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舞姫と清治郎

作者: 永見悠
掲載日:2026/01/08

 血の匂いが、まだ大地に残っていた。

東西戦は東国の勝利で終わり、西国の兵は夜の闇へと散っていった。鎧も誇りも捨て、ただ生き延びるために。

ただ一人、清治郎を残して。

彼は折れた槍を支えに、屍の間に身を潜めていた。逃げる命令は出ていた。だが、忠誠を誓った国を背にして走ることが、どうしてもできなかった。

そのときだった。

鈴の音が、戦場に響いた。

清治郎は息を呑んだ。

死と鉄の世界に、あまりにも不釣り合いな音だった。

屍の向こう、月明かりの中に、一人の女が立っていた。

長い黒髪が風に揺れ、白い衣が血に染まった地をなぞる。その姿は、まるでこの世のものではないようだった。

女は舞っていた。

剣も槍も持たず、ただ静かに、丁寧に。

死者のために祈るように、悲しみを包み込むように。

――東国の舞姫。

清治郎はそう直感した。

敵国の姫。捕らえれば、功は大きい。

彼は剣に手を伸ばした。

だが、指が止まる。

美しい、と思ってしまった。

恐ろしいほどに澄んだ瞳。

死を前にしてなお揺るがぬ、慎ましやかな微笑。

その瞬間、清治郎の胸に生まれた感情は、忠誠よりも速く、深く、心を掴んだ。

舞が終わり、姫は清治郎の存在に気づいた。

驚くことも、叫ぶこともなく、ただ静かに問いかける。

「……あなたのお名前は?」

その声に、清治郎は剣を落とした。

「清治郎、です」

嘘はつけなかった。

姫は小さく頷き、柔らかく微笑んだ。

「そう。では、清治郎。東国へ参りましょう」

その背後で、姫の視線が一瞬だけ屍へと向けられたことを、清治郎は気づかなかった。

血に濡れた指先が、わずかに震えていたことも。

こうして、戦場での出会いは、誰にも知られぬまま、運命へと姿を変えていった。


 東国の城は、清治郎の知る西国の城とはまるで違っていた。

高く白い城壁、整えられた庭、血の気を感じさせぬ静けさ。

「こちらへ」

舞姫に導かれ、清治郎は城門をくぐった。

彼は“東国の兵の生き残り”として城へ出向かれた。

戦場にはあまりにも多くの死があった。生き残った兵の顔を、すべて覚えている者などいない。

清治郎が西国の兵であることを疑う声は、どこからも上がらなかった。

彼は語った。

戦が終わったあとも、敵兵が再び攻め込まぬよう、独りで見張りをしていたこと。

気づけば東国の兵に保護され、城へ導かれたこと。

その話は、自然に受け入れられた。

「忠義ある者だ」

「命を懸けて国を守ったのだな」

そう言われ、清治郎は胸の奥に小さな痛みを覚えた。

それは罪悪感か、それとも――安堵か。

城での暮らしは、驚くほど穏やかだった。

温かな食事、柔らかな寝床、労いの言葉。

そして、舞姫。

彼女は城でも慎ましく、聖女のように人々に慕われていた。

鎮魂の舞を舞うたび、城の者たちは涙を流し、手を合わせた。

清治郎もまた、その姿に心を奪われていた。

 夜、回廊で二人きりになることがあった。

「戦は……お辛かったでしょう」

舞姫はそう言って、静かに目を伏せる。

「ええ。でも、あなたの舞を見て、救われました」

嘘ではなかった。

戦場で彼を縛っていた忠誠心は、東国の穏やかさの中で、少しずつ輪郭を失っていった。

――ここにいてもいいのではないか。

――この人のそばに。

そう思い始めた自分に、清治郎は気づいていた。

ただ、一つだけ。

どうしても拭えぬ違和感があった。

舞姫は、死の話になると、決まって少しだけ饒舌になるのだ。

「……戦場には、多くの魂が残ります」 「人は、最期にどんな顔をしているのでしょうね」

その声は、あまりにも静かで、優しくて――

どこか、楽しげにも聞こえた。

ある夜、清治郎は見てしまう。

