子が掴んで、俺の顔を見上げる。
「――見つけてください」
「は?」
「スランプを、抜け出す方法を、見つけてください」
「言葉遊びは――」
睨みつけるように俺を見つめる瞳には涙をいっぱいに溜めて、それでも泣くまいと下唇を噛んでいた。
言葉遊びは好きじゃあないけど、こういう顔を見せられると、弱いんだよなあ。
「……わかったよ」
「はい! というわけで、アパートから徒歩十分ほどのところにある公園にやってきました。ここにはハーフコートとバスケットゴールがあるので、今回の依頼にはもってこいの場所というわけなんですね」
「いやいや、お兄ちゃん。急にどうしたの?」
「主人公は色々大変なんだよ。お前みたいな端役には関係ないことだ。ほら、ブランコで遊んでこいよ」
「お兄ちゃんが後ろで押してくれないとやだ!」
ブランコで遊ぶのはやぶさかではないのか。我が従妹ながら恐ろしい奴だ。
食事を終え、片付けも終えて、やってきたのは――ってさっき言ったか。俺たち三人は公園に来ていた。バスケのことなんだからバスケットゴールが無いと話にならないもんな。
「それは違いますよ七草さん。バスケットボールは平らな場所さえあれば上手くなれるんです。庭に、近くにバスケットゴールがないから練習できないなんて言ってるそこの君、嘆いてる暇があったらボールを持って外に出よう!」
「いや杏子、あんまりそういう事するなよ。心読んだり、見えない誰かに話しかけたりさ」
「え? なんのことですか?」
「お兄ちゃんたまにそういうこと言うよね。一回病院で診てもらった方がいいんじゃない?」
あれ? なにこの感じ。俺がおかしいんだっけ? 納得いかないなあ。
「まあ、納得いかないことなんて生きてればたくさんあるしな。それらを全部見過ごして
いいわけじゃないけれど、そのままでいいことだってあるもんな」
「そうですよ七草さん」
「またひとつ大人の階段を上ったね、お兄ちゃん」
「おう、大人っぽさに磨きがかかった見つけ屋さんに、もはや死角はない! それで、何するんだったっけ?」
「ブランコを後ろで押してくれる約束でしょ? もう忘れちゃったの?」
「あ、ずるいよ真子ちゃん! 七草さん、私も七草さんに押してもらいたいです!」
「わかったわかった。大人な七草さんは二人同時に押してやることが可能だぜ」
およそ高校生とは思えないテンションでブランコに走って行く真子と杏子。それを追う二十二歳。ブランコに座ると、はやくはやくと急かされる。二人の後ろに立ち、交互に押してあげる。やってみて気付いたけど、これは他のやつにはやらせられないね。しばらくして真子が、どちらが遠くまで靴を飛ばせるかという、言わゆる靴飛ばしを提案。俺は靴回収係りだ。これもやってみて気付いたけど、他の奴らにはちょっとやらせられないな。ほら、真子は制服だしね。
「あたしの圧勝でしたね杏子先輩」
「なに言ってんの、ギリギリだったじゃない。もう一回やったらあたしが勝つし」
「おいおい、また今度にしろよ。もう九時過ぎてるしさ」
「そうだね、今日は遅いからお兄ちゃんの部屋に泊って行くよ」
「聞こえない聞こえない」
「いやだなー、真子ちゃんも七草さんも冗談ばっかり。まだ私のスランプ治ってないじゃないですか」
「「え?」」
「え?」
どこかで雀が羽ばたいた音さえ聞こえる様な沈黙が、三人を襲った。杏子の表情は先ほどと変わらず笑顔だが、そこからはなぜか悲しみがあふれ出しているように見える。俺も真子も固まったまま動きだせない。鉛のように重い沈黙が、汗で濡れたシャツのようにまとわりついている。実際冷汗でシャツびっしょりなんだけどね。
