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白夜戦記──世界に光を降らせる日  作者: ルシア
第1章 ログザ魔脈坑

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第2話 放浪

 サバンナの夜は、八歳の少年にとってあまりにも無慈悲だった。


(さ、さむい……っ)


 太陽が沈むと同時に、昼間の焼け付くような暑さが嘘のように引き、大気は氷のように冷え込んだ。

 ボロボロに引き裂かれ、泥ごと乾いた薄手の服では、吹き荒れる荒野の夜風をまったく防げない。グレンは道端の背の低い枯れ木の下にうずくまり、膝を抱えてガタガタと震えていた。

 折れた右の肋骨が、呼吸をするたびにズキズキと熱をもって軋む。痛みを堪えるために奥歯を噛み締めすぎたせいで、顎の感覚がすでに麻痺していた。


(辛い……痛いよ……)


 真っ暗な闇の中、遠くで名も知らぬ野生の獣の遠吠えが響く。

 恐怖と寒さに耐えながら、グレンは右手の中に握りしめた『翠色の魔石』だけを心の底から頼りにしていた。

 これがある限り、自分はカノンの街と繋がっている。明日も歩き続ければ、きっと誰かに会える。助けを呼べる。

 凍える体を丸め、グレンは浅い眠りと覚醒を繰り返しながら、地獄のような最初の夜をなんとかやり過ごした。




 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 寒さと痛みに耐え抜いた朝。

 日が昇り始めると同時に、今度は胃袋を内側から引っ掻かれるような強烈な空腹感が襲ってくる。


(きつい、お腹が空いた…)


 疲労感、空腹感から頭がぼーっとする。眠気にも襲われており、思考が鈍っていく。


(起き上がりたくない。このまま寝てしまいたい。いっそのこと……このまま……)


 泥だらけの地面に横たわったまま、グレンの脳裏を次々と弱音がよぎる。もはや、このまま目を閉じて眠り続けてしまいたいという甘い誘惑に、心が支配されかける。


 つらい、逃げたい、なにも考えたくない…。


 グレンの脳内が黒く染められていく。いっそ、このまま死んでしまえば…。


 だが、右手にある魔石が、カノンの思い出が、再びグレンを覚醒に導く。 


 グレンは震える右手を再びぎゅっと握りしめた。そこにはたしかに翠色の魔石がある。カノンとの、家族との唯一の繋がりだ。


「だめだ……このままじゃ、だめなんだ」


 前日に叫び続けたせいで、声はひどく掠れている。脇腹の痛みも、全身の鉛のような倦怠感も消えてはいない。しかし、魔石の硬い感触が、少年の心に再び火を灯した。

 自分の太ももを拳で一度強く叩き、気合を入れる。

 グレンはよろめきながらも立ち上がり、再び地平線の彼方へと歩き始めた。




 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 太陽が天頂に達した正午頃。

 夜の極寒とは打って変わり、再び焼け付くような灼熱がグレンを襲う。歩くたびに体から水分が蒸発し、視界がぐにゃぐにゃと歪み始めていた。


(喉が渇いた……川に、降りよう)


 道から外れ、急な斜面の枯れ草をかき分けて、なんとか川岸の岩場へと降りる。

 震える両手で冷たい水を掬い、ひび割れた口へ流し込む。


「ぷはっ……はぁ、はぁっ」


 泥臭い水だったが、干からびた体に染み渡る感覚は甘露のようだった。

 なんとか喉の渇きだけは満たせた。川沿いの岩場にへたり込み、荒い息を整える。

 目の前を轟轟と流れる激流を見つめる。岩にぶつかり、吹き上がる白い水飛沫を見ていると、どうしてもカノンを飲み込んだあの不気味な光を思い出してしまう。


(あれは、なんだったんだろう)


 自然の災害なのだろうか。それとも、お伽話に出てくるような巨大な魔獣の仕業なのだろうか。なぜ、どの国とも交流を持たない平和な山間の街が、あんな目に遭わなければならなかったのか。

 グレンの頭の中を様々な考えが巡るが、八歳の子供に答えなど出せるはずもなかった。


(……そろそろ、歩こう)


 痛む脇腹を押さえ、ゆっくりと立ち上がろうとした、その時だった。


「──グルルルルッ」


「えっ!?」


 川とは反対側。道へと戻る斜面の茂みから聞こえた低い唸り声に、グレンはばっと振り返った。

 そこには、飢えで肋骨が浮き出た、赤茶色の毛並みを持つ五匹の『狼』が、低く身構えていた。


(狼!? どうしよう、後ろは川で逃げ場がない……!)


