舞姫と清治郎
血の匂いが、まだ大地に残っていた。
東西戦は東国の勝利で終わり、西国の兵は夜の闇へと散っていった。鎧も誇りも捨て、ただ生き延びるために。
ただ一人、清治郎を残して。
彼は折れた槍を支えに、屍の間に身を潜めていた。逃げる命令は出ていた。だが、忠誠を誓った国を背にして走ることが、どうしてもできなかった。
そのときだった。
鈴の音が、戦場に響いた。
清治郎は息を呑んだ。
死と鉄の世界に、あまりにも不釣り合いな音だった。
屍の向こう、月明かりの中に、一人の女が立っていた。
長い黒髪が風に揺れ、白い衣が血に染まった地をなぞる。その姿は、まるでこの世のものではないようだった。
女は舞っていた。
剣も槍も持たず、ただ静かに、丁寧に。
死者のために祈るように、悲しみを包み込むように。
――東国の舞姫。
清治郎はそう直感した。
敵国の姫。捕らえれば、功は大きい。
彼は剣に手を伸ばした。
だが、指が止まる。
美しい、と思ってしまった。
恐ろしいほどに澄んだ瞳。
死を前にしてなお揺るがぬ、慎ましやかな微笑。
その瞬間、清治郎の胸に生まれた感情は、忠誠よりも速く、深く、心を掴んだ。
舞が終わり、姫は清治郎の存在に気づいた。
驚くことも、叫ぶこともなく、ただ静かに問いかける。
「……あなたのお名前は?」
その声に、清治郎は剣を落とした。
「清治郎、です」
嘘はつけなかった。
姫は小さく頷き、柔らかく微笑んだ。
「そう。では、清治郎。東国へ参りましょう」
その背後で、姫の視線が一瞬だけ屍へと向けられたことを、清治郎は気づかなかった。
血に濡れた指先が、わずかに震えていたことも。
こうして、戦場での出会いは、誰にも知られぬまま、運命へと姿を変えていった。
東国の城は、清治郎の知る西国の城とはまるで違っていた。
高く白い城壁、整えられた庭、血の気を感じさせぬ静けさ。
「こちらへ」
舞姫に導かれ、清治郎は城門をくぐった。
彼は“東国の兵の生き残り”として城へ出向かれた。
戦場にはあまりにも多くの死があった。生き残った兵の顔を、すべて覚えている者などいない。
清治郎が西国の兵であることを疑う声は、どこからも上がらなかった。
彼は語った。
戦が終わったあとも、敵兵が再び攻め込まぬよう、独りで見張りをしていたこと。
気づけば東国の兵に保護され、城へ導かれたこと。
その話は、自然に受け入れられた。
「忠義ある者だ」
「命を懸けて国を守ったのだな」
そう言われ、清治郎は胸の奥に小さな痛みを覚えた。
それは罪悪感か、それとも――安堵か。
城での暮らしは、驚くほど穏やかだった。
温かな食事、柔らかな寝床、労いの言葉。
そして、舞姫。
彼女は城でも慎ましく、聖女のように人々に慕われていた。
鎮魂の舞を舞うたび、城の者たちは涙を流し、手を合わせた。
清治郎もまた、その姿に心を奪われていた。
夜、回廊で二人きりになることがあった。
「戦は……お辛かったでしょう」
舞姫はそう言って、静かに目を伏せる。
「ええ。でも、あなたの舞を見て、救われました」
嘘ではなかった。
戦場で彼を縛っていた忠誠心は、東国の穏やかさの中で、少しずつ輪郭を失っていった。
――ここにいてもいいのではないか。
――この人のそばに。
そう思い始めた自分に、清治郎は気づいていた。
ただ、一つだけ。
どうしても拭えぬ違和感があった。
舞姫は、死の話になると、決まって少しだけ饒舌になるのだ。
「……戦場には、多くの魂が残ります」 「人は、最期にどんな顔をしているのでしょうね」
その声は、あまりにも静かで、優しくて――
どこか、楽しげにも聞こえた。
ある夜、清治郎は見てしまう。
舞の練習場に、姫が一人佇んでいるのを。
月明かりの下、彼女は舞っていた。
誰のためでもない舞。
祈りではない舞。
床に落ちた、乾いた血の跡を踏みしめながら。
その唇が、わずかに笑っていることに、
清治郎はまだ、気づかなかった。
城での暮らしに、季節が二つ過ぎた。
剣を取る日々は遠ざかり、清治郎は東国の兵として名を呼ばれるようになっていた。
見張りに立ち、訓練に混じり、城を守る。
それが当たり前の日常になっていた。
そして、その日常の中心には、いつも舞姫がいた。
彼女の舞を見ぬ日はなく、言葉を交わさぬ夜もなかった。
清治郎の忠誠心は、国から人へと、静かに形を変えていた。
――この人を、守りたい。
角笛が鳴ったのは、そんな朝だった。
西国の軍勢が、城へ向かって進軍してくるという報せ。
鎧を身に着けた兵たちの顔が、一斉に強張る。
清治郎の胸が、凍りついた。
西国。
かつて命を捧げると誓った国。
剣を握る手が、震える。
敵は、かつての仲間かもしれない。
斬れば、裏切り者。
斬らねば、今いる場所を失う。
迷いの中で、彼は舞姫を見た。
城壁の上、白い衣を纏い、戦場を見下ろす彼女の姿。
その横顔は、いつもと変わらず静かで――
清治郎は、決めた。
彼が忠誠を誓うのは、国ではない。
目の前にいる、この人だ。
「行ってきます」
そう告げると、舞姫は小さく頷いた。
戦は、激しかった。
剣がぶつかり、叫びが上がり、地は赤く染まっていく。
東も西も関係なく、人が倒れていった。
清治郎は剣を振るった。
守るために。
生きるために。
その間、舞姫は遠くから戦場を見つめていた。
血の匂い。
断末魔。
折り重なる死体。
そのすべてが、彼女の視界に広がっていた。
美しい、と。
思ってしまった。
胸が、熱く震える。
足先から、ぞくりとした快感が走る。
――近くで、見たい。
――触れて、確かめたい。
その瞬間、舞姫の中で、何かが音を立てて崩れた。
理性でも、仮面でもない。
ずっと抑え込んできた衝動が、戦場の熱に溶け出していく。
戦は泥沼となり、東国も西国も疲弊していった。
共倒れも時間の問題だった。
そのとき。
戦場の中央へ、白い影が進み出た。
舞姫だった。
剣も盾も持たず、ただ鈴を鳴らし、舞い始める。
血に濡れた地の上で、屍に囲まれながら。
兵たちは動きを止めた。
敵も味方も、息を呑んだ。
それは、鎮魂の舞だった。
そう、誰もが思った。
しかしその舞は、祈りではなかった。
死を愛でるように。
屍を招くように。
舞姫は、恍惚とした表情で踊り続けた。
その姿を見て、清治郎の胸に、初めて恐怖が芽生えた。
—―美しい。
—―だが、何かが、おかしい。
血の海の中で舞う姫は、
もはや聖女ではなく、
死そのもののように見えた。
それでも清治郎は、目を逸らせなかった。
恋は、まだ、彼の目を曇らせていた。
戦は、終わった。
勝者はいなかった。
東国も西国も、屍の山を残して剣を下ろした。
血の匂いが、再び戦場を支配する。
清治郎は折れかけた剣を手に、立ち尽くしていた。
その中央で、舞姫は舞っていた。
誰も止めなかった。
誰も声をかけなかった。
それは、あまりにも神聖で――
同時に、冒涜的だった。
清治郎は、胸の奥に張り付いていた違和感を、もう無視できなかった。
舞姫の目が、人ではない何かを映している。
彼は、戦場の奥へと足を進めた。
舞の合間、舞姫は死体に近づき、そっと膝を折った。
その指が、冷え切った頬に触れる。
「……やっぱり、近くはいいわ」
その声は、甘く、蕩けるようだった。
清治郎の背筋が凍る。
「姫……?」
声をかけた瞬間、舞姫は振り返った。
その表情に、悲しみはなかった。
祈りも、慈しみも。
あったのは――
抑えきれぬ歓喜だった。
「見て、清治郎」
彼女は屍を指差す。
「この人たち、とても綺麗でしょう」
「恐怖も、後悔も、全部ここに残しているの」
清治郎は、一歩後ずさった。
「……鎮魂の舞、ではなかったのですか」
舞姫は、きょとんと首を傾げたあと、くすりと笑った。
「鎮魂? ええ、そうよ。皆、そう信じているわ」
「人はね、悲しんでいる顔を見ると、安心するの」
その言葉で、すべてが繋がった。
戦場での異様な静けさ。
死の話題になるときの、微かな高揚。
月明かりの下、血を踏みしめて踊る姿。
「……あなたは」
声が、震えた。
「人の死を、愛しているのですか」
舞姫は、否定しなかった。
むしろ、誇らしげに微笑んだ。
「ええ」
「だって、死はこんなにも正直だもの」
そして、清治郎を見つめる。
「あなたも、最初から見ていたでしょう」 「あの戦場で、私がどんな気持ちで舞っていたか」
清治郎は、言葉を失った。
――知っていた。
――見ないふりをしていただけだ。
「でもね」
舞姫は、静かに近づく。
「あなたは特別よ、清治郎」
「私の舞を、最初から“美しい”と思ってくれた」
その距離で、彼は気づいてしまった。
彼女の瞳に映る自分が、
生きている者ではなく、
いずれ踊りの一部になるものとして見られていることに。
「逃げてください……」
絞り出すように言った。
舞姫は、首を振る。
「逃げないわ」
「だって、あなたはもう――こちら側でしょう?」
血に染まった戦場で、鈴が鳴る。
舞姫は再び舞い始めた。
血に濡れた大地を踏みしめ、屍の間を縫うように、彼女は舞う。
それは祈りではなかった。
慰めでも、哀悼でもない。
死を迎え入れるための、舞だった。
清治郎は、その場に立ち尽くしていた。
剣を握る手が、震えている。
――知ってしまった。
――この舞は、人を救うためのものではない。
舞姫の瞳は、死人だけを見ていた。
生きている者には向けられない、飢えた視線。
「……姫」
呼びかけると、舞姫は振り返った。
その表情に、もはや聖女の影はない。
「清治郎」
名を呼ばれた瞬間、彼の心は決まった。
この姫は、生かしてはいけない。
彼女は剣を持たない。
だが、戦よりも多くの死を望む存在だ。
逃げれば、また舞う。
斬れば、自分が壊れる。
ならば――
清治郎は、静かに剣を拾った。
「あなたを、今殺します」
舞姫は、嬉しそうに微笑んだ。
「まあ……それは、愛?」
答えず、清治郎は剣先を自らの胸へと向けた。
刃が肉を裂く。
温かな血が、溢れ出す。
舞姫の目が、大きく見開かれた。
「……ああ」
その声は、悲鳴ではなかった。
歓喜だった。
「なんて、綺麗なの……」
清治郎は膝をつき、崩れ落ちる。
その姿を、舞姫は見つめ続けていた。
「あなたは……これ以上、舞ってはいけない」
震える声で、そう告げる。
舞姫は、ゆっくりと近づき、彼の頬に触れた。
その指先は、冷たくも温かくもなかった。
「ねえ、清治郎」
「あなたは、本当に優しい人ね」
彼女は、清治郎の剣を両手で包み込み、
そのまま、自らの胸へと引き寄せた。
「だから、一緒に終わりましょう」
刃が、舞姫の身体を貫く。
血が、二人を結ぶように地に流れ落ちる。
舞姫は、最後まで微笑んでいた。
「これで……もう、誰も、舞わなくていい」
清治郎は、彼女を抱きしめた。
重なり合う血の温もりが、ゆっくりと冷えていく。
鈴が、かすかに鳴る。
それは鎮魂のための音ではなかった。
終わりを告げる、共舞の音だった。
翌朝、人々は戦場で二つの屍を見つけた。
寄り添うように倒れた、姫と兵士。
その表情は、あまりにも穏やかで。
人々は語った。
「姫は、最後まで人の死を悼んでいた」と。
真実を知る者は、
もう、この世にいなかった。




