彼との出会いは突然に
昼過ぎのオフィスは、空調の音とキーボードを叩く音だけが支配していた。
ふわりと、柔らかな亜麻色の髪が横切った。
「柊さん、これもお願いするわ」
いつものように、麗子は柊と呼んだ亜麻色の髪の若い女性に仕事を手渡してきた。
「あ……はい、わかりました」
ちょっとだけ、柊は驚くものの、それを受け取る。
「ちょっと……サナ。受け取りすぎじゃない? こっちは私がやってあげる」
「美咲ちゃん……いつもありがとう」
「もう、引き受けすぎなのよ。たまには押し返しなさいな」
美咲がパソコンの前に座り、ぱちぱちと打ち込み始める。
「でも……私の場所はここだから」
柊サナ。それが、亜麻色の髪の女性の名前だった。そして、その隣に座るのが、サナの同僚で幼い頃からの幼馴染の美咲である。
大きな紫色のサナの瞳は、それでも、その輝きを失ってはいない。
だからこそ、美咲はサナの側にいたし、同じ会社に入っていた。
「じゃあ、また二人で頑張りましょか」
「うん、いっぱい頑張っちゃうよ、私!!」
カラ元気だけれど、それが、サナの日常。
ブラック気質の会社で、サナはいつものように残業を重ねていく……。
夜風が、思ったより冷たかった。
サナはコートの前を押さえながら、歩道橋の階段を上っていた。
残業続きで、足が重い。
集中が切れたせいか、最後の数段でつま先が引っかかった。
「あ――」
視界が傾く。
手すりに伸ばした指は、空を掴んだ。
――落ちて、怪我しちゃう!!
ぎゅっと紫の瞳を強く閉じて、その衝撃に身構えた、その瞬間。
「危ないっ!!」
ぐいっと腕を強く引き寄せられ、暖かく、でも少し硬い胸板に抱きしめられた。
衝撃はない。
あるのは。
「えっ……!?」
驚きと、そして、目の前にいる、若い青年。
「よかった……無事? 怪我はない?」
男性にしては、少し高めかもしれない。けれど、口元から響くテノールは耳に甘く優しく届いて。
眼鏡越しに見た蒼い瞳は、一瞬だけ、宝石のような鮮烈な輝きを見せた……気がした。
どきんと、サナの胸が跳ねる。
――綺麗。
さらりと揺れる艶やかな黒髪。
サナを見つめる双眸。
夢で見たような……サナの理想をそのまま、現実に現したような美貌。
どこか、疲れたような冷たい表情だったのが、サナを見たとたんに、柔らかな笑みを見せた。
「あっ……す、すみません。その、ありがとうございますっ!!」
慌ててサナは、見知らぬ彼から体を離そうとすると、青年はすぐに手を放してくれた。
必要以上に触れない、距離の取り方。
「怪我はない?」
もう一度、彼は優しく問いかけてくれた。
「あっ、大丈夫です。ちょっと、ふらっとしただけで……」
サナがそう答えると、青年は一瞬だけ、何かを考えるように視線を伏せた。
歩道橋の上を、車の走行音が流れていく。
街の明かりが、二人の間を淡く照らしていた。
「……無理はしない方がいい」
それだけ言って、彼は踵を返そうとする。
「あ、あの!」
思わず、サナは声をかけていた。
理由は分からない。
ただ、このまま終わるのが、少し惜しい気がした。
「本当に、ありがとうございました! もし……よければ、お名前を」
振り返り、照れたように彼は告げる。
「浅樹羅那」
「わ、私は、柊サナです」
それだけのやり取り。
連絡先を聞くわけでもなく、約束を交わすわけでもない。
けれど、別れ際――羅那は一度だけ、サナの足元に視線を落とした。
「……今日は、特に気をつけて」
まるで、何かを知っているかのような言い方だった。
羅那が去った後、サナは歩道橋の手すりに手を置いたまま、しばらく動けずにいた。
胸の奥が、まだどきどきしている。
――不思議な人。浅樹さん……。
その夜、サナはまだ知らなかった。
この出会いが、自分の運命を静かに変え始めていたことを。