「グルル……ッ」


 狼たちは、よだれを垂らしながら一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その黄色く濁った目は、明らかに血を流して弱り切ったグレンを『容易い捕食対象』としてロックオンしていた。


(どうしよう、どうすればいい)


 必死に対応を考える。少しでも体を大きく見せようと無意識に肩を張るが、両足はガクガクと情けなく震えていた。満身創痍の体では、一匹にでも飛びかかられればひとたまりもない。

 狼が一歩近づくたび、グレンも半歩後ろへ下がる。しかし、かかとのすぐ後ろは水飛沫を上げる激流であり、もはや下がる猶予はなかった。


(川に飛び込む? いや、駄目だ……)


 あんな流れの速い川に今の満身創痍の体で落ちれば、泳ぐ間もなく岩に頭を砕かれるか溺れ死ぬ。飛び込むのは自殺行為に等しかった。


(……っ! こんなとき、短杖(ワンド)小瓶(カートリッジ)があれば……!)


 絶望の中、脳裏をよぎったのは、初めて緑魔素を使って発動した風魔法の記憶。

 あの暴風のように吹き荒れた風が撃てれば、この狼たちを追い払えるかもしれない。だが、グレンの手には魔法を発動するための肝心の道具が何一つなかった。


 震えながら、グレンは最後の祈りを込めるように、魔石を両手で握りしめて胸に当てる。


(助けて、父さん、母さん、みんな……っ!)


 ──その瞬間だった。

 グレンは、体の中に『熱』を感じた。

 短杖(ワンド)がないにも関わらず、手の中の魔石から、自分の血管を通って魔素が流れ込んでくる不思議な感覚。そして、周囲の空気を掴む感覚。それは、あの秘密の丘で毎日風を操っていた時と同じ、大気を掴むような確かな感触だった。


 じりっ、と一番大きな狼が後ろ足に力を込め、そして。


「グルルアアッ!!!」


 鋭い牙を剥き出しにして、グレンの喉元へと一直線に飛びかかってきた。

 グレンは恐怖をねじ伏せ、湧き上がった魔素の感覚だけを信じて、叫んだ。


「──緑魔素よ、進め(ヴェイ・ザル)!!!!」


 ドバアァァァァッ!!


 グレンの右手から、爆発的な暴風が吹き荒れた。

 小杖での出力調整を通さない、純粋で暴力的な風の塊。それは周囲の赤い砂や枯れ木、さらには川の水面ごと円形に抉り取り、飛びかかってきた狼たちを容赦なく空高く巻き上げた。


「キャインッ!? ギャウッ!」


 悲鳴を上げる間もなかった。

 二匹ははるか上空から硬い岩場に叩きつけられ、二匹は激流の川の中へと弾き飛ばされて濁流に飲まれる。一番大きな狼は凄まじい勢いで吹き飛ばされ、太い木の幹に激突してぐったりと動かなくなった。

 五匹の飢えた獣は、グレンの放った魔法によって一瞬にして命を散らしたのだ。


「はぁっ……はぁっ……っ」


 風が止むと同時に、グレンは尻餅をつくようにその場へへたり込んだ。

 自分が助かったことを理解し、極度の緊張が解けて全身の力が抜ける。

 ふと、手の中にある魔石を見ると、あんなに美しく輝いていた翠色が、色褪せたガラスのようにくすんで見えた。


 その時、グレンの脳裏に父の言葉が蘇る。


『これは魔素を操る魔具と、魔素を閉じ込めることができる【魔石】だよ。今の時代、魔石よりも効率よく魔素を集められるガラス小瓶のカートリッジがあるから使われていないけど、大昔は自然界で採れる魔石を使って、魔具の燃料にしていたんだ』


(……そうか)


 グレンは気づいた。毎日毎日、母のプレゼントのために緑魔素で風魔法を起こし、魔石を削っていた。その過程で、グレンの濃密な緑魔素が、空っぽだった魔石の中に少しずつ蓄積されていたのだ。