舞の練習場に、姫が一人佇んでいるのを。

月明かりの下、彼女は舞っていた。

誰のためでもない舞。

祈りではない舞。

床に落ちた、乾いた血の跡を踏みしめながら。

その唇が、わずかに笑っていることに、

清治郎はまだ、気づかなかった。


 城での暮らしに、季節が二つ過ぎた。

剣を取る日々は遠ざかり、清治郎は東国の兵として名を呼ばれるようになっていた。

見張りに立ち、訓練に混じり、城を守る。

それが当たり前の日常になっていた。

そして、その日常の中心には、いつも舞姫がいた。

彼女の舞を見ぬ日はなく、言葉を交わさぬ夜もなかった。

清治郎の忠誠心は、国から人へと、静かに形を変えていた。

――この人を、守りたい。

角笛が鳴ったのは、そんな朝だった。

西国の軍勢が、城へ向かって進軍してくるという報せ。

鎧を身に着けた兵たちの顔が、一斉に強張る。

清治郎の胸が、凍りついた。

西国。

かつて命を捧げると誓った国。

剣を握る手が、震える。

敵は、かつての仲間かもしれない。

斬れば、裏切り者。

斬らねば、今いる場所を失う。

迷いの中で、彼は舞姫を見た。

城壁の上、白い衣を纏い、戦場を見下ろす彼女の姿。

その横顔は、いつもと変わらず静かで――

清治郎は、決めた。

彼が忠誠を誓うのは、国ではない。

目の前にいる、この人だ。

「行ってきます」

そう告げると、舞姫は小さく頷いた。

 戦は、激しかった。

剣がぶつかり、叫びが上がり、地は赤く染まっていく。

東も西も関係なく、人が倒れていった。

清治郎は剣を振るった。

守るために。

生きるために。

その間、舞姫は遠くから戦場を見つめていた。

血の匂い。

断末魔。

折り重なる死体。

そのすべてが、彼女の視界に広がっていた。

美しい、と。

思ってしまった。

胸が、熱く震える。

足先から、ぞくりとした快感が走る。

――近くで、見たい。

――触れて、確かめたい。

その瞬間、舞姫の中で、何かが音を立てて崩れた。

理性でも、仮面でもない。

ずっと抑え込んできた衝動が、戦場の熱に溶け出していく。

戦は泥沼となり、東国も西国も疲弊していった。

共倒れも時間の問題だった。

そのとき。

戦場の中央へ、白い影が進み出た。

舞姫だった。

剣も盾も持たず、ただ鈴を鳴らし、舞い始める。

血に濡れた地の上で、屍に囲まれながら。

兵たちは動きを止めた。

敵も味方も、息を呑んだ。

それは、鎮魂の舞だった。

そう、誰もが思った。

しかしその舞は、祈りではなかった。

死を愛でるように。

屍を招くように。

舞姫は、恍惚とした表情で踊り続けた。

その姿を見て、清治郎の胸に、初めて恐怖が芽生えた。

—―美しい。

—―だが、何かが、おかしい。

血の海の中で舞う姫は、

もはや聖女ではなく、

死そのもののように見えた。

それでも清治郎は、目を逸らせなかった。

恋は、まだ、彼の目を曇らせていた。


戦は、終わった。

勝者はいなかった。

東国も西国も、屍の山を残して剣を下ろした。

血の匂いが、再び戦場を支配する。

清治郎は折れかけた剣を手に、立ち尽くしていた。

その中央で、舞姫は舞っていた。

誰も止めなかった。

誰も声をかけなかった。

それは、あまりにも神聖で――

同時に、冒涜的だった。

清治郎は、胸の奥に張り付いていた違和感を、もう無視できなかった。

舞姫の目が、人ではない何かを映している。

彼は、戦場の奥へと足を進めた。

舞の合間、舞姫は死体に近づき、そっと膝を折った。

その指が、冷え切った頬に触れる。

「……やっぱり、近くはいいわ」

その声は、甘く、蕩けるようだった。

清治郎の背筋が凍る。

「姫……?」

声をかけた瞬間、舞姫は振り返った。

その表情に、悲しみはなかった。

祈りも、慈しみも。

あったのは――

抑えきれぬ歓喜だった。

「見て、清治郎」

彼女は屍を指差す。

