第2話 日常
すっかり日が落ちたカノンの街は、赤魔素のランタンが放つ温かいオレンジ色の光に包まれていた。
広場で幼馴染たちと別れたグレンは、教会の裏手にある小さな自宅へと戻っていた。
「……で? 今日もまた祈りをさぼって、母さんの拳骨をもらったのかい?」
石造りのダイニングテーブル。湯気を立てる野菜スープを木のスプーンでかき混ぜながら、くすくすと笑うのはグレンの父、ロイドだ。
カノン唯一の教会を預かる神父である彼は、妻のクレアとは正反対に、どこまでも温厚で争いごとを好まない、線の細い優しい男だった。
「だって、お祈りの時間って退屈なんだもん。カビ臭いし、足は痺れるし。父さんだって、たまには長いお祈りをサボりたくなること、あるでしょ?」
「こら、グレン。父さんを巻き込まないの」
グレンの抗議に、台所で洗い物をしていたクレアがピシャリと釘を刺す。グレンは首をすくめてスープをすすった。
「まあまあ、クレア。元気なのは良いことさ。……でもな、グレン。母さんが厳しく言うのには訳があるんだよ」
ロイドは目尻の皺を深め、窓の外──夜闇に沈む険しい山々の方へ視線を向けた。
「このカノンはね、外の大きな国……例えば帝国のような大きな国から手が届かない、特別な街なんだ」
「帝国……。ミーシャが言ってた、ピカピカの街を作ってる国のこと?」
「そう。聞けば、なんでも物が揃っていて、巨大な街では様々な最新の魔具が活用されているそうだ。我々にはそれはない。だが、何にも縛られず、自給自足しているからこそ、自分たちのやり方で自由に生きていける。……その代わり、自由には責任が伴う。私たちは誰にも頼らず、自分たちの足で立ち、この街の平和を守っていかなきゃならない。教会の祈りは、その心を一つにするための大切な時間なんだよ。この平和が、明日も、明後日も続くようにね」
父の言葉は、夕飯のスープのようにじんわりとグレンの胸に染み込んだ。
外の喧騒とは無縁の、この小さな街。
グレンは、両親に愛され、友に恵まれたこのカノンでの暮らしが、心の底から好きだった。
「わかったよ、父さん。明日の休み時間のお祈りは、ちゃんと真面目にやるよ」
「よし、いい子だ。じゃあ、明日は学校があるんだから、スープを飲んだら早く寝なさい」
「はーい!」
その夜、グレンは自分の部屋のベッドに潜り込むと、毛布の匂いに包まれながら、明日みんなと遊ぶことで頭をいっぱいにしていた。
窓の外から聞こえてくる、風が木々を揺らす音。遠くで羊が鳴く声。
穏やかな子守歌に身を委ね、少年は深い眠りへと落ちていった。
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翌朝。
カノンの街は、山から下りてくる朝靄を吹き飛ばすような活気に満ちていた。
パンが焼ける香ばしい匂い、荷馬車が石畳を鳴らす音、あちこちで交わされる朝の挨拶。
「おはよー、グレン!」
家の外に出ると、いつものようにアルス、カレン、ミーシャの三人が迎えに来ていた。四人は揃って、街の中心部にある学校へと向かって歩き出す。
「今日はローゲン先生の『魔具』の授業がある日だね」
カレンが真面目な顔で鞄を抱え直す。
「えー、魔具の授業かあ。退屈だなあ。どうせ小瓶をカチャってはめるだけじゃんねえ?」
ミーシャが両手を頭の後ろで組みながら不満げに唇を尖らせた。
「バカ言え、魔具の仕組みを知らないと、立派な警備隊にはなれないんだぞ!」
アルスが胸を張り、グレンはただへらへらと笑いながらそれに続く。
学校といっても、カノンのそれは古い石造りの建物を改築した、大きな教室が二つあるだけの質素なものだ。
木製の机に子どもたちが並んで座ると、やがて白髭を蓄えた初老の教師、ローゲンが教壇に立った。
「よし、皆揃っているな。今日は『魔素』と『魔具』の基礎についてのおさらいだ。……おいグレン、まだ授業は始まっておらんぞ、欠伸をするな」
「へへっ、ごめんなさーい」
教室にクスクスと笑い声が広がる。
ローゲン先生はチョークを手に取り、黒板にカツカツと図を書き始めた。