 魔石を握り直す。先ほどまで感じていた魔素の脈動は、もう完全に消え去っていた。


 お母さんを喜ばせるために作ったプレゼント。そして、それを提案してくれたお父さん。

 二人の愛が、魔具の代わりとなって、今、グレンの命を救ってくれたのだ。


「ありがとう……父さん、母さん……っ」


 ぎゅっと色褪せた魔石を胸に抱きしめ、グレンの目から再び大粒の涙がこぼれ落ちた。幸せだった日々が溢れ出す。


 感傷に浸りたかった。あふれ出す温かい思い出の中に、ずっと逃げ込んでいたかった。


 しかし、どれだけ泣いても、動かなければカノンに帰れない。

 グレンは立ち上がらなければならなかった。


 狼の死骸が転がる斜面を這い上がり、再び赤土の道へと戻る。

 それでも、グレンは進む。川の上流へ。カノンの人々を助けるために、歩き続けなければならなかった。




 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 ──そして、地獄のような日々が過ぎ、放浪の五日目。


「はぁ……っ、はぁ……っ、う、あ……」


 ザッ、ズリッ……と、砂利道を擦る足音が、乾いた荒野に虚しく響く。

 グレンの体力は、とうに限界を通り越していた。


 最悪なことに、道と川の距離は徐々に開き、やがて川へと降りることができた丘は崖へ変化していた。

 気づいたときには、川へ降りる方法はなく、水を飲むこともままならなくなってしまった。


 頭上からは、肌を焼くような強烈な太陽光が容赦なく降り注いでいる。

 唇はひび割れて血が滲み、喉の奥は砂を飲み込んだようにカラカラに乾ききっている。

 空腹感はとうの昔に通り越し、今はただ、強烈な吐き気と内臓を雑巾のように絞られるような鈍痛だけが腹の底に居座っていた。


(カノンに……帰らないと……。みんなが、待って、る……)


 泥と血で汚れた顔をうつむかせ、右足を引きずりながら、ただ機械的に前へ前へと進む。

 靴の底はすり減り、足の裏にはいくつもの水ぶくれができては破れていた。歩くたびに激痛が走るが、もはや立ち止まることの方が恐ろしかった。立ち止まれば、二度と動けなくなることが子供心にも分かっていたからだ。


(……え?)


 ふと、揺れる視界の先に、何かが見えた。

 陽炎が揺らめく道のずっと先。地平線の向こう側に、赤い三角形の屋根があった。


『こらグレン、走ると転ぶわよ。暗くなる前には帰ってくるのよ』


 風に乗って、聞き慣れた愛おしい声が聞こえた気がした。

 シチューの温かい匂いがした。


「あ……母さんっ……!」


 グレンの濁っていた瞳に、一瞬だけ強い光が宿る。

 痛む肋骨も、足の裏の激痛も忘れ、グレンはひび割れた声で叫びながら、ふらつく足で前へと走り出した。


「お父さん! 母さん! 帰ってきたよ! みんな、無事だったんだね……!!」


 赤い屋根に向かって、必死に手を伸ばす。

 あともう少し。あと少しで、大好きな家族に抱きしめてもらえる。

 カレンの説教を聞いて、アルスやミーシャと笑い合える。


 だが。


「あ──」


 必死に駆け寄ったグレンの目の前にあったのは、教会の赤い屋根でも、母の姿でもなかった。

 それは、風化して赤茶色に変色した、巨大な獣の骨と、立ち枯れた一本の木が重なり合って作り出した、ただの残酷な蜃気楼だった。


「う、そ……だろ……」


 張り詰めていた糸が、ぷつんと音を立てて切れた。

 膝から崩れ落ち、グレンは乾いた赤土の上に這いつくばった。


「うぅ……あぁぁっ……もう……っ、助けてくれよぉ……っ」


 涙すらもう、一滴も出なかった。水分が枯渇した目からは、ただ熱い絶望だけが溢れ出ている。

 どれだけ歩いても、どれだけ願っても、大好きな故郷の風景はどこにもない。

 圧倒的な自然の広大さと、孤独。


(ごめんなさい、母さん……。誕生日プレゼントも、間に合わなかったね……)


 右手に握りしめた翠色の魔石を胸に抱いたまま、グレンの意識は急速に黒く塗りつぶされていく。

 もう、指一本動かせない。

 このまま地面に埋もれて、死んでいくんだ。


 重い瞼が完全に閉じようとした、その時だった。




 ──ガラガラガラッ、ヒヒィーン!




 地を這うような微かな振動とともに、車輪が砂利を鳴らす音と、獣の嘶きが聞こえた。

 薄れゆく視界の端に、土煙を上げてこちらへ向かってくる、一台の大きな荷馬車のシルエットが映る。


「……あ」


 人がいる。大人がいる。

 助けが来たのだ。


(よかった……これで、みんなを……カノンを、助けられる……)


 荷馬車の御者台から、見知らぬ大人の男がこちらを見つけて降りてくるのが見えた。

 グレンは最後の力を振り絞り、微かに口元に安堵の笑みを浮かべると、そのまま深い闇の中へと意識を手放した。

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