星陰のトラバイユ「勇者バッチ」
ここ――霞が原には三人の勇者がいた。
分かりやすく言いかえると、三人の少年たちが霞が原公園広場にて、勇者ごっこをしていた。
彼らは「悪の使いやドラゴンを退治しにいくのだ」と声高に主張している。世のなかにそんな非科学的なものがいるはずない。この町にいるとすれば、せいぜい狸や蛇ていどの野生動物だろう。
彼らの童心をくだらないと捉えてしまうのは、彼らだけが有する無邪気さに向けての羨望が私にあるからだろうか。少なくとも彼らが持っているのは、私の持っていない感情だった。決して手に入れることのできない感情――それは羨ましくもなるはずだ。
腕白な彼らの姿をじっと見据える。膝に載せたスケッチブックに絵筆を走らせ、目前にひらけた光景を出来るかぎり、ありのまま描写することにした。
少年ら三人は列を作って進んでゆく。三人の間にはリーダーなんて役割はない。不公平がないように、並びは順次入れ替わる。誰もが先頭をやりたがるからだ。
彼らは勇み足で草原を歩く。先頭の少年は棒切れをたかだかと振りかかげ、続く少年はダンボールで作った剣を腰に帯びている。しんがりを務める一人はほっそりとした体型の少年であり、広告のチラシを丸めて作った刀を……ほう、二本も携えている。二刀流だ。
ここで突然、先頭の少年が「でた! 魔物だー!」と叫びながら走っていった。もちろん魔物など存在しない。なにもいない空間に走ってゆく。それに二人も慌てて続き、大声をあげながら空想上のモンスターとの戦闘を始めた。
三人とも役に入りこんでいるのか、真剣な顔つきだった。動きもやけに本格的である。少年たちの瞳だけには大きなモンスターがほんとうに見えているのかもしれない。そう思ってしまうほどの演技力だった。
とくに細身の少年の動きが水際だっていた。両手に持った刀を軽やかに振りまわす姿に私は見とれていた。アクション映画を参考にしたのか、とても洗練された動きだった。かなり腕が立つ。絵のモデルに最適な男の子だ。
彼らの服装はまちまちだ。半袖短パンの子もいれば、長袖に長ズボンの子もいた。キャップを深くかぶっている少年もいる。帽子をかぶっていたのは、くだんの痩せ気味な少年だった。
背格好もそれぞれ違っている。「太、中、細」となっており、愉快なほどバラバラな容姿だった。
共通していることは一つだけ――三人ともが胸に「勇者バッチ」をつけていた。
「胸にピカリと輝くバッチは、勇気の証!」と、宣伝されている子ども向けの商品だ。小学生のあいだで人気絶頂な漫画、「花吹き太郎」で主人公がつけている装飾品の、上質なレプリカである。
しかしながら、コミックス四巻の最終ページにて主人公の照山花太郎がライバル西畑健三郎に敗北を喫したさいに、「勇者バッチ」は無残に壊れてしまった。そんなことは、小学生のあいだではもはや常識だ。以後、あのバッチをつけている子どもは圧倒的に少なくなった。
ちなみに、その漫画を描いた作者は「井上武郎」というペンネームの男性だ。それが冴えない風体のおじさんだということまで、私はよく知っている。
「井上武郎」のことを誰よりも詳しいのではないかと私は自負していた。そんなことを誇らしく思いながら、私はただ、絵筆を走らせる。「井上武郎」に熱心なファンが三人もいたことに、嬉しさを覚えつつ――だ。
見知らぬ三人ではあったが、三人とも我が強そうだということは、彼らの表情から伝わってきた。どうやら誰一人として勇者の座を譲ろうとしなかったために、「勇者が三人」といった、ヘンテコなパーティ構成になってしまったらしい。
空想上の魔物を倒し終えた三人は続いて、ためらうことなく草むらに突っ込んでいった。そのとき、一匹の蜂が草むらからいきなり出現した。
私は息を呑む。これは強敵だぞ。小学生の彼らにとって、冒険などはあくまで“ごっこ”であり、実害を加えてこようとするものに対して酷く臆病だ。むろん、私だって蜂は大の苦手だった。
頑張れ、ここに座っている私をその魔物から守ってくれよ――そんなエールを彼らに送る。声を出さずに念じて飛ばした。
気がつけば作品を仕上げることを忘れ、私は三人の姿を夢中で追っていた。周りの人たちに無関心を決め込む、そんな私にしては大変珍しいことだったが、そういう気まぐれな午後があっても悪くはない。
さて――ここからいよいよ蜂と勇者たちとの戦いが繰り広げられるかと思いきや、身構えているのは少年三人だけだった。一匹の蜂は明らかに彼らに興味を示してなかった。蜂の関心はどうやら、花の蜜だけにあるらしい。
少年たちは向かい立とうとしたが、怯懦のほうが上回ったらしく、蜂が羽音を鳴らしただけで三人は弾けたように散っていった。気持ちは分かる。心を芯から揺さぶるような、あの羽音はおそろしい。