「この人たち、とても綺麗でしょう」

「恐怖も、後悔も、全部ここに残しているの」

清治郎は、一歩後ずさった。

「……鎮魂の舞、ではなかったのですか」

舞姫は、きょとんと首を傾げたあと、くすりと笑った。

「鎮魂? ええ、そうよ。皆、そう信じているわ」

「人はね、悲しんでいる顔を見ると、安心するの」

その言葉で、すべてが繋がった。

戦場での異様な静けさ。

死の話題になるときの、微かな高揚。

月明かりの下、血を踏みしめて踊る姿。

「……あなたは」

声が、震えた。

「人の死を、愛しているのですか」

舞姫は、否定しなかった。

むしろ、誇らしげに微笑んだ。

「ええ」

「だって、死はこんなにも正直だもの」

そして、清治郎を見つめる。

「あなたも、最初から見ていたでしょう」 「あの戦場で、私がどんな気持ちで舞っていたか」

清治郎は、言葉を失った。

――知っていた。

――見ないふりをしていただけだ。

「でもね」

舞姫は、静かに近づく。

「あなたは特別よ、清治郎」

「私の舞を、最初から“美しい”と思ってくれた」

その距離で、彼は気づいてしまった。

彼女の瞳に映る自分が、

生きている者ではなく、

いずれ踊りの一部になるものとして見られていることに。

「逃げてください……」

絞り出すように言った。

舞姫は、首を振る。

「逃げないわ」

「だって、あなたはもう――こちら側でしょう?」

血に染まった戦場で、鈴が鳴る。

舞姫は再び舞い始めた。

血に濡れた大地を踏みしめ、屍の間を縫うように、彼女は舞う。

それは祈りではなかった。

慰めでも、哀悼でもない。

死を迎え入れるための、舞だった。

清治郎は、その場に立ち尽くしていた。

剣を握る手が、震えている。

――知ってしまった。

――この舞は、人を救うためのものではない。

舞姫の瞳は、死人だけを見ていた。

生きている者には向けられない、飢えた視線。

「……姫」

呼びかけると、舞姫は振り返った。

その表情に、もはや聖女の影はない。

「清治郎」

名を呼ばれた瞬間、彼の心は決まった。

この姫は、生かしてはいけない。

彼女は剣を持たない。

だが、戦よりも多くの死を望む存在だ。

逃げれば、また舞う。

斬れば、自分が壊れる。

ならば――

清治郎は、静かに剣を拾った。

「あなたを、今殺します」

舞姫は、嬉しそうに微笑んだ。

「まあ……それは、愛?」

答えず、清治郎は剣先を自らの胸へと向けた。

刃が肉を裂く。

温かな血が、溢れ出す。

舞姫の目が、大きく見開かれた。

「……ああ」

その声は、悲鳴ではなかった。

歓喜だった。

「なんて、綺麗なの……」

清治郎は膝をつき、崩れ落ちる。

その姿を、舞姫は見つめ続けていた。

「あなたは……これ以上、舞ってはいけない」

震える声で、そう告げる。

舞姫は、ゆっくりと近づき、彼の頬に触れた。

その指先は、冷たくも温かくもなかった。

「ねえ、清治郎」

「あなたは、本当に優しい人ね」

彼女は、清治郎の剣を両手で包み込み、

そのまま、自らの胸へと引き寄せた。

「だから、一緒に終わりましょう」

刃が、舞姫の身体を貫く。

血が、二人を結ぶように地に流れ落ちる。

舞姫は、最後まで微笑んでいた。

「これで……もう、誰も、舞わなくていい」

清治郎は、彼女を抱きしめた。

重なり合う血の温もりが、ゆっくりと冷えていく。

鈴が、かすかに鳴る。

それは鎮魂のための音ではなかった。

終わりを告げる、共舞の音だった。

翌朝、人々は戦場で二つの屍を見つけた。

寄り添うように倒れた、姫と兵士。

その表情は、あまりにも穏やかで。

人々は語った。

「姫は、最後まで人の死を悼んでいた」と。

真実を知る者は、

もう、この世にいなかった。



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