第1話 明日
頬を撫でる風が、あまりに心地よかった。鳥のさえずりが山間に響き、木々の葉がこすれあう音が気持ちいい。穏やかな春の日差しは、見えない毛布のように全身を包み込み、グレンを眠気へと誘う。
(……気持ちいいなあ)
芝の上に大の字になり、グレン・ウォーカーは深く息を吸い込んだ。青々とした草の香りが鼻をくすぐる。
(あ~、そろそろ教会いかないと、また母さんに怒られるな~)
まぶたの裏に、眉間にしわを寄せて拳骨を落とす母の顔が浮かんだ。
山に囲まれたカノンの街。グレンの家は、この街でたった一つの教会だ。毎日のお祈りは決まりごとなのだけれど、八歳のグレンにとって、カビ臭い礼拝堂で一時間もじっと膝をついているのは、ただの苦行でしかない。
だから今日もこっそり抜け出して、秘密の獣道を登り、町を見下ろすこの丘で昼寝をしているのだ。ここからは、山から切り出した石で作られた家々が並ぶ景色がよく見える。グレンの大好きな景色だ。
「……よし、戻ろう」
大きくひと伸びして、派手な欠伸をひとつ。
グレンは名残惜しそうに丘の上を振り返り、慣れた足取りで獣道を駆け下りていった。
獣道を抜け、街中へ入り人が住む通りに出ると、あちこちからお昼ご飯のいい匂いが漂い始めていた。
「おっ、グレン! 今日も母ちゃんから逃亡中か?」
「バドさん! 内緒にしてよ!」
パン屋の店先で、店主のバドさんが大きな釜に薪をくべながら笑いかけてきた。グレンが通り過ぎるのを見送ると、バドさんはエプロンのポケットから、赤い液体の入った小さなガラス瓶を取り出す。それを使い込まれた木の短い杖の根元にカチャリとはめ込み、釜の中へ向けて短く息を吐き出した。
「──赤魔素よ、進め」
ボッ、と小さな赤い火花が杖の先から弾け、薪に火が移る。カノンの町に湧き出る、火の力『赤魔素』を使ったいつもの魔法だ。
少し歩けば、鍛冶屋の煙突からは緑魔素で風を起こしてふいごを回す音が聞こえてくる。水路のそばでは、おばさんたちが日陰の涼しい風を浴びながらおしゃべりに夢中だ。
大人たちの話によれば、遠くのすごぶるお金持ちの家には、とびきり冷たい風を出す魔法の道具があるらしい。でも、そんなものがなくても、冷たい水路と緑魔素を使って起こした風魔法さえあれば、グレンたちには十分すぎるほど涼しかった。
どこを見渡しても、みんなの暮らしのそばには小さな魔素の光がある。グレンはこの街の、少し煤けたような、けれど温かい匂いが大好きだった。
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「グ~~~レ~~~ン~~~!!!」
カノンの中心部に位置する白亜と赤い三角屋根の教会の前までたどり着いたとき、そこには予想通り、いや予想を遥かに上回る形相で立ち塞がる「鬼」がいた。
グレンの母、クレアである。
「ひっ……!」
「あなた、また逃げ出したわね! 今日という今日は許しませんよ!」
「ご、ごめんなさい母さん! 勉強してたんだよ、教会の裏のベンチで! そしたら、つい集中しすぎて……」
「嘘をおっしゃい! あなたの靴に、その服! どこをどう歩いたら、勉強中にそんなに草の種がつくの! 今日は大事な祈りの日だって、あれほど言ったでしょう!」
教会の管理をしていた神父の父と結婚したクレアは町の商店の娘だが、その気性はどの軍人や警備隊よりも逞しい。
「いっ、痛い! ごめんなさい!」
ぼかん、という景気のいい音と共に、グレンの後頭部に拳骨が落ちた。
涙目で頭を押さえるグレンの襟首を掴み、クレアはそのまま引きずるようにして礼拝堂へと連れ込んでいく。
「もう、グレン! またお祈りをサボったわね!」
最初に声をかけてきたのは、三つ編みを揺らしてぷりぷりと怒る女の子、カレンだった。彼女は町のパン屋の店主、バドさんの娘で、規律に厳しく、グレンの不真面目さをいつも真っ向から注意する。
「はは、グレンは相変わらずだな。自由っていうか、なんというか……」
苦笑いしながら肩をすくめたのは、体が一回り大きく、将来は警備兵になりたいと語るアルス。子どもたちのリーダー格だ。
「そんなことよりグレン、終わったら一緒に広場行こうよ! 新しい遊び考えたんだから!」
その隣で目を輝かせているのは、燃えるような赤髪を跳ねさせた元気な女の子、ミーシャだ。彼女は退屈な祈りよりも、グレンを遊びに誘い出すことに全力を注いでいる。
「え! マジで? じゃあ今から広場に行こ──」
友達の顔を見て、つい先ほど拳骨をもらったことを忘れて駆け出そうとしたグレンだったが、母・クレアにその首根っこを掴まれた。
「こら、グレン! まずは祈りを捧げるのが先! ミーシャちゃんたちも、ごめんなさいね。このバカ息子の更生が終わるまで、遊びはまた今度にしてちょうだい」
「えぇ~~……」
「『え~』じゃないの! ほら、座って!」
グエッ、という情けない声を漏らしながら、グレンは礼拝堂の最前列へと強制連行された。
礼拝堂の空気は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。
グレンが座らされた最前列から見上げると、正面には巨大なステンドグラスが夕陽を受けて輝いている。描かれているのは、カノンの民を導いたとされる『始まりの聖女』と、天から降り注ぐ光のシャワーだ。赤、青、緑、黄。色とりどりのガラスを透過した光が、冷たい石の床にモザイク状の美しい影を落としている。
そのステンドグラスの真下、祭壇の中央に鎮座しているのが、この町の信仰の中心として崇められている男性姿の『魔素神』の像と、黒ずんだ巨大な石だ。
ずっと昔から祈りを吸い込んでいるらしい古い石。表面はひび割れ、ところどころ欠けているが、クレアたち管理者が毎日布で磨き上げているため、鈍いながらも滑らかな光沢を放っている。グレンにとっては「ただの古い石」だが、大人たちはこの石がカノンを外の脅威から隠してくれているのだと本気で信じているらしかった。神像は、そんな大人たちと呆れ顔のグレンを、上から静かに見下ろしている。
クレアは深く溜息をつき、自らも居住まいを正した。その瞳からは先ほどの鬼のような険しさが消え、一人のシスターとしての穏やかで慈愛に満ちた光が宿る。
「……いい、グレン。魔素は神様からお借りしている力。そして私たちは、その力を正しく使い、世界に平穏をもたらすために祈りをささげるの。文句を言わずに、しっかり心を込めるのよ」
「……はぁい」
グレンは渋々、膝をついて手を合わせた。
これから始まるのは、カノンに伝わる古い、古い儀式。
母が先導し、子どもたちが声を合わせる「聖歌」の時間だ。
「♪ 遠き記憶の、呼び声に」
「♪ 聖なる道を示せ」
「♪ 救いよ、其処に在れ」
透き通るような母の歌声が、静かな礼拝堂に溶けていく。
それに合わせて、グレンたちも聖歌を神像へ捧げる。古代語といわれる大昔の言語で歌うこの歌。
歌が終わると、周囲の空気がキラキラと少しだけきらめいた。これは魔素をつかさどる神が喜び、祝福を与えているとされているのだ。
祈りがすべて終わった後、子どもたちで分けるようにと儀式に使った丸パンが配られた。
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夕暮れに染まる教会の外階段に腰を下ろし、グレンは手の中のふっくらとしたパンを見つめた。神様からの恵みとされる、大切な糧だ。
「よーし、分けるぞ」
グレンは両手でパンを半分に割り、さらに半分にちぎって、四つの欠片を作った。
「はい、アルス。これミーシャ、で、カレン」
「あ! グレン、俺のやつちょっと小さくないか!?」
渡された欠片を見比べて、アルスが文句を言う。確かに、手で適当にちぎったパンは大きさがバラバラで、どう見てもアルスの分が一番小さかった。
「ごめんごめん、わざとじゃないって」
「しょうがないなあ。アルスは体が大きいんだから、少し我慢しなさいよ。……はい、私の大きいところ少しあげるから」
カレンが呆れたようにため息をつきながら、自分のパンの端をちぎってアルスに渡す。
「ずるい! あたしにもちょうだい!」
「ミーシャのは最初から大きいだろ!」
わちゃわちゃと、他愛のない笑い声が弾けた。
(楽しいな)
グレンは自分の分の不格好なパンをかじりながら、ふとそんなことを思った。
誰かの分が少し大きくて、誰かの分が少し小さくなる。だけど、こうして笑い合いながら、足りない分は譲り合って補い合えば、みんなで美味しく食べることができるのだ。
ほんのり甘いパンの味と共に、その温かな光景がグレンの胸にじんわりと染み込んでいく。
「ほら、早く食べなきゃ広場で遊ぶ時間がなくなるぞ!」
「あ、待ってよグレン!」
不格好に分け合ったパンを口いっぱいに頬張りながら、四人は夕焼けに染まる石畳の坂道を元気よく駆け出していく。
明日も、明後日も、その次も。
この温かい日常が、ずっと続いていくのだと。
八歳のグレンは、何の疑いもなく信じていた。
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