逆美術館
授業が終わると同時に机から文庫本と鍵を取り出し、足早に教室から出る。
廊下を突き当り左に進むと、右側にいくつかの扉が並ぶ。その一番奥の扉まで行き鍵を開け、明かりをつける。返却ボックスの中にある本を本棚に戻し、立て掛けてある新聞紙を新しいものと取り替える。最後に看板をひっくり返し、受付の席に座る。
文庫本を開き読みかけていた活字をゆっくりと目で追っていく。
校庭からの威勢のいい声が図書館まで響いていた。
「貸し出しお願いします。」
「あ、はい。」
人が来ていたことに気付かず慌てて返事をした。急いで栞をはさみ顔を上げたが、そこに本らしき物はなく代わりに見知った顔がニヤリとこちらを見ていた。
「ちゃんと仕事しなよハギくん。サボるにしてもせめて勉強とかさ。」
ほっとけ。俺にとってはここが一番読書をするのにうってつけの楽園なのだ。
例の一件についてそれなりの罪悪感を感じていたため相沢には後日謝罪をした。真面目に謝ったのがおかしかったのか腹を抱えて笑われた。人の謝罪を笑うなんてなんてろくやつじゃないなと思った。以来、相沢は俺のことを「ハギくん」と呼ぶ。俺もいつの間に相沢と呼ぶようになっていた。
「相沢みたいに勤勉ではないんでね。」
本をもう一度開き直す。
期末試験が終わりテストが返却されるとその回の成績上位者と各教科の最高得点者の名前が学年新聞に載る。相沢はそれの常連だ。
「ねえハギくん。今週の日曜空いてる?」
「用件によるな。」
「美術館行こう。今来てる西洋絵画展に興味あるんだ。」
〇〇市には美術館が一つある。私立美術館だがそれなりに大きい美術館で、おしゃれなカフェまで併設されている。小学生のときに兄に連れて行ってもらって以来、訪れてはいない。
男女二人が休日に美術館とはデートと思わざるを得ないが、存外悪くないと思っていた。先週までの期末試験で気が滅入っていたため、ちょうど何かしらの気分転換をしようと思っていたからだ。
しばらくの沈黙の後、午後からならと返した。
駅で合流しシャトルバスに乗り込んだ。
駅から美術館の間には路線バスも通ってなく歩くにしても距離があるため一時間に一本シャトルバスが走っている。二十分ほどバスに揺られ美術館の入口で降ろされた。
受付で学生証とともに千円札を差し出し、チケットとアンケート用紙を受け取った。受付員の指示に従い正面から見て左の長い渡り廊下を進む。突き当りの売店の手前を右に曲がったところで、やっとそれらしい展示会場に入った。
作品は、印象派、写生主義、バロック、ルネサンスの西洋絵画が順に展示されている。ジャンルごとによってブースが分けられていたが境目は曖昧であった。
作品はアメリカやヨーロッパの美術館から収集したものらしく作品数も相当な数が揃っている。中にはモネやミレーなど名の知れた画家の作品もあり美術には浅学であったが十分に見ごたえはあった。
休日であったが人数は少なく流されることなくじっくり観ることができた。相沢には早々においていかれた。興味があるんじゃなかったのか。
順路は一歩通行で全て見終わると受付の左手に出た。
こちらでアンケートをお書きください、と書かれた張り紙の下で先に出ていた相沢がアンケートを書いている姿を見つけた。
張り紙の場所まで行き、ペンを取った。
アンケートの内容は年齢、性別、この展示を知ったきっかけなど、オーソドックスなものであった。一番下に、何か気付いたことがあればご自由にお書きくださいという文章とともに長方形の欄が設けられており、面白かったです。と書きペンを置いた。
先に書き終えた相沢は渡り廊下の方を指差して「お土産見てくるね。」と言い歩いて行った。
ああと返事をし、アンケート用紙を箱に入れトイレへ向かった。
「ごめん、遅くなっちゃった。」
トイレから戻ってきて十五分ほどしてから、相沢は土産袋を手に下げて帰ってきた。バス停まで行くと、ちょうど駅へ帰るバスが目の前で行ってしまうのが見えた。
「ほんとごめん。奢るから次のバスまでカフェで時間潰そ。」
はあと息をつき、わかったよと相沢のあとについて行った
カフェに入ると窓側の席に案内され、コーヒー二杯を注文した。
ほどなくして香りのたったコーヒーが目の前に置かれた。
「そろそろ、聞かせてくれないか。なんで俺をここに連れてきたんだ。」
相沢はコーヒーを口元へ運びふうと息を吹きかけ口をつけた。
「やっぱり気づかれてたか。流石はハギくんだ。」
あのあからさまな演技で誘導したつもりだったのか、演技だと気付いた上で俺が誘導されてくれるだろうと思ったのか。だとすれば随分と買い被られたものである。どちらにせよこれから聞く事は正面からだと話しにくい事であるのは間違いないだろう。
「実は今回の企画展示の運営にはうちの会社も少し関わっててさ、お父さん伝いできいた話なんだけど――」
相沢が話してくれた内容はこういうものだった。
先月、相沢の父親がいつもより遅く帰ってきたことがあったらしい。その後の夕食の席で相沢の父親と母親が妙な会話をしていたらしく、その真相を解明したいのだという。相沢は、そのときの父親が言っていた内容を事細かく説明した。
「いやあ、大変だった。伝達ミスがあってが上手くいかなったんだが、とりあえずなんとかなったよ。でもあれじゃあきっと実験の結果が他と変わってしまうだろうな。」
それを聞いていた相沢は何の話なのか尋ねたが、回答をはぐらかされたらしい。
「怜子になら分かってしまうかもしれない」とだけ言われ寝室に行ってしまったため真相は迷宮入りとなったのだ。
その後相沢は父親の会社がそのとき関わっていた事業を調べ上げ、その会話があった日はちょうど今回の西洋絵画展が始まる日の前日であったことまで突き止めたのだ。
「それで、実際に来てみれば何か分かると思ったんだけどさっぱりでさ。名探偵の力を借りようかなって。」
「なるほど。」
本当に何も気付かなかったのか、と言いかけたが挑発になりかねないため口をつぐんだ。
「状況証拠だけだが多分相沢が求めている答えを説明することはできるだろう。」
「ほんとか、ハギくんよ。でももうちょっと考えたいな。ヒント頂戴。」
「そうだな、ここに来てからの行動を思い出してみるといいかもしれない。」
それから相沢は、コーヒーを飲んでは考え飲んでは考えを繰り返した。
「ねえ、もう一つヒントくれない。」
相沢はピンと人差し指を立てた。
「じゃあ、アンケートの内容はどうだった。」
「何も変なとこは無かったと思うけど。」
「一番下にあった質問の内容は覚えているか。」
「うーん、あそこには何も書かずに出しちゃったんだよね。」
意外だな。
「アンケートの一番下には『何か気付いたことがあればご自由にお書きください。』と書いてあった。」
「何か変なの?」
「普通あの手のアンケートは『何か気付いたことがあれば』なんて意味深な書き方はしない。せいぜい『ご覧になった感想をお書きください』くらいだろう。」
「たしかに。」
「つまりあのアンケートは、来場者が展示の中の異変に気付いたかどうかを確かめるためのものだったんだ。」
「なるほど。じゃあハギくんはそれをアンケートに書いたんだ。」
「いや、相沢から話を聞くまではそれを違和感程度にしか感じていなかったからアンケートに書こうとまでは思わなかった。けれど美術に知見がある人からしたら突っ込まずにはいられないだろうな。」
「じゃあお父さんが言っていた実験ってそういう人をあぶり出す実験のことで、だからお父さんは答えをはぐらかした。でも今回の企画展示は実験の結果が他と変わってしまう、とも言ってたんだよなあ。」
相沢はまた頭を悩ませ始めた。
コーヒーを飲みきったところで、もう次のバスの時間になるからとりあえず行くか。と言い席を立った。
会計は相沢に奢ると言われていたが、女子に奢らせるイヤな男にはなりたくなかったので結局自分の分は自分で払った。
バスは定刻通り到着した。バスに乗り込み一番奥の座席に並んで座った。
「もうギブアップで大丈夫か。」
相沢はお願いと返事をした。
「今回の展示には二つの違和感があった。一つは展示作品の並べ方、もう一つは順路だ。」
手をVの形にしてみせる。
「まず展示作品の並べ方に関してだが、美術に明るくない俺でも分かるほどに不自然な点があった。順番だ。普通ああいう展示は古いものから新しいものにして変化を学べるようにするのが定石だ。けれど今日見た展示は印象派からルネサンスと時代を遡るような展示の仕方だった。」
「そういう展示の仕方もあるんじゃない。」
まあそうだなと言い話を続けた。
「次に順路についてだ。前に来たのが小学生の頃だったからうろ覚えだが、今日通った順路は正規の順路では無かったと思う。受付から展示会場までやけに歩かされたし、売店も入口のそばにあった。売店は本来出口のそばに設置して売上の向上を図るものだろう。」
「つまり順路を逆にしてまで時代を遡るような展示方法にこだわる理由があったってこと?」
「それが親父さんの言っていた実験なんだろう。あのアンケートに展示の順番が時代背景と逆であったと書ければ実験成功だ。」
美術館に訪れる人間の美術史に関する知識量を試すような実験で測るとは、少々趣味が悪いように思えるが大学の実験かなんかなのだろう。
「でもなんで『実験の結果が他と変わる』とか『私になら分かる』とか言ったんだろう。」
「今日俺たちが行った美術館みたいに入口出口が離れている会場もあれば、入口出口が隣り合っている会場もある。そういう会場なら入口出口を入れ替えても右回りになるか左回りになるかぐらいの違いしかないが、前者はそうはいかない。きっと何かの手違いで設営の方まで実験の情報が回らず普通の展示方法で並べられてしまい、やむを得ず入口と出口を入れ替えた。よく訪れる人間なら簡単に分かってしまうだろうし、初めて訪れた人間でも順路の違和感にさえ気付けば分からないこともない。だから親父さんは、他の会場と比べれて正答率が上がるだろうと言ったんだ。」
「そっか、じゃあ私はお父さんの期待に応えられなかったって訳ね。」
「俺たちは絵画を観に行ったつもりだったけど、作品によって見られる側でもあった。」
「逆美術館だね。」
バスを降り相沢とは電車の路線が反対なため駅で解散となった。
電車に乗り込み端の席に腰掛け、腕を組んでみる。
相沢は本当に自力で真相に辿り着けなかったのだろうか。それにわざわざ俺を連れ出さずともまず一人で美術館に行き考え、それでも分からなければ誰かに頼ればいい話だ。初めから自分の能力を鑑みて俺を当てにしていたのか。いや俺が何も分からずにそのまま帰っていた可能性だってあったはずだ。
相沢は純粋に美術館に行きたかった。もしくは同級生と美術館に行ったという既成事実をつくりたかった、ということも考えられる。
もう一つ、あそこまで遠回りな方法を取っていたからてっきり重い話なのかと身構えたがそこまで話しにくい話でもなかったことも気になる。行きのバスでも帰りのバスでも十分話せる内容だった。つまりあれは単なる時間稼ぎ――
しかし確たる証拠がない今、これらは全て憶測でしかない。
けれど期末試験の美術のペーパーテストで満点を取り学年新聞に名前が載っていた優等生が、あの程度の違和感に気付かないものなのだろうか。
夕日が差し込む車内で、ただ呆然と移りゆく街々を眺めていた。