そんな中、最初に動き出したのは真子だった。
「い、いいいいいいい、やだなあ杏子先輩、冗談ですよ冗談! 本気にしました? すみません、私たち冗談が好きなもんで。ほらお兄ちゃんも謝りなって。冗談です冗談だよ冗談でしたって!」
冗談という言葉を重ねれば重ねるほど、冗談からは遠ざかっているように感じられたが、俺には真子の言葉に乗る以外に選択肢が無かった。たとえそれが泥船だとわかっていたとしてもだ。
「ごめんごめん冗談――」
「もういいです」
ピシャリと、冷たく沈んだ声で、杏子は俺の言葉を遮った。足を掛けた瞬間沈むなんて。ウサギさんのつくった船は沖まで行ったぞたしか。
「いや、忘れたのは悪かったよ。今度は真面目にやるからさ」
「そういうことじゃ、ないんです」
どんどん冷えて沈んでいく声。笑顔だけがむなしく浮ていた。
「もう、いいんです。七草さんの言うとおりなんですよね。何回スランプになってんだって。わたし、才能ないんですよ。むかしっからおっちょこちょいで、ドジで、トロくて、背が高いのを男子にからかわれてすぐ泣いておばあちゃんのところに行く泣き虫でした」
「それでも、先生にバスケを勧められて」
「最初は、怖くて、周りは運動出来る子ばっかりだったし、センターなんて身体がぶつかるポジションだから、なおさら、怖くて」
涙をいっぱいに溜めた笑顔で話すが、とっくに涙声だ。
「ドリブルとか上手くなれば、ガードってポジションになって、怖い思いしなくて済む――なんて思って、いっぱい練習した。うちってアパートだったから、バスケットゴールはおろか庭さえなかったから、近くの駐車場にいってやったの。夜でも灯りがついてるのそこしかなくて。少しずつだけど、上手になっていって、上手になるのが嬉しくて、ずっと続けて、そしたら、練習も試合も楽しくなって、学校でも友達が少しずつ増えて――」
バスケットゴールを振り返って、ジャンプシュートの真似をした。
「大げさかも知れないし、バカじゃないかって言われるかもしれないけど」
俺の眼には見えないボールは、杏子の手を離れ、ゴールに向かっているのだろう。杏子はその軌道を目で追って、一つ、小さく息を吐いた。
「バスケが全てなの」
すべて――なんて言葉は、一見重いように見えて、実際口に出してみると、ひどく薄く、軽く聞こえるものだ。理由は簡単、嘘だからだ。自分にとってそれほどまでに重要な何かを持っている人間なんてのは、極めて稀なのだ。
だから、今のは重かった。こいつがおっちょこちょいなのは知ってる。ドジでトロくて泣き虫なのもよく知ってる。
そして、こいつがどれだけバスケが好きで、頑張ってるかなんて、もっと知っている。だから今までも、こいつが悩んでたら一緒に悩んでやってきた。大げさなんかじゃない。バカなんかじゃない。バカだとしたらバスケバカだ。だから、だから――
「もう泣くな」
ギュッと、後ろから抱き締める。そして頭を撫でてやる。
「お前は真面目だから、頑張りすぎちまうんだよな。バスケが好きすぎるから、大事すぎるから、いつも気を張りすぎちまう。スランプの原因はいつもそうだ。今回だって、新入部員が入ってきて、ちゃんとやらなくちゃって、気持ちばっかり焦って、空回りしてるんだよ。大丈夫。お前はちゃんと先輩出来てるよ。大丈夫。お前は頑張ってる。俺が良く知
ってる。大丈夫、大丈夫だよ」
何度も、何度も、大丈夫を繰り返す。もう杏子は自分の足で立っていない。俺が支えてやらなきゃ崩れ落ちる。大声で泣いて、それどころじゃないんだろう。片田舎の夜の公園は、彼女の泣き声に包まれる。聞いているのは俺と真子しかいないから、見ているのは俺と真子しかいないから、泣くのを我慢するのを頑張らなくていい。強くあろうと気を張らなくていい。それはまた、明日からでいいから、今日はいっぱい泣いておけ。俺はもう一度、頭を撫でた。
「もういいのか?」
「はい、もう大丈夫です。すみませんでした、服も涙で濡らしちゃって」
「いいっていいって。もとから冷汗で――なんでもないです」
杏子は泣きやんだのは時計の針が十を過ぎてからだった。その表情は、照れくさいのかはにかんでいるが、曇りはないように見えた。
ブランコのところに置いておいたボールを、杏子に渡す。
「さっきのシュート、おれには見えなかったからさ。今度は見えるボールでうってくれよ」
自分で言ってて恥ずかしくなる台詞だ。しかしまあ、今回に限り勘弁してほしい。
「七草さん、その台詞、言ってて恥ずかしくない?」
それはもう自分で言ったから。これ以上俺を辱めるな。
「恥ずかしくない。むしろかっこいい。主人公っぽい」
俺の目一杯の強がりに杏子は、そうだね、と小さく笑うと、ゆっくりドリブルを始めた。
強弱をつけたドリブルに、変則的な足さばき、レッグスルーを交えたそれは、まるで楽しく踊っているように見えた。
「楽しいか?」
つい、口に出してしまった。まったく、野暮にもほどがある。答えを誘導する質問ほど、安い言葉もないのにな。
「たのしい!」
それでも、満天の星さえ霞むような笑顔で答えてくれる杏子。
ワルツの果てに、ボールは放たれる。細く長い指を離れたボールは、星空に吸い込まれるように高く、高く上がって行き、やがて力を失い、落ちてくる。
そして、ガンッとリングに弾かれる。
「……そこで外すの? いやいや、ない。ないってこれは。普通入れるだろそこは。台無しだよ全部、今ので。あ~あ、なんか最初の台詞が無性に恥ずかしくなってきたぜ。本当、空気読め子だわ」
「ちょっと樹海行ってきます。探さないでください」
「うそうそウソウソ嘘だから! 冗談です冗談だよ冗談でした!」
必死に杏子の腕を掴む。まさかここでまた泥舟に乗ることになろうとは。今度は沈んでもらっちゃ困るぜ。
「離して! 富士に行くんだもん!」
「冷静になれ! 自殺なんて良い事無いよ! みんなが悲しむ! マジで! お願いだから!」
「大丈夫だもん! 富士に行って修行してくるんだもん! 鋼の意志と最高の心肺機能をつくってくるもん!」
「そっちかよ!」
随分前向きな樹海ツアーだなオイ!
「それでも落ち着けって! あり得ないだろそんなの。たかがシュート一本外したくらいで富士山トレーニングとか。それに、シュートなら俺がとっておきのアドバイスしてやるから」
「……本当?」
杏子の動きがピタッと止まる。
「……本当だ」
さっきリングに弾かれて、シーソーのところに転がっていたボールを拾う。
「よく見てろよ。一回しか言わねえし、やらねえからな」
「はい!」
どこの流派の奥義伝承だよ! とは突っ込まないご様子。俺はじっくり時間を使い、溜めに溜める。そして――
「左手は添えるだけ」
「パクリかよ! てかわたし両手打ちだよ!」
おあとが――よろしくないか。
「お兄ちゃん朝だよ―!」
今朝も変わらず真子が玄関を叩く音が聞こえる。しかしまあ、そのうち諦めるだろう。たとえ合鍵を持っていようとも、彼女がこの部屋に入って来ることはない。入れないのだ。なんてったって今日は宣言通り、チェーンロックをかけているのだから。これが俺の本気だ! 絶対誰も入れない! この穏やかな時間を邪魔させない! 朝限定の鎖国だぜ!
「もう、起きてるんなら開けてよねー」
「――ってなんで入れるんだよ!?」
音も無く背後をとってきた真子から跳びのくように距離を取る。
「なんでって、あんな細い鎖なんて、本気で侵入しようとする相手にはなんの意味もないじゃない」
むしろなんでそんな分かり切った事を訊くの? と首を傾げる。玄関に落ちているのは鉄筋切断用のカッタ―だ。アレなら確かにチェーンなんて余裕だよね! えーっと、おまわりさんの電話番号は……
「そんなことよりお兄ちゃん、訊きたいことがあるんだけど」
俺の携帯電話を奪って放り投げながら言う。
「訊きたいこと? なんだい? ペリー総督」
それを拾う俺。
「昨日の……ことなんだけどさ」
ペリーに関しては突っ込んでこないのか。
「昨日ね、はいはい何ですか」
昨晩のことだろう。ちなみに真子はずっと一緒にいた。会話に一切絡んでこなかったのは、空気を呼んでのことだ。空気の読める十五歳女子、犹守真子である。しかし、訊きたいことって何だ? 一部始終見ていたはずなんだけどな。
「お兄ちゃん、杏子先輩のこと好きになっちゃったの?」
「はあ!?」
予想の斜め上だよ! いや斜め下か、なんとなく。なんでそうなる。
「だって、お兄ちゃん杏子先輩のこと、ぎゅうって抱きしめたり、私だってないのに、それに、すごく優しかったし、私には優しくないのに、それに、お兄ちゃん前に年上が好きだって言ってたし!」
「お前にとっちゃ歳上でも、俺からすれば杏子も年下だから! それに、優しくって言っても、あんなの……普通だよ。ま、まあ、抱きしめたのは確かにやりすぎたかな」
今になって恥ずかしくなってきた。あれ? 俺ってそんなことしちゃったんだっけ? いやマジでそういうの後から言うのやめてくれよ本気で死にたくなってくる。その時のテンションとか場の空気ってあるじゃん。それを冷静になってから掘り返すなんてひどいぞ。
「じゃあ、別に杏子先輩のことが好きになったわけじゃないの?」
「そんなわけないだろ」
「本当?」
「ああ」
「ほんとにほんと!?」
「ああ」
「じゃあ今まで通り私に夢中なのね?」
「それはない」
どっかでそう来ると思ったよ。流れで“ああ”なんて言うほど七草さんは甘くないのさ小娘。
「ぶー、つれないんだーお兄ちゃんはー」
頬に空気を溜めてそっぽを向く真子。ピョコンっと揺れる髪は何故だろう、あまりに怒っているようには見えない。
「はいはい、つれないんですお兄ちゃんは。お前今週は週番なんだろ? 早く行かないと
お友達がこわいぜ」
「そのお友達はそんなに怖いのですか?」
「ん? ああ、怖いっていうか小うるせえっていうか。いや、うるさくはねえか。むしろ口数は少ない方だけど、なんというか、じとーって睨んできてさ……」
「へえ、じとーっとですか」
「そう! 上手い上手い、本当にそんな感じで――すいませんでした!!」
ものまね大会よろしくご本人様のご登場である。司馬の肩が俺の胸に当たりそうなほどの近距離で、眼鏡越しのジト目が見上げてくる。
「七草さんは私のことをそういう風に捉えていたのですか……」
「いやいやいやいや違うよ!? 驚くほど驚愕するほどびっくりするほど全然まったくこれっぽっちも合ってない! 今のは真子に、学校に早く行きなさいという事をしっかり伝える為に仕方なく、仕方なく! 天使のように優しいお前を、怖いなどと、身を切るような痛みを伴いながら言ったのです。それだって貴方様の為でございます。真子が遅刻することで貴方様にご迷惑がかかってはいけないと思い、貴方様を思う一心で言った言葉なんですすみませんでした!」
長い言い訳も最後には敬語になり、謝罪になってしまった。仕方がないと思うよ。七草さんは頑張ったと思うよ。こんなに至近距離からジト目で、瞬きひとつせず見上げられ続けたら心が折れても仕方がない。そういうのが好きだという特殊な性癖は持ち合わせていないからね。
なんて、言い訳に対して脳内で言い訳をしていると、真子が俺と司馬を勢いよく引き離した。
「もうお兄ちゃん! 杏子先輩の次は友里ちゃん? やりたい盛りの発情期の雄犬なの!? それとも万年発情期のウサギさん!?」
「誤解もここまで来ると訴えていいんじゃないかと思えてくるな!」
「犹守さん、あなたは本当に私を不快にさせるのが得意ね」
「怒ってるのは私だよ! お兄ちゃんに色目使って!」
「だ、誰が色目をつかいましたか!? いつ! どこで!」
「つかったもんつかったもん! ジーとお兄ちゃんを見つめて誘惑してたもん!」
「あれは……違います! そういうのじゃないです!」
「じゃあどういうの!? 言ってくれなきゃ分かんないよ!」
「もう~、めんどくさいな~。犹守さんは絡んでこないでよ」
「最初にお兄ちゃんと私の中に割り込んできたのは友里ちゃんじゃん!」
「割り込んでないわよ!」
「割り込んだもん!」
「誰が!? いつ!? どこで!?」
本当にこいつら仲悪いな。まあ、俺はもう関係ないようだから部屋に戻ろうかな。
「そんじゃお前ら、喧嘩もほどほどにしないと遅刻するからな」
「だれの――」
「誰の――」
ああ、余計なこと言わずに部屋に入っちまえばよかった――
「せいよ!」「せいですか!」
「いや、俺せいじゃぐあぁあぁああ!!」
二つの拳が右と左の頬に着弾したとき、心の底からそう思った。
「きゃあぁあああああ!!」
そんな反省も一発で吹き飛びそうな悲鳴が聞こえたのは、後頭部と床の距離がちょうど零になる瞬間だった。
悲鳴と痛みと後悔と――ってなんか思いついたけど、別に意味はないよ。
「遅刻ちこくチコクー!! ヤバいよヤバいよ! なんで目覚まし鳴らないのよー! ケロちゃん最近反抗期気味じゃない!?」
反抗期って言うかもう古いんだよね、買い替えをお勧めするよ。
「頑張れがんばれあきらめるなー」
廊下をドカドカ、階段ダダダダ、勢いそのまま途中でダンッ!
「今日からお前は富士山だ!」
いつも通りの元気な声で、俺たちの眼前に着地。そう、いつも通り。
「まったく、持館先輩は今日も無意味に元気ですね」
「お! 司馬ちゃん、真子ちゃん、七草さん!」
杏子は溜息交じりの友里の声に笑顔で振り向く。
「うん、私は今日も元気だよ!」
朝練があるから先に行くねと駆けて行く杏子に、また溜息を吐く友里。
「まったく、ここの住人は騒がしい上に皮肉も通じないんですか。悩みもなさそうで良いですね」
その言葉に吹き出す真子。つられて笑う俺。
「な、なんですか一体!?」
「いや、なんでもねえよ。確かにそうだなって思ってさ。な、真子?」
「うん、そうだねお兄ちゃん!」
嘘です、何か隠してるんでしょうと、友里は頬を赤くして詰め寄ってくる。いやいや、本当だぜ。みんな騒いで、皮肉も通じないくらい楽しくて、悩みんなんかない。そんな風でいたい。多分これから長い事生きて行くんだろう。その中の俺やお前らなんてのは、まだ始まったばっかりだ。その中のたった三年間。笑って、ひたすら笑って過ごすのもいいだろ。
元気に駆けて行ったあのバカの、さっきの笑顔に嘘はない。あんな風に輝けることを、笑えることを学ぶ三年間でも俺は良いと思うぜ。
そのために何が必要なのか分からないって言うんなら、俺が一緒に見つけてやるのもまあ、悪くはないかな、なんて思ってみたりもするんだ。