不穏な夢と避けられたことと
その夜、サナは久しぶりに『夢』を見た。
濃い霧に包まれた何もない場所。
目の前には、羅那によく似た影が立っていた。しかし……その瞳だけが、羅那のものではなかった。
いつもは青と金の宝石のような瞳なのに、そこにいた羅那の瞳は、あの災厄と同じ、赤と黒の恐ろしい輝きをしていた。
まるで、深い闇の底で何かが蠢いているような、そんな瞳を……。
そして、その姿は明らかに羅那なのに、そこに宿っている何か、いや『誰か』は、羅那ではなかった。
「……羅那、くん……?」
声を出そうとしても、空気に吸われて出てこない。
ただ影の羅那が、ゆっくりとサナの方へと手を伸ばし、その指先から黒紫の霧が零れた。
触れたら消えてしまう。
そんな恐怖と悲しさが胸を締めつけた。
それでも、サナは必死にその手を伸ばそうとして……。
がばりと起き上がった。
知らない間に汗もかいていて、べたつくその感触が悪夢を呼び起こすかのよう。
サナが目を覚ましたのは、朝の弱い光がカーテンの隙間から差し込む頃。
胸が早く脈打っている。夢の余韻が消えない。
(……なんで、あんな夢……)
あの悪夢を跳ね退けるかのように、勢いよくカーテンを開いたのだった。
不安な気持ちを抱えたまま、サナは羅那と昼食を共にした。
会社の合間、昼休憩の時間。その時間を利用して、二人で近所のカフェに来ている。
本来なら心が落ち着くはずの時間なのに、胸のざわつきだけが邪魔をする。
「サナ、シフォンケーキ好きだったよね。これ、頼もっか?」
「うん。……ねぇ羅那くん」
恐る恐るサナが切り出した。
「今日……なんか疲れてる?」
そう、サナが問いかけた瞬間、羅那の動きが止まった。
――サナの目の前で、彼は一瞬だけ『完全に表情を失った』のだ。呼吸が一瞬止まったかのように。
まるで意識がどこか遠くへ引きずられたように、その瞳に光がなくなる。
「……羅那、くん?」
声をかけた瞬間、羅那の瞳が戻った。
いつもの柔らかい笑顔――だが、その『切り替わり』が何故か不自然のように感じた。いや、違和感と言うべきか。
「ごめん。ちょっと考えごとしてた」
軽く笑い飛ばすが、サナの胸に不安が残る。あの悪夢が蘇るように、サナの胸を締めつけるように。
「でも……本当に、大丈夫? 顔色が悪いよ……」
「大丈夫だよ」
羅那はすぐに即答する。その声音には、触れられたくないものを隠すような硬さがあった。
思わず、サナはそっと手を伸ばした。指先が羅那の手に触れるというその時。
「……っ」
羅那は微かに肩を震わせ、その手をすっと引いた。
――触れられることを避けた。これまで一度もなかった動き。
「……ごめん。今日、ちょっと体調悪いかも。風邪かもしれないし、サナに移したら嫌だから……」
羅那が笑って言う。だが、その笑顔はどこかぎこちなさを感じていた。
――距離を感じる。
初めて、心の中に壁ができたみたいだった。
「そう……? でも、無理しないでね」
口ではそう言いながら、サナの胸は締めつけられるように痛む。
(……なんか、おかしいよ、変だよ。羅那くん……)
話しているのに、どこか遠い。
繋いだはずの手が、するりと零れ落ちるような感覚。何かがパキリと割れたような、そんな痛みをサナは感じたのだ。
夢の中の『不気味な影』が、再びサナの脳裏を掠め、その胸に影を落とすのであった。




