第4話 魔素銃
顔面を焼くような鋭い痛みが、グレンの意識を強引に現実に引き戻した。
「……ぅ、あ……」
鼻柱を強打された痛みで、顔の半分が麻痺しているように熱い。鼻から流れた血が固まり、呼吸をするたびに鉄の味がした。
薄暗い檻の中。ガタゴトと揺れる馬車の振動。
気絶する前の出来事が、泥水をかき混ぜたように頭の中に蘇る。
「……あぐっ」
「目が覚めたか」
ジャズと呼ばれた男が、小窓の向こうからこちらを静かに見下ろしている。その目にはなんの感情も浮かんでおらず、ただ冷徹な観察者の色が浮かんでいた。
「あ……なんで俺を────」
「おい」
「────ガフッ」
ジャズは、小窓から突き出した魔素銃の冷たい銃口を、躊躇いなくグレンの口に突っ込んだ。
鉄の味がさらに口内に広がり、グレンは息を呑んで硬直する。
「お前はザイバス共和国生まれじゃないから、奴隷に馴染みがないってことだな。だが、まずひとつ忠告しておく。奴隷には『発言権』がない。主人の許可がない時に勝手に口を開くことは、絶対の禁忌なんだよ」
「────」
(『奴隷』というのは口を開くことができない…… 言葉を話すことすら、許されないなんてことがあるのか……!?)
グレンには全く想像もつかない、あまりにも理不尽な世界であった。しかし、ジャズは銃口を押し付けたまま、淡々と諭すようにグレンに告げる。
「俺とお前のこの会話も、本来はルール違反だ。だが、奴隷の『節度』ってもんを知らないと、お前みたいなガキは三日も持たずに早死にする。だから一度だけ教えておく。この国、ザイバス共和国は、この大陸で唯一『奴隷制度』が合法として存続している国家だ。そして、一度奴隷身分に落とされると、他国に出国しない限り抜け出すことはできない。奴隷ってのは、馬や牛と同じ『家畜』なんだよ」
(奴隷……この人たちも……俺も……家畜……)
首に食い込む分厚い鉄の輪の冷たさと、口にねじ込まれた銃口の硬さが、それが悪い夢ではないことを証明していた。そして、奴隷というのがどういう存在か、否が応でも理解せざるを得なかった。
泣こうと思っても、もう涙は出なかった。過酷な荒野の放浪と、大人からの容赦ない暴力が、八歳の少年の感情を麻痺させ始めていたのだ。
「伝えることは伝えた。長生きしたけりゃ絶対に逆らわず、とにかく奴隷商人の言うことには従って生きな。……息をするようにな」
ジャズが銃口を引き抜くと、再び魔素銃を背負い座り込む。
(奴隷商人。あの御者台にいた、俺を殴るよう指示した男か)
以降、グレンとジャズは一切の会話を交わさず、ただ馬車が単調に揺れる音と、奴隷たちの鎖が擦れる重い音だけを聞きながら、じっとりと汗ばむような時間が経過していった。
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――ヒヒィィィィンッ!!
唐突に、馬車を引いていた馬の、恐怖に引きつった悲鳴のような嘶きが荒野に響き渡った。
直後、馬車が急ブレーキをかけたように大きく前のめりに揺れる。
鎖に繋がれた奴隷たちが、何の受け身も取れずに床を滑って壁に激突する。
(ぐっ!? いったいなにが……!?)
グレンも折れた肋骨を容赦なく床に打ち付け、くぐもった痛みの声を上げた。
「なんだ!? どうした!」
「旦那、魔獣です! 右手側の岩陰から『赤斑豹』がこちらに走ってきています!!!」
「んなっ、馬鹿が! なんで馬車を止めたんだ!?」
「駄目です、馬車の速度じゃあいつからは逃げ切れません! 奴隷を何人か外に放り出して『餌』にして逃げるか、ジャズに戦ってもらうかしかありません!!」
「ちっ、くそがあ!!!」
御者台から、奴隷商人の焦燥しきった怒鳴り声が聞こえてくる。
奴隷を外に放り出して餌にする。その言葉を聞いた檻の中の奴隷たちが、恐怖に顔を引きつらせ、少しでも扉から遠ざかろうと一斉に奥へと後ずさり、鎖を激しく鳴らした。
だが、見張りをしていたジャズだけは違った。彼は舌打ち一つせず、すっと立ち上がった。
「お前らはそこでじっとしておけ」
背中から魔素銃を降ろして構えると、後部の扉の鍵を外し蹴り開け、土煙の舞う荒野へと降り立っていく。
直後、馬車のすぐ右手から、大気をビリビリと震わせるような、恐ろしい獣の咆哮が轟いた。
「グルルォォォォォォッ!!」
奴隷たちが縮こまり震える中、グレンは痛む体を引きずりながら立ち上がり、鉄格子の窓へと近づいた。鎖が突っ張って思うように進めなかったが、なんとか窓枠にしがみつき、背伸びをして外を覗き込む。
(狼より、ずっと大きい……!?)
荒野の太陽の下、体長が三メートルはあろうかという巨大な豹が、筋肉の塊のような体を沈み込ませて立ち塞がっていた。
その毛並みは血を吸ったように赤黒く、大きく裂けた口からは、チロチロと炎のような赤い呼気が漏れ出している。息を吐くたびに、周囲の枯れ草がチリチリと焦げる音が聞こえるほどだ。
「チッ、こんな街道のそばまで出張ってきやがって。よっぽど腹を空かせてやがるな」
「おいジャズ! さっさとこいつを処分しろ!!!」
「言われなくとも」
ジャズは、猛烈な殺気を放つジャガーの前に、全く隙のない足取りで進み出た。
そして、黒光りする長い銃身を持つ『魔素銃』を、肩にしっかりと構える。
(あれが、本物の……)
グレンは息を呑んで、その武器を凝視した。
カノンの警備隊が持っていたような古めかしい銃とは、まるで次元が違う。金属と木材が複雑かつ緻密に組み合わされ、太い銃身には魔素を流し込むための幾何学的な溝が、血管のように彫り込まれている。人を、そして魔獣を確実に殺戮するためだけに洗練された、恐るべき兵器。
ジャズは慌てる様子もなく、腰の専用ポーチから、親指ほどの大きさの『小瓶』を取り出した。
(父さんから預かった小瓶と、全然違う……!)
グレンが母のプレゼント作りのためにこっそり持ち出していた小瓶は、単一の魔素が入ったシンプルな丸いガラス瓶だった。しかし、ジャズの手にあるそれは、ガラス内部に複雑な仕切りが入った特殊な円筒形をしており、『赤魔素』と『緑魔素』の二種類が同時に同梱されていた。
素人目に見ても、極限まで高純度の魔素が圧縮して封じ込められているのがわかるほど、その輝きは禍々しく、強い。
ジャズがその小瓶を、銃の機関部にあるスロットへガチャンと装填すると、カチリと冷たい機械音が鳴った。
同時に、銃身に彫られた二本の溝が、小瓶から供給された魔素を吸い上げ、眩い赤色と緑色に発光し始める。
「──さて、吹っ飛びな」
ジャガーが太い後ろ足で地面を砕くように蹴り、ジャズの喉元めがけて砲弾のように飛びかかった、その瞬間。
ジャズは冷静に引き金を引き、短く呪文を唱えた。
「──緑魔素よ・赤魔素よ・射出せよ」
ズドォォォォォォォォォンッ!!!
グレンの鼓膜が破れるかと思うほどの、凄まじい爆発音が荒野に轟いた。
銃口から放たれたのは、ただの金属の弾丸ではない。極限まで圧縮された赤魔素が、魔素銃の魔具機構によって緑魔素の推進力を掛け合わされ、『超加速された爆炎の塊』となって撃ち出されたのだ。
空中で炎の直撃を受けた巨大なジャガーは、悲鳴を上げる間もなく、十五メートル以上も後方へと回転しながら吹き飛ばされた。
「…………っ」
馬車まで届いた熱風に目を細めながら、グレンはあまりの威力に言葉を失い、鉄格子を握りしめたまま震えていた。
周囲に濃密な土煙が立ち上り、鼻を突くような焦げた肉の匂いと、立ち上る赤砂の鉄臭い匂いが漂う。
自分が魔石を使って起こした「風」など、ただの子供の火遊びにすぎなかった。これが、外の世界の『軍人』の力。魔法という奇跡を、暴力という兵器に変換した絶対的な力。
しかし、ジャズは油断することなく煙の向こう側を睨みつける。
「ちっ、急所から逸れたか。しぶとい野郎だ」
煙が晴れる間もなく、ズザァッと地面を抉る音とともに、再び赤斑豹が姿を現した。
先ほどの攻撃で右半身の毛皮が黒焦げになり、かなりの手負いではあったが、獣は血を撒き散らしながら、さらに凶暴に牙を剥き出しにしてジグザグに接近を試みる。
「グルルアアアッ!」
野生の本能で射線を外すフェイントを入れつつ、ジャガーがジャズの死角から跳躍し、丸太のような腕で横なぎに爪を振るう。
回避は不可能に見えた。
だが、ジャズはふっと短く息を吐くと、構えていた魔素銃の銃口を、あろうことか『自分自身の足元の地面』に向けた。
「緑魔素よ、放出せよ」
ドンッ! という破裂音と共に、銃口から強烈な突風が真下に向けて噴射された。
その反動を利用し、ジャズの巨体が重力を無視したように空高く垂直に跳び上がる。
「グルアッ!?」
ジャガーの必殺の爪は、ジャズが直前まで立っていた空気を虚しく切り裂いた。
獲物が突然視界から消え、ジャガーが混乱して首を巡らせた時には、すでに勝負は決していた。
ジャズはジャガーの頭上、はるか上空で空中で姿勢を反転させ、真っ逆さまに落下しながら、再び魔素銃の銃口を獣の無防備な背中へと突きつけていた。
「終わりだ。――――緑魔素よ・赤魔素よ・射出せよ」
ズドォォォォォォォォォンッ!!!
二発目の複合魔素弾が、ジャガーの背骨をど真ん中から貫き、そのまま荒野の地面をすり鉢状に爆砕した。
巨大な空洞が開いた獣の背中から血飛沫が天高く噴き上がり、巨体がドスッと重い音を立てて地面に沈み込む。痙攣すらなく、即死だった。
ジャズは空中でくるりと半回転し、無駄のない動きで地面にふわりと着地する。
ズボンについた赤砂をパンパンと払い、踵を返して馬車へと歩き出した。
「終わったぜ旦那。さっさと馬を出してくれ」
「お、おう。さすがだなジャズ……!」
ジャズは銃の機関部を操作し、煙を上げる『空の小瓶』を排莢すると、何事もなかったかのように後部扉から馬車へと戻ってきた。
扉を閉めようとした瞬間、小窓の鉄格子にへばりついて戦闘を観察していたグレンと、バチリと目が合う。
「ったく、動くなと言っただろうが。殺されたいのか」
ジャズは呆れたように短く吐き捨てると、御者台と荷台を区切る壁に背中を預け、ドスンと腰を下ろした。
御者の男が鞭を振るう音が響き、再び馬車が荒野を走り出す。
檻の床にへたり込んだグレンは、鉄格子の外を流れていく黒焦げのジャガーの死骸を思い返していた。圧倒的な力の差と、暴力で支配される世界の現実を、その小さな魂に深く、深く刻み込むように。
(力がないと、ここでは生きていけない、奪われるだけなんだ。カノンを助ける前に、無力な俺はこのままだと…)
遠ざかる故郷カノンの記憶と、目の前で見せつけられた兵器の威力。
運命の歯車に巻き込まれた八歳の少年を乗せ、奴隷馬車は地獄の労働施設『魔脈坑』へと向かって、ひたすらに荒野を進んでいくのだった。




