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第五十八話 運筆

 会話が途切れたので、以前買っていただいた本を辰月様と一緒に読むことにました。こちらの文字も少しずつ読めるようになってきたからか、入手直後より楽しめましたよ。辰月様の感想も聞けたので満足です。まぁ、ほぼ食べ物関連でしたけども。


「流行だとか気にしたことがなかったから、こういう本は新鮮だ」

「人間の本を参考しているそうですよ」


 神様が人間の真似をなさるなんてびっくりですよね。


「そうなのか。人間の流行はすぐ変わるからなぁ。飽きっぽいのかな?」


 本を一緒に読むのって、結構緊張しますね。だってすぐ隣にいらっしゃるのