ヴェルメリアの策略
社長室の窓から夜景を眺めながら、羅那は書類に目を落としていた。
朝から仕事をしているというのに、その進みは、かなり悪い。
自分でも驚くくらいだ。
手元の書類に視線を落としているはずなのに、胸の奥がざわつき、まるで誰かが見つめているかのように、心が勝手に反応する。
(……ヴェルメリア……)
思わず頭を振る。ここはオフィスだ。仕事中だ。
だが、瞳の隅に映る空気の揺れ、窓の反射、書類の影……そのすべてが、彼女の姿に見えてしまっていたからだ。
(……これは明らかにおかしい。まさか……)
その仮定に行きつき、羅那は内心焦る。何故なら、抗えるはずのものが抗えていないのだから。
「……何だ、これは」
低く呟き、拳を握る。胸の熱を抑え込もうとするが、震えは止まらない。理性では拒みたい。だが、体は自然と、あの赤紫の瞳を求めている。息を荒げるように、持っていた書類を机の上に置いた。
その時、社長室の影から、ふわりと彼女が現れた。
「羅那様……お仕事は順調ですか?」
「ヴェルメリア……か?」
そのヴェルメリアの声は甘く、しかし、艶めかしい響き。
羅那は息を詰め、睨みつけようとして、何かを感じとり、すぐさま止めて、視線を逸らす――だが、目の端には、確かにヴェルメリアの存在が焼き付く。
「……また、現れたか」
「ふふ、当然ですわ。羅那様が私を求めているのなら……この私も積極的に応えなくては、ね」
彼女の瞳は紅く光り、微笑の端には計算された誘惑が含まれていた。執拗に、しかし静かに、羅那を自分のもとへ引き寄せようとする力。
羅那はその瞬間、理性が薄れていくのを感じた。胸の奥で暴れる災厄の力が、彼女の魔法と共鳴するように熱を帯びる。
(……サナのことが、好きなはずなのに……!!)
胸が痛む。好きな気持ちは消えていないのに、ヴェルメリアへの渇望がそれを押しのけるように強くなる。明らかにおかしい。何か魔力的なものを感じた。
これは恐らくヴェルメリアが何かをしている。
「あなた様には、妖魔の国に来ていただかなくてはならないのです……」
「こんなときに何を……」
必死に湧いてくる欲望を抑えながら、羅那はヴェルメリアを睨みつける。
「妖魔の国は今、『瘴気に侵されている』と言ったら?」
「!!?」
突然のヴェルメリアの言葉に、羅那は驚愕する。
「瘴気? だが、妖魔には……」
「ええ、私達にはそんなもの、問題ありません、が……それを魔力に変えていただかないと、我々は生きてはいられません。その役目を『歴代の魔王』様方が担ってくださっていました」
ヴェルメリアは、羅那の胸元をそっと触れながら、見上げるように囁いた。
「羅那様なら、それができますわよね?」
「…………!!」
出来ると言えば、出来るだろう。だが、瘴気を魔力に変えることが出来ても、それは体内に瘴気を入れて変換すること。
『人間』に出来ることではない。人間にとっては、瘴気は毒だから。
だが、『神の器』としての自分では?
しかし、どのくらいの瘴気があるのかわからない。もし、万が一、耐え切れないほどの瘴気があるのならば、無理だ。
「ふふふ、安心してくださいませ。魔王様にしか動かせませんが、瘴気を魔力に変える魔導具がございます。それは魔王にしか使えないもの、でも羅那様であれば……」
「動かせる……というのか……?」
ええと、甘い声でヴェルメリアは笑みを深める。
その度に、ヴェルメリアからは甘い香りが漂うのが分かった。いや、これは魔力の匂い。
わかっている。自分はヴェルメリアの策略にまんまとやられている。
いったい、いつからかけられていた?
先日、喋る少年妖魔に会ってから? それとも……初めて会ったあのときから……?
「さあ、羅那様……私の手を取ってくださいませ……大丈夫ですわ。夜伽のことには、とても詳しいですの。あなた様はただ、私に身を委ねていただければ、それでよいのです」
手を差し伸べてきた。
はぁ……はぁ……と、息が荒くなる。何もかもが熱い。
正直言うと、ヴェルメリアが…………。
「違うっ!! 俺が欲しいのは、本当に欲しいのはっ!! サナだけだっ!!!」
どくんと、何かが弾けた。おどろおどろしい何かが、突然、爆ぜた。
「うぐっ!! くそっ!! こんな、ときにっ……!!!」
「羅那様っ!!!」
爆ぜたのは、災厄の力。咄嗟に羅那が抑え込んだが、それでも……まだ完全ではない。
「羅那様、羅那様っ!!」
遠くでヴェルメリアが叫ぶ声が聞こえた。
いつの間にか、先ほどまで自分を支配していた体の熱さが消え去っていた。
いや、それどころではない。
ここで災厄を噴出させるわけにはいかない。
ここには……大切な、自分が選び、導いてきた社員達がいるのだから!
「うああああああっ!!!」
「羅那様、いけませんっ!!」
羅那だけでなく、ヴェルメリアもまた、力を使って、災厄を抑え込む。いや、殆ど、羅那の力で抑え込むことが出来た。
「…………ヴェルメリア……これが……お前の、求めていた……もの、か……」
「羅那様、羅那様……!!」
なんとか抑えきって、そして、疲れた様子で羅那がその場で崩れ落ちるのを、ヴェルメリアが支えた。
「いいえ、私は…………」
ヴェルメリアが求めていた『結果』ではない。ここまで追いつめるわけではなかった。
しかし、だが。
「不本意ではありますが……これならば、羅那様を運べますわね……」
あなたは、私を恨むでしょうか?
どうして、そんな言葉が出てきたのか、ヴェルメリア自身、分からない。ずきりと胸が痛むのは、羅那が苦しんで、そして、厄災を抑えてくれたからに他ならない。
「どうして、私はこんな感情を……?」
いや、違う。今は。
「いいえ、これで良いのです。魔王様は、我々になくてはならないお方。さあ、行きましょう、羅那様。いいえ、我が『魔王様』」
彼を両手で抱えて立ち上がると、誇らしげな笑みを浮かべ、ヴェルメリアはそのまま、妖魔の世界へと転移したのだった。
ふと、羅那の父、翔が窓の外を見た。
空には不穏な雲が立ち込めている。
「気のせい……か……?」
見ていた書類を置いて、翔は思わず、手元にあったパソコンを操作し始めたのだった。