「いいか。この世界には、大地や空気から湧き出る『魔素』というエネルギーがある。赤魔素は火と熱を、緑魔素は風と動きを、黒魔素は土と硬化を、青魔素は水と冷却を司る。そして、それらを利用するために我々が使っているのが……これだ」
先生が教壇の下から取り出したのは、使い込まれた一本の木製の短杖だった。長さは三十センチほどで、持ち手の根元には、ぽっかりと丸い穴が空いている。
さらに先生は、エプロンのポケットから、親指ほどの大きさのガラスの小瓶を取り出した。中には、鈍い赤色に発光する煙状の物質が、まるで粘り気のある液体のようになめらかに揺らめいている。
「『魔素カートリッジ』。街の工房で、湧き出た魔素を圧縮して詰め込んだ小瓶だ。これがないと、人間はただの言葉しか喋れない生き物だからな。……アルス、この後どうするか説明できるか?」
「はい! その小瓶を短杖に装填して、発動の呪文を唱えます!」
「正解だ。見ておきなさい」
ローゲン先生は赤い小瓶を、短杖の根元の穴にカチャリと押し込んだ。
そして、黒板の横に置かれた金属製の小さな火鉢へ杖の先を向ける。
「──赤魔素よ、進め」
短く鋭い呼気と共に唱えられたその言葉。
一呼吸おいてから、短杖の先端からボッという音と共に小さな赤い火球が飛び出し、火鉢の中にポッと温かな火を灯した。
「おおーっ」と、子どもたちから(見慣れているはずなのに)歓声が上がる。
「このように、魔素の入った小瓶を魔具にセットし、決められた『呪文』を唱えることで、初めて魔法は発動する。小瓶の中身が空になれば、ただの棒切れだ。わかるな?」
「先生! 質問です!」
一番前の席でカレンが元気よく手を挙げた。
「帝国が使ってる『白魔素』の小瓶は、どうして私たちの街にはないんですか?」
その質問に、ローゲン先生は少しだけ困ったように眉を下げた。
「……カレン、よく勉強しているな。白魔素は、赤や緑の魔素とは違い、ものすごい力を持った魔素だ。ただの畑を豊かな農地に変えたり、はやり病を治療したりできる。だが、白魔素が湧く魔素泉は世界で唯一、帝国の首都にしかない。しかも、白魔素を扱うためのスペルも、帝国が絶対に秘密にしているんだ。だから、この街には小瓶一つ回ってこないのさ」
「ふーん……。ケチですね、帝国って」
カレンが不満そうに呟くと、先生は苦笑いして火鉢の火を消した。
(白魔素か。帝国ってそんなにすごいところなのかな)
グレンは窓の外をぼんやりと眺めながら考えた。
カノンには、帝国の白魔素はない。でも、カノンは素晴らしい街だし、今の生活に不満はない。街のみなが魔素神に祈りを捧げ、平和で穏やかな時間が生まれる。神様がくれた見えない魔法みたいなものなのだろうか。
「……こらグレン! また外を見て! ちゃんとノート取りなさい!」
隣の席のカレンに脇腹を小突かれ、グレンは「いてっ」と声を上げてノートに向き直った。
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カーン、カーンと、授業の終わりを告げる鐘の音が街に響き渡る。
子どもたちにとって、ここからが本当の「一日の始まり」だ。
「よっしゃ終わった! ミーシャ、行くぞ! 西の森の秘密基地だろ!?」
「うんっ! あたしについてきて!」
学校を飛び出した四人は、石畳の通りを駆け抜け、街の西側に広がる深い森へと足を踏み入れた。
午後の穏やかな木漏れ日が、苔むした木々の間から差し込んでいる。カノンの森は、凶暴な魔獣なども出ない、子どもたちにとって最高の遊び場だった。
「どこなのー? ミーシャ」
歩き疲れてきたカレンが文句を言い始めた頃、先頭を歩いていたミーシャがバッと立ち止まり、得意げに両手を広げた。
「ジャーン! 見てよこれ!」
そこにあったのは、巨木に半分飲み込まれるようにして佇む、古い石造りの遺跡のようなものだった。
表面には見たこともない文字のようなものが彫られており、長い年月をかけて緑のツタが絡みついている。大人たちが近づかない、森の奥深くの忘れられた場所。
「すげえ……! なんだこれ、大昔の砦の跡かな!?」
アルスが目を輝かせて、苔むした石の壁に触れる。
「ふふん、あたしが見つけたんだからね! 今日からここが、私たち四人の秘密基地だよ!」
「中、どうなってるんだろう。入ってみようぜ!」
グレンもワクワクした気持ちを抑えきれず、石の隙間の暗がりへと一歩を踏み出した。
ひんやりとした空気が、火照った頬を撫でる。
遺跡の内部は、外から見るよりもずっと広かった。天井のあちこちに穴が開き、そこから差し込む午後の木漏れ日が、埃が舞う空間をスポットライトのように照らし出している。
床には、カノンの石畳とは違う、どこか金属のような鈍い光沢を放つ黒い板が敷き詰められていた。
「ねえ見て、これ。祭壇みたいじゃない?」
カレンが指差した部屋の中央には、滑らかな曲線を描く奇妙な台座が鎮座していた。確かにカレンの言う通り、一見すると神様を祀る祭壇のようにも見える。
だが、グレンは奇妙な違和感を覚えた。神聖な祈りの場というよりは、人がすっぽりと収まり、何かを動かすための『御者台』──そんな機能的な形に見えたからだ。
グレンはそっとその台座に触れてみた。石のように冷たいのに、どこか微かな温もりを内包しているような、奇妙な感触だった。
(大昔の人は、ここで何をしてたんだろう……)
不意に、静けさを破るような大きな声が響いた。
「よし、決まりだ! ここは俺たちカノン防衛隊の司令部にするぞ!」
アルスが落ちていた手頃な木の枝を拾い上げ、剣のように構えた。
「俺が隊長のアルスだ! カノンに攻めてくる悪い魔獣は、俺が全部叩き斬ってやる!」
「あーっ、アルスずるい! あたしが先に見つけたんだから、あたしが隊長でしょ!」
ミーシャも負けじと長い木の枝を拾い、アルスに打ちかかる。カンッ、と乾いた木と木のぶつかる音が遺跡に響き渡った。
「じゃあ俺は、そうだな……帝国軍の将軍だ! 白魔素の力で、お前たちを降伏させてやる!」
グレンも笑いながら戦いの輪に飛び込んだ。
「おのれ帝国軍め! カノンの平和は俺が守る! くらえ、必殺の緑魔素斬り!」
「あはは、なんだそれ!」
「ちょっとみんな、服が汚れるわよ! もう、母さんに怒られても知らないからね!」
カレンが呆れたように腰に手を当てながらも、その口元は楽しそうに綻んでいた。
薄暗い遺跡の中で、四人の子どもたちは時間を忘れて木の枝を振り回し、見えない敵と戦い続けた。息が切れるほど走り回り、声が枯れるほど笑い合った。
「……ふぅ、疲れたあ」
グレンは大の字になって、遺跡の冷たい床に寝転がった。アルスもミーシャも、息を切らしてその隣に座り込む。
「腹減ったな……。そろそろ帰らないと、また母ちゃんに怒られる」
「うん。でも、すっごく楽しかった!」
「明日もまた、絶対ここに来ようね!」
立ち上がり、互いの服についた土や苔を払い合いながら、四人は遺跡を後にした。
森を抜けると、夕暮れのカノンの街が眼下に広がっていた。
赤魔素のランタンが一つ、また一つと灯り始め、街全体が温かな星空のように瞬き出している。どこかの家から、夕飯のシチューの匂いが風に乗って漂ってきた。
「なあ、グレン」
坂道を下りながら、アルスがふと立ち止まって言った。
「俺、やっぱりこの街が好きだ。帝国みたいに白魔素がなくても、ここには全部あるもんな」
「……うん。俺もそう思うよ」
グレンは、夕焼け空を仰いだ。
果てしなく続く、赤と紫のグラデーション。
この空の下には、大国同士の睨み合いや、奪い合いがあるのだと大人たちは言う。
けれど、カノンの空はこんなにも広く、美しく、澄み切っている。
明日も、学校に行って、先生のつまらない授業を受けて。
放課後はあの秘密基地で、みんなで木剣を振り回して遊ぶんだ。
母さんの小言を聞きながら、温かいスープを飲んで眠りにつく。
グレンの日常は穏やかに過ぎていった。
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