遠くから、そんな光景を眺めていた。
眺めながら、私は絵を描いていた。
すると三人の少年のうち、一人がおどおどしながら私のほうへ近づいてきた。それは「痩せぎす」だともとれる二刀流の少年だった。ほか二人もいつのまにか集合していたらしく、「本当に話しかけるのかよ?」「やめといたほうがいいんじゃない?」と少年の背後でささやきあっている。
「あのさ……もしかして……だけど……」
痩せぎすな少年は知らない人と向かい立って緊張しているのか、はじめは言いよどんでいた。しかし、それもつかの間にすぎず、途中からは砕けた口調になった。
「あ、やっぱりだっ! それ、ぼくらの絵だよね!」
「うん。そうだよ」
私が返答すると、子どもっぽい笑みを満面に浮かべ、痩せぎすな少年は「ひひ」と笑った。
「わ! やっぱりそうだったんだ! ぼくらのことを見てるなあって、ずっと思ってたんだ!」
「もしかして……迷惑だったかな?」
「ううん。そんなことないよ! モデルにしてくれてありがとう!」
少年は白い歯を見せた。そののち、首を二十度ほど傾けた。
「そんなことよりも、よかったらさ、きみもぼくたちの仲間に入らない?」
とつぜん、勧誘されたことに私はどぎまぎした。
どぎまぎしながら、ただ、二度だけうなずいた。
「えー! 女子なんて仲間に入れんのかよー!」「たーくん、みんなにからかわれるよ!」といった非難の声も混じっていたが、「たーくん」と呼ばれた男の子は二人の意見を「いいじゃんか!」と一蹴してみせ、そくざに私の手を握った。汗のにじんだ手のひらだった。いや、私の手のひらが汗でにじんでいたのかもしれない。
私はすこし、躊躇した。男の子との遊びに混ざると、お母さんに買ってもらったばかりのワンピースを汚してしまうかもしれない。下手をすれば体に傷を負ってしまうかもしれない。男の子と混じって遊ぶこと、ずっと親から禁じられていたことだった。汚れた格好で帰ると、えらく怒られてしまうに違いない。
けれど――それでもいいやと思えた。
だって――。
少年たちが持っているのは、少女の私が持っていない感情だった。
決して手に入れることのできない感情、ずっと羨ましいと思っていた感情だったから。
三人の隊列に私が加わると、太、中、細、極細となった。なんだかラーメン屋のメニューみたいだ。
「さあ冒険を再開するぞ!」と先頭の子が高らかに叫んだとき、たーくんが不意に立ち止まった。何かを思い出したらしく、私のほうに向き直る。そして、誇らしげな顔をしてこう言った。
「でもまあ、勇者はやらせてあげられないけどね。勇者になるためには、これがないとダメなんだ」
振り向いた彼は胸元につけたそれをピカリと見せびらかしてくる。
ムッとなった私は負けじとスケッチブックを胸部まで抱え上げ、ワンピースのすそにくっついたそれをピカリと見せつけた。
「あれ……それって」
勇者の座などに興味はなかったけれど、「井上武郎」のファンとして、これだけは譲れないのだ。
すると、彼らは不思議そうに私を見つめたあと、奇声と似た声色でけたけた笑いだした。
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ランチタイムに食べようと買ったままにしてあったクリームパンをちぎって、彼女は口に放り投げた。そしてくしゃりと苦い顔をする。舌触りがよくなかった。クリームパンはカバンのなかでカピカピになっていた。
高校生になったばかりの三河小百合の足取りは、この公園に訪れるとき、平素と比べてどこか軽やかだ。あの日座っていたベンチのまえで、ふと立ち止まり少女時代を思い起こしていた。思い出すだけ思い出して、彼女はまた歩き出した。やはり軽やかな足取りだった。
小百合にはただいま恋愛に執心中の親友がいた。そんな親友から、ついこの間「初恋のことを覚えてないなんて、すごくもったいないわ」などとバカにされた。今度会ったとき、「私だって、初恋のエピソードくらい覚えていたんだぞ」と彼女に言い返してやろう。そんなことをたくらんだ。すると、小百合の口元に笑みがこぼれた。
あの日少年らの姿を描きとめておいたスケッチブックはとうの昔に捨ててしまった。
あの子たちが現在どこにいるのか知らなかった。
「花吹き太郎」すらも、途中で読むのをやめてしまった。
ミツバチの羽音――あれは……今でもおそろしい。
あの日から何日も、何ヶ月も、何年も、歳月が流れた。それでも――
なにも――変わっていない。
そう感じながら三河小百合は、ふとスカートのすそに手を当ててみた。
そこに「勇者バッチ」はなかった。
了