麗子の正しい振る舞いの結果は
麗子は、自分が今、正しく振る舞えていることを自覚していた。
会社のロビー。
昼休みの終わりかけで、人の出入りが多い時間帯。
「サナさん、この前の資料、すごく助かりましたわ」
なるべく、柔らかな優しい声で麗子はサナに声をかけた。
相手を立てる距離感を守りつつ。
「い、いえ……」
サナは少し戸惑いながらも、会釈を返す。
「最近、忙しそうですわね。無理しすぎないでくださいまし」
心配する上司と模範的な先輩。
誰が見ても、非の打ちどころがない。
(……これでいい)
麗子は内心で、そう区切りをつけていた。
以前の自分なら、もっと踏み込んでいた。
もっと、相手の反応を楽しんでいた。
けれど――今は違う。
渡されたこのブローチで、麗子は監視されていた。
黒い宝石に偽造されたカメラの穴は、精巧で、それとは気づかれないようになっている。
流石は、様々な分野において、その技術力を持つグループだと思い知った部分でもあった。
そして、今もなお、その監視は終わらない。
ブローチを通じて、映されてるサナの様子。そして、その振る舞いを正している麗子本人も。
「それじゃあ、また」
軽く手を振り、麗子はその場を離れた。
その胸についた疑念も、警戒も、もう感じない。
麗子の善人ムーブは、完璧に羅那に見せることが出来たのである。
その日の夜。
人目につかない、小さなラウンジ。ホテルでもバーでもない、曖昧な場所。
約束の時間ぴったりに、麗子は席に着いた。
そこに、少し遅れて羅那がやってきた。相変わらず、単調な音楽が流れている。
「お待たせしました」
「いいえ。私も、今来たところです」
向かい合って座る。
ここには、第三者はいない。
麗子はバッグを開け、そっと取り出した。
サナの周りを映していた、あのブローチだ。
白金の光が、照明の光を受けて、控えめに瞬いてみせた。
「……これを」
ことりと、役目を終えたブローチをテーブルに置く。
押し付けるようでもなく、名残惜しむようでもなく。
「約束は、終わりましたから」
その麗子の声を聞きながら、羅那は、しばらくブローチを見つめていた。
「問題は、ありませんでしたか?」
「ええ。サナさんとも、もう何も」
そう言い切る。
そこに嘘はない。
「そうですか。それなら……充分です」
目の前のブローチを静かに回収していく。
それ以外の言葉がないのに、一瞬、麗子の表情が揺れる。
「……信頼、していただけましたか?」
「ええ」
あっけないほど、短い肯定。
それだけで、胸が軽くなる。
(ああ……終わったのね)
駆け引きも、緊張も。
彼との関係も、これで。
麗子は微笑んだ。
「では、本当に……これで」
「はい」
しかし、そのときは、教えてくれるはずの『答え』はなく。
羅那からは、後で追って知らせるとだけ、伝えられたのだった。
そして、その夜。
家に戻った麗子に付きつけられたのは、たった一つの言葉。
「縁談が来ているの」
母の声は、穏やかで、決定事項を告げる調子。
「相手は良家。仕事も安定している。あなたも、もういい年でしょう?」
「お母さま……少し、急すぎませんか?」
「何が?」
不思議そうな顔を浮かべられて、麗子はまた困ってしまう。
そんな話、今日まで何一つ出てこなかった。縁談のえの字もなかった。
「結婚したら、今の仕事はどうするんですの?」
「もちろん、辞めなさい」
さも当然のように、母親はそう言い切る。
「寿退社。理想的じゃない」
麗子は言葉を失った。
頭の中で、何かが噛み合わない。
(……なぜ、今?)
会社では、特に問題も起きていない。
評価も、立場も、安定している。
それなのに。
急展開すぎて、何が起こっているのか、麗子は何一つわからなかった。
「……考える時間は」
「ないわね」
母親からの答えは、即答だった。
「これは、あなたのためでもあるのよ」
優しい声に、逃げ道のない言葉。
麗子は、仕方なく頷いてしまった。
困惑したまま。
流れに抗えないまま。
(……私、何か、間違えました?)
胸元に手を当てる。
そこには、もうブローチはない。
――羅那に返したはずの、それ。
なぜか、冷たい感覚だけが残っていた。
そして、遠くで。
静かに歯車が噛み合った音がした気がした。
――そしてまた、別の場所では。
羅那は、自室の窓辺で、夜景を眺めていた。
手元の端末には、簡潔な報告が一件だけ表示されている。
橋島麗子。
婚約成立。
今月末をもって、寿退社予定。
「……滞りなく、か」
それ以上、確認することはない。
余計な感情も、達成感も、そこにはなかった。そっとその端末から目を離す。
彼女は、約束を守った。
だから、自分も約束を果たした。
それだけの話だ。
羅那は、ふと視線を落とす。
もう、見ることも使うこともないだろう、机の引き出しの奥に仕舞われた、あのブローチの感触を思い出す。
(これでもう……)
静かに息を吐く。
「サナが、思い悩むことはないよね……」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
その声は、とても優しく。
そして、どこまでも冷静だった。
夜景の光は、変わらず美しく輝いている。
――何事もなかったかのように。




