第1話 見知らぬ地
──────ザアアアアアアアアアアアアアアア。
耳元で、水が岩を激しく打つ暴力的な轟音が鳴り響いていた。
全身を包み込むのは、骨の髄まで凍りつくような圧倒的な冷たさ。徐々に重い瞼を開けると、靄がかかった視界いっぱいに、見知らぬ青色の空が広がっていた。
「ゴホッ、ガハッ……! ゲホッ、オエェッ……!」
意識が浮上した瞬間、肺の奥に溜まっていた泥水が逆流し、グレンは激しくむせ返った。
喉をかきむしりながら胃液と泥を吐き出し、酸素を求めて浅い呼吸を繰り返す。
(──────ここは、どこ)
川岸のゴツゴツとした岩場に仰向けで打ち上げられていたグレンは、震える手で地面を探り、なんとか上体を起こそうとした。
──その瞬間。
「っぎ、ああぁっ!?」
右の脇腹に、太い釘を打ち込まれたような鋭い激痛が走った。
息が詰まり、グレンはあえぎながら再び濡れた岩場に倒れ込む。崖から落ちた衝撃と、激流の岩に打ち付けられたせいで、肋骨が折れているのだろう。それだけでなく、全身の皮膚は鋭い岩場でズタズタに引き裂かれ、服はボロボロに破れて泥と血にまみれていた。
「っい! ……はあ、はあ、はぁ……」
息を切らしながら、再び濁った空を見つめる。
絶え間ない痛みと、鉛のように重い気怠さに全身を支配され、思考がまったく纏まらない。脳の芯が麻痺しているようにぼんやりとしている。
(なんで、こんなに痛いんだっけ。なんで俺、こんなところにいるんだっけ……)
グレンは仰向けのまま、血の滲んだ左手を頭にあて、思い出そうとする。だが、記憶に薄い靄がかかったようにすぐには戻らない。
ふいに、ひどい空腹感が腹の底から湧き上がってきた。体が限界まで冷え切っているせいか、無性に温かいご飯が食べたくなった。
(母さんの、シチューが食べたい……)
そう思った瞬間だった。
グレンの脳裏に、せき止めていたダムが決壊したかのように、凄まじい勢いで「記憶」が濁流となって押し寄せてきた。
スープ皿へ湯気の立つシチューをよそう母・クレアの優しい笑顔。
食後のコーヒーを飲みながら、ウインクをして見せた父・ロイドの穏やかな顔。
秘密基地の冷たい石の床。カレンの揺れる赤いリボン。アルスの無邪気な笑い声。お腹を空かせたミーシャ。
みんなで語り合った、将来の夢。
そして──あの見晴らしの良い丘の上で、ついに完成させた母への誕生日プレゼント。
翠色の宝石を、夕焼けの空へ透かして見た、あの瞬間。
山の向こう側からあふれ出した、世界の色をすべて奪い去るような、巨大でおぞましい純白の光。
(──────嘘だ。あれは現実じゃない、あんなの、夢だ!)
そのとき、グレンは自分の右手が、何かを固く握りしめていることに気がついた。
感覚のない指をゆっくりと開く。
そこにあったのは、自分の手から流れた血でべっとりと赤く汚れた、美しい涙型の『翠色の魔石』だった。
「あっ……あ、あっ……」
喉の奥から、ヒュッと引きつった音が漏れた。
魔石を見た瞬間、脳裏に焼き付いた光景が鮮明にフラッシュバックする。
光が急速に広がり、それに触れた大好きなカノンの街が、街壁が、教会が、まるで水に溶ける角砂糖のように、音もなく砂状になって蒸発していく光景。
頭の中で、何度も、何度も、何度も繰り返される。
(父さんと母さんは無事なの!? カレン、アルス、ミーシャは? 街のみんなは……!? バドさんのパン屋は!?)
光に飲み込まれた街にいたであろう、優しかった家族、笑顔の友人たち、頭を撫でてくれた街の大人たち。
あの光の中で、彼らがどうなったのか。
「はぁ……っ、はぁ……っ、かっ、はあ……は、は、はっ!」
グレンは過呼吸に陥った。
泥まみれの胸が異様な速さで上下し、酸素を吸っているはずなのに窒息しそうになる。無事では済まないであろう両親と友人の姿を想像した途端、氷のように冷え切っていたはずの体からどっと嫌な汗が吹き出し、見開かれた目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「あ、あ、あああああああああああああああああああああああああああ!!!! くっ! あ! ああああああああああああああああああああああああっ!」
やがてグレンは、獣のように身を捩りながら、絶叫した。
涙と鼻水を垂れ流し、泥だらけの地面を左手で狂ったようにかきむしる。爪が割れ、指先から血が滲んでも止まらない。
信じたくなかった。思い出したくなかった。今すぐ目を覚まして、温かい自分のベッドに帰りたかった。
「ああああああああああ! 母さんっ! 父さんっ! ああああああああああ!!」
川の激流の音すらかき消すほどの声量で、グレンは叫び続けた。
8歳の少年の未熟な脳は、あまりに理不尽で巨大な絶望を前に、完全に理解を拒否していた。何を考えていいのかもわからない。今後どうすればよいかもわからない。
ただ、引き裂かれた心を叫び声に変えて、この残酷な世界に叩きつけることしかできなかったのだ。
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「ぁ………っ、ぅ……ぁ……」
数時間が経ち、空の色がうっすらと夕暮れの赤色に染まり始めた頃。
グレンは声も涙も完全に枯れ果て、もはや虫の息のような掠れた音しか出せなくなっていた。
だが、狂ったように長時間叫び続け、感情をすべて外に吐き出したことで、過呼吸は治まり、皮肉にも頭の中は不気味なほどすっきりと冷え切っていた。
そして、空っぽになった心の中に、たったひとつの熱い『目標』が灯る。
(……動かないと。みんな、きっと瓦礫の下で怪我をしてる。とにかく、みんなを助けるために、俺が大人を……誰か助けを呼ばないと。俺が、動かないと!)
折れた脇腹を左手で強く押さえ込み、激痛に耐えながら奥歯を噛み締める。
翠色の魔石を命綱のように右手に握りしめながら地面に手をつき、なんとか膝を立てた。
足が産まれたばかりの小鹿のようにガクガクと震え、体中の切り傷が風に吹かれてヒリヒリと痛む。極度の空腹と渇きで、視界がぐらぐらと揺れる。まさに満身創痍であった。
それでもグレンは、立ち上がった。ひとえに、愛するカノンの街を救うという覚悟だけが、8歳の小さな体を動かしていた。
なんとか両足で立ち上がり、周囲を見渡す。
そこでグレンが初めて空以外で見た光景は、鋭い岩場に白い飛沫を叩きつける荒々しい川と、その川沿いにうっすらと生い茂る、見慣れない形の雑木林と乾いた草むらであった。
(ここはどこなんだろう……。まだカノンに近い場所かな。とにかく、人を探さないと。俺が、助けを呼ぶんだ!)
脇腹をかばうように背中を丸めながら、とにかく現在地を把握するため、見晴らしの良さそうな場所を目指す。
川沿いの急な斜面を、泥に足をとられながら這うようにして登っていく。
息も絶え絶えになりながら10メートルほど登りきったところで、不意に木々が途切れた。
「なんだ……これ……」
視界が開けた先には、グレンの常識を根底から覆す光景が広がっていた。
豊かな山と瑞々しい緑の森に囲まれて育ったグレンにとって、それは生まれて初めて見る景色だった。
見渡す限りの、赤茶色くひび割れた乾いた大地。
点在する背の低い歪な形の木々と、枯れかけた黄色い草の海。
徐々に日が傾き始め、地平線の彼方まで広がる『サバンナ』を、不気味なほど鮮やかな夕日の赤が染め上げている。
あまりにも広大で、あまりにも異質。
己の孤独を嫌というほど突きつけられるような状況にあってすら、グレンは一瞬、その広大な景色の雄大さに美しさを感じ、見惚れてしまっていた。
(ん……あ……これって)
なにもない乾いた大地の風景の中で、ふと目の前に違和感を見つける。
赤土の地面の上に、不自然に砂利が敷き固められた『道』らしきものがあったのだ。目を凝らしてよく見ると、馬車の轍のような跡があり、それは眼下の川に沿うようにして、地平線の奥へと伸びている。
(どっちにいこう……)
正面に夕日がある。道を右に進むべきか、左に進むべきか。
グレンは後ろを振り返り、川の水が流れていく方向をじっと確認した。
(きっと俺は、カノンの近くの川からここまで流されてきたんだ。なら、上流に向かって歩けば、必ずカノンの街に戻れる! それに、この道の途中で人や行商人に会えれば、カノンの異常を伝えられる。早く、みんなを助けないと!)
グレンは己を奮い立たせ、小さな足を踏み出した。
沈みゆく夕日を背に、川の流れを遡るように、荒野の道を左へと進むことを決めたのだ。
その細く傷だらけの背中が、これからどれほどの地獄を歩むことになるのか、この時の彼はまだ知る由もなかった。
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