一本三十万円
第一章 宣告
「茉莉ちゃんの歯は、二十歳頃、ほとんど抜け落ちて失くなります」
診察室の白い壁に囲まれた空間で、歯科医の言葉は妙に澄んだ響きを持って、小学四年生の茉莉の耳に届いた。
その日のことを、茉莉は今でも鮮明に覚えている。レントゲン室の独特な消毒液の匂い。ひんやりとした金属のフィルムを口の中に入れられたときの違和感。そして、診察室に戻って来た歯科医の、困惑と驚愕が混ざった表情。
「お母さん、これを見てください」
歯科医が黒いフィルムを透かして見せた。そこには茉莉の顎の形と、歯が白く写っていた。いや、正確には「歯だけ」が写っていた。
「普通なら、ここに永久歯の卵が写るんです。見えますか?この影が全部、乳歯なんです。でも、その下に……何もない」
母の顔色が変わるのが、横目で見えた。
「それって……どういう……」
「永久歯が、ないんです」
歯科医は、レントゲン写真の前で説明を続けた。
「先天性無歯症、あるいは先天性欠如歯と言います。茉莉ちゃんの場合、永久歯がほぼ全部ない。こういうケースは稀ですが、ないわけではありません」
茉莉は、その時の母の震える手を覚えている。レントゲン写真を受け取る母の指先が、小刻みに震えていた。
「つまり……乳歯が抜けたら……」
「そうです。生え変わる歯がありません」
その瞬間、茉莉は自分が「普通」ではないのだと理解した。クラスメイトたちは次々と歯が抜け、新しい大きな歯が生えてくることを自慢し合っていた。「昨日、前歯が抜けたんだ」「私も!グラグラしてる」そんな会話が教室に溢れていた。
でも、茉莉の歯は抜けてはいけない歯だった。
「茉莉ちゃん、これからは月に一度、ここに通ってもらいます。歯磨きの指導もしっかりしますからね。キャラメルやガム、固いものは避けるように。乳歯は根が短いから、抜けやすいんです」
歯科医の言葉は優しかったが、その優しさの裏に隠された深刻さを、茉莉は敏感に感じ取っていた。
帰りの車の中で、母はずっと無言だった。いつもなら「今日の給食何だった?」と聞いてくるのに、その日は何も言わなかった。ただ、赤信号で止まるたびに、バックミラー越しに茉莉を見つめていた。その目が、いつもより少し赤かったことを、茉莉は気づかないふりをした。
第二章 小児科の少女
それから茉莉は、月に一度、大学病院の小児歯科に通うようになった。
待合室には、いつも小さな子どもたちがいた。泣いている幼児。お母さんの膝の上で絵本を読んでもらっている赤ちゃん。茉莉は小学生だったが、中学生になっても、高校生になっても、その待合室に座り続けた。
「茉莉ちゃん、今日も一人で来たの?偉いねえ」
十八歳になったある日、いつものように歯科衛生士さんにそう声をかけられた。待合室では、三歳くらいの男の子が「やだー!」と叫びながら母親に抱きかかえられていた。
私はもう本当は小児科じゃないんだけどな、と茉莉は思った。でも、カルテには「小児歯科」と書かれている。十八歳の茉莉は、医療制度上、まだ「小児」だった。
そんな違和感を抱えながらも、茉莉はこの病院に通い続けた。ここの先生たちは、茉莉の歯のことを一番よく知っている。他の歯医者に行けば、また一から説明しなければならない。
そして、あの日が来た。
「今日は研修医の先生たちに、茉莉さんの症例を見せたいんだけど、いいかな?」
担当医の声は、いつもより少し躊躇いがちだった。十八歳の茉莉は、その意味をすぐに理解した。
「……はい」
診察台に座った茉莉の周りに、白衣を着た若い研修医たちが集まってきた。五人、いや六人いただろうか。
「ほら、これが全部、乳歯なんだ」
担当医が茉莉の口を開けさせ、ライトを当てる。研修医たちが身を乗り出して覗き込む。
「本当だ……」
「すごい……こんなに残っているんですか」
「触ってもいいですか」
メモを取る音。カシャカシャというシャープペンシルの音。研修医の一人が、遠慮がちに茉莉の歯に触れる。冷たい手袋越しの感触。
茉莉は天井を見つめた。白い天井。蛍光灯の光。自分が見世物になっている。教科書に載っている「症例」という名の見世物に。
診察が終わって、「ありがとうございました」と研修医たちが頭を下げる。茉莉も会釈する。でも、心の中で何かが少し壊れていくのを感じた。
恥ずかしい。
私の歯は、そんなに珍しいのか。
私は「普通」じゃないんだ。
帰りの電車の中で、茉莉は窓ガラスに映る自分の口元を見つめた。外からは何も分からない。笑っても、話しても、誰も気づかない。でも、この口の中には、二十八本ではなく二十六本の、抜けてはいけない乳歯が並んでいる。
第三章 一本三十万円
インプラント科に初めて連れて行かれたのは、小学五年生の秋だった。
大学病院の中でも、特に新しい建物の五階にあるその科は、待合室からして違っていた。小児歯科のような可愛らしい壁紙やおもちゃはなく、シックなグレーの内装に、観葉植物が置かれている。ここに来る患者は、皆、大人なのだろう。
茉莉と母だけが、明らかに浮いていた。
「お母様、こちらへどうぞ。お子様は……」
「一緒に聞かせてください」
母が言った。普段は優しい母の声が、その時だけ少し強かった。
インプラント科の医師は、丁寧に説明してくれた。模型を使い、図を描き、分かりやすく。でも、その内容は茉莉の小学生の頭には、あまりにも重すぎた。
「チタン製のネジのようなものを、顎の骨に埋め込みます。そこに人工の歯を装着する。これがインプラントです」
ネジ。埋め込む。顎の骨に。
茉莉は思わず自分の顎に手をやった。この中に、金属のネジを入れる。痛そう。怖い。
「費用ですが、一本あたり三十万円になります」
その瞬間、母の息を飲む音が聞こえた。
「さ、三十……」
医師は慣れた様子で続けた。
「茉莉さんの場合、全ての歯を失う可能性がありますので、計算上は……そうですね、二十六本として……」
電卓を叩く音。カチャカチャという、妙に乾いた音。
「約七百八十万円になります。ただ、一度に全て抜けるわけではないので、段階的に……」
七百八十万円。
茉莉は、その金額がどれほど大きいのか、正確には分からなかった。でも、母の顔を見れば分かった。母の顔は真っ白で、唇が震えていた。
「そ、そんなに……」
母の声は、まるで空気が抜けるような、か細い声だった。
「もちろん、医療ローンもありますし、全ての歯が抜けるとは限りません。今はまだお子様ですから、成長を見守りながら……」
医師の言葉は、もう茉莉の耳には入ってこなかった。ただ、母の横顔だけが視界に焼き付いた。虚空を見つめる母の目。握りしめた拳。
帰りのエレベーター。母と茉莉、壮年の女性が一人乗っていた。
「ねえ、お母さん」
茉莉は勇気を出して言った。
「一本三十万円もするんでしょ……?私、本当にしなきゃいけないの?インプラント……」
母は答えなかった。ただ、虚ろな表情で、エレベーターの数字を見つめていた。5階、4階、3階……
一緒に乗っていた女性が小さく呟いた。
「さ、三十万……!?」
どうやら、さっきの会話が聞こえていたらしい。女性は驚いた顔で茉莉たちを見た。
「い、いえ!そんなには……!」
母が慌てて弁解した。なぜ嘘をつくのだろう、と茉莉は思った。本当に一本三十万円なのに。でも、母のその反応が、逆に事態の深刻さを物語っていた。
三十万円は、言ってはいけない金額なのだ。
驚かれてしまう金額なのだ。
そして、我が家には、ない金額なのだ。
第四章 母の貯金
二十歳の誕生日。
茉莉は、あの宣告された年齢についに到達した。「二十歳頃、歯が抜け落ちて失くなります」。
──でも、まだ一本も抜けていなかった。
誕生日のケーキを前に、母が言った。
「茉莉、あのね……言っておきたいことがあるの」
母は、テーブルの引き出しから、一冊の通帳を取り出した。
「もしあんたがインプラントをすることになったら、お金ならちゃんと貯めてあるから」
茉莉は、その通帳を見つめた。母の名前で作られた口座。でも、これは茉莉のための貯金だった。
「お母さん……」
「あの日からね、毎月少しずつ。あんたに言わないで、コツコツと」
母の目が、少し潤んでいた。
「一本三十万円って聞いた時、本当に頭が真っ白になってね。でも、あんたは私の娘だから。何があっても、守らなきゃいけないから」
茉莉の胸が、締め付けられるように痛んだ。
十年間。母は、パートの給料から、毎月少しずつ貯金してくれていたのだ。茉莉が欲しがった服を我慢して。家族旅行を控えて。外食を減らして。
「でも」
茉莉は、通帳を母に返した。
「それはお母さんのお金だよ。私はもう大人。自分のお金でなんとかするから」
「茉莉……」
「大丈夫。ほら、二十歳になったけど、まだ一本も抜けてないし」
茉莉は笑って見せた。でも、その笑顔がどれほど無理をしているか、母には分かっていただろう。
「そうね。そうよね」
母も笑った。でも、その笑顔の裏に隠された心配を、茉莉は感じていた。
「あんたの歯、頑張ってくれてるものね」
「うん、頑張ってくれてる」
二十歳の茉莉は、そう答えた。でも、心の中では、不安が渦巻いていた。
いつまで持つだろう。
明日かもしれない。
来年かもしれない。
それとも、もっと先かもしれない。
歯が抜けたら、一本三十万円。
母の十年分の努力を、一瞬で使い果たしてしまうかもしれない。
そんな未来が、いつ来てもおかしくないのだ。
第五章 三十八歳の綱渡り
それから十八年。
三十八歳になった茉莉の歯は、まだ一本も抜けていなかった。
朝、洗面所で顔を洗い、歯ブラシを手に取る。柔らかい毛の歯ブラシ。歯科医に勧められた、優しく磨けるタイプ。
鏡の前で、茉莉は自分の口を開ける。毎朝の儀式。一本一本、確認する。グラグラしていないか。色が変わっていないか。
大丈夫。今日も、全部ある。
歯磨きは、祈りに似ている。
どうか、今日も抜けませんように。
どうか、もう少し頑張って。
私の歯、お願い。
優しく、丁寧に、時間をかけて磨く。フロスも使う。マウスウォッシュも欠かさない。
職場での昼食。同僚たちが固いせんべいを食べている横で、茉莉はサンドイッチを選ぶ。
「茉莉さん、これ美味しいよ。食べる?」
差し出されたナッツ入りのクッキー。
「ありがとう、でも大丈夫」
断る理由は言わない。「歯が弱いから」とも言わない。ただ、笑顔で断る。
同僚は知らない。茉莉が毎食後、トイレで歯を磨いていることを。ランチの後、必ず歯科用の鏡で歯の状態をチェックしていることを。
夜。ベッドに入る前の、最後の歯磨き。
一本三十万円。
この言葉が、小学生の頃から、ずっと頭のどこかにある。
計算してしまう。もし一本抜けたら、三十万円。二本なら六十万円。五本なら百五十万円。
茉莉の貯金は、今、二百万円ほどある。必死に貯めた。でも、それでも、七本分にもならない。
もし全部抜けたら。
七百八十万円。
一生かかっても、払えるかどうか。
危険な綱渡りをしている。
茉莉は、そんな気がした。
細い、細い綱の上を、バランスを取りながら歩いている。いつ落ちてもおかしくない。風が吹けば、揺れる。何かの拍子に、バランスを崩すかもしれない。
でも、今日も、無事に一日を終えた。
歯は、健気に頑張ってくれている。
三十八年間、ずっと。
第六章 見えない重荷
休日の午後。茉莉は街を歩いていた。
すれ違う人々。笑いながら話しているカップル。ベビーカーを押す母親。イヤホンをして歩くサラリーマン。
皆、何かを抱えて生きているのだろうか。
茉莉は、ふと思った。
あのカップルは、幸せそうに見える。でも、もしかしたら、誰にも言えない悩みを抱えているかもしれない。
あの母親は、子育てに疲れているかもしれない。でも、笑顔でいる。
あのサラリーマンは、仕事のプレッシャーと戦っているかもしれない。でも、歩き続けている。
皆、見えない重荷を背負っている。
茉莉の重荷は、「一本三十万円」という数字。
でも、それは茉莉だけの重荷ではない。誰もが、何かを抱えて生きている。
病気。借金。家族の問題。心の傷。過去の後悔。未来への不安。
目には見えない、でも確かにそこにある重荷。
茉莉は、道行く人々に、妙な仲間意識のようなものを感じた。
私たちは皆、何かを抱えながら、それでも歩いている。
今日を生きて、明日を迎えようとしている。
信号が青に変わる。茉莉は歩き出す。
口の中で、そっと舌で歯を確認する。いつもの癖。まだ、全部ある。
大丈夫。今日も、頑張ってくれている。
茉莉の歩みは、少し軽くなった気がした。
エピローグ
その夜、茉莉は久しぶりに母に電話をした。
「お母さん、私ね」
「どうしたの、茉莉」
「まだ、一本も抜けてないよ」
電話の向こうで、母が笑う声が聞こえた。
「そう。よかったわ。あんたの歯、本当に頑張ってるのね」
「うん。三十八年間、ずっと」
沈黙。でも、それは心地よい沈黙だった。
「あのね、お母さん。あの時の貯金のこと、ずっと感謝してる」
「もう、そんな昔のこと」
「ううん。忘れてないよ。お母さんが、毎月コツコツ貯めてくれたこと。それが、私の支えになってた」
「茉莉……」
「私も今、自分で貯金してる。もしもの時のために。でも、それ以上に、今ある歯を大切にしようって思ってる」
「そうね。それがいいわ」
電話を切った後、茉莉は洗面所に立った。
鏡の中の自分を見る。三十八歳の女性。笑うと、白い歯が見える。
この歯は、普通の永久歯ではない。三十八年間、抜け替わらなかった乳歯。
でも、この歯があるから、茉莉は食事ができる。笑える。話せる。生きていける。
一本三十万円。
この呪文のような数字は、これからもずっと、茉莉の人生に付きまとうだろう。
でも、それでいい。
茉莉は、歯ブラシを手に取った。今夜も、丁寧に、祈るように、歯を磨く。
明日も、この歯と一緒に生きていく。
明後日も。
その先も。
どこまで行けるか分からない。でも、今日という一日を、無事に終えることができた。
それで、十分だ。
茉莉は、鏡の中の自分に微笑みかけた。
そして、小さく呟いた。
「ありがとう、私の歯」
──完──




