七秒間もあなたを見つめて
「ねえ、サナ。聞いた?」
これから昼休憩と言う時。
お弁当を取り出しながら、美咲が楽しそうに身を乗り出してきた。
「あの麗子が、寿退社だって。信じられないわよね!」
「え……そうなんだ」
「そうなの! しかも、婚約してすぐらしいよ。急すぎない?」
「う、うん……」
驚きはしたけれど、胸は不思議と落ち着いていた。
もう、あの麗子と顔を合わせなくていいからだろうか。
それとも……麗子のことを祝福したい気持ちがあるのだろうか。
どちらにしても、喜ばしいことだった。胸が弾むことはなかったが。
「まあでもさ……」
美咲は、そこで言葉を区切り、にやっと笑った。
「恋って、始まる時は一瞬だよね」
その言葉にサナは首を傾げる。
「そうなの?」
「うんうん。あ、そうだ。サナは知ってる?」
美咲はそっと、サナに近づき、その耳元でこそこそと告げた。
「意中の相手と七秒以上見つめ合うと、恋が始まるって話」
「……なにそれ」
「意外と当たるらしいよ?」
「ほ、本当かな……なんか、そんなことないような気もするけど……」
冗談じゃないかなと思いながらも、サナは、なぜか胸の奥に引っかかってしまった。
そして、昼食を終えた帰り。
近くの飲食店から外に出ると、柔らかな陽射しがサナの髪をキラキラと輝かせる。
と、歩道橋の上に――見慣れた背中があった。
まさか、こんな時間に彼と出会うはずはないのに。
「あ……羅那くん」
その声に振り向いた羅那が、すぐに微笑んでくれた。
「偶然だね、サナ。まさか、初めて会った場所でまた逢えるなんて……これもまた運命かもしれないね?」
羅那は冗談めかして、サナが来るのを待ってくれた。
「う、運命……? そ、そうかな? ……それよりも、羅那くんは、これからお昼?」
「もう食べ終わっちゃったけどね。今、取引先の打ち合わせから帰るところだよ。もしかして、サナも?」
「う、うん……ちょっと寝坊して、お弁当作れなくって。食べ終わった所」
「そっか。なら、途中までだけど、一緒に戻ろうか」
羅那は、サナの歩幅に並んで歩き出し。
サナは、さっきの話を思い出してしまった。
『意中の相手と七秒以上見つめ合うと、恋が始まるって話』
美咲が教えてくれた言葉が、サナの頭の中にリフレインする。
(七秒……?)
意識した瞬間、胸がどきんと鳴った。
――試すだけ。
本当に、ただの迷信で……ひとつの噂話だろうし……。
そう思って、サナは、羅那の瞳を見た。
「……?」
羅那が、不思議そうに瞬きをする。
また一瞬、羅那の蒼い瞳が宝石のような輝きを見せた。
一秒。
二秒。
(あ、やば……)
思わず、サナは心の中で呟いた。
どくんどくんと波打つ心臓が、少しうるさく感じる。
三秒、四秒。
胸がどきどきして、逃げたくなる。
息が荒くなりそうなのを、ぐっと堪えた。
その所為か、頬が赤く熱を持ったように感じる。
五秒。
(な、なんで私、こんな事……)
他愛のない挑戦をしてしまって、ちょっとだけ後悔を感じてしまう。
でも、ここまで来たら、止まることはできない。
六秒。
対して、見つめられた羅那もまた、その喉を小さく鳴らした、気がした。
それでも、彼は目を逸らさなかった。
そして――七秒。
時間だ。どきどきが止まらない。
頬が確実に赤くなっているのがわかる。
羅那はそんな、サナの様子をじっと見つめて……。
「……サナ」
何かを決めたような声色で、羅那が近づいてきた。
「あっ……えっと……」
試したことを伝えないと。
なのに、言葉が出ない。
サナの頬に羅那の手が触れる。その手が顎に添えられて、そっと持ち上げられた。
――近いっ!! ううん、違う。こ、これは……!!
瞳を逸らさず、そのまま、羅那はサナと唇を重ねた。
そのサナの唇に、柔らかい感触が感じられて。
前にもキスしたことはあるけれど、そのときよりも長く長く感じて……。
「………っ!!」
はわはわとするサナの様子を見て、あれっと、羅那も感じたようだ。
「あっ、ご、ごめん……?」
「え、あ、あの……!?」
「駄目、だった? てっきり、欲しいのかと思って……つい」
しまったと言った様子で、そこで改めて、恥ずかしさを感じたらしく、羅那も照れくさそうに頬を染めていた。
「そ、そうじゃなくて! あのっ!」
「う、うん……」
「美咲ちゃんに聞いたの。七秒以上見つめると恋が始まるって……それで、試してみたら、どうなるかなって……思っちゃって……」
言い終えた瞬間。
自分でも何を言っているのか、サナはわからなくなった。
ちょっとの間が開いた。
その後で聞こえてきたのは……。
「……ふふ」
思わず、漏れてしまう羅那の静かな笑い声。
「本当かも」
「え……?」
「だって本当に、恋したみたいにドキドキしたから。あ、でも……僕達、もう恋人同士だから、恋が始まるってわけじゃないね」
そう言って、羅那は更に穏やかに微笑んでみせた。
そっと、サナの頬に触れて、羅那はこう続けた。
「でもサナとなら……何度でも恋、したいな」
「はうううううっ!!!!」
思わず、サナは俯いてしまった。もう顔を上げられない。
「それじゃあ、またね。サナ」
「うん、羅那くんも……気を付けてね」
そして、別れた。
互いに頬を染めたままで、手を振り合って、背を向ける。
――ただの迷信。
でも、確かに胸は温かかった。
(『七秒』なんて……)
離れていくサナの背中を見ながら、羅那は思う。
想い出されるのは、あの二人で見つめ合った時のこと。
恥ずかしそうにけれど、しっかりと紫の瞳を自分に向けてくれた、あの熱く情熱的な視線はたまらなかった。
(いや、今は……理由は、どうでもいい)
サナが笑っていて、不安がないなら、それでいい。
それが確認できただけでも、充分だった。
まさか、こんな偶然に出会うとは思っていなかったけれど。
「……恋、か」
小さく呟き、僅かにほほ笑むと、彼はゆっくりと歩き出す。
そんな彼に注がれる昼の光は、変わらず穏やかだった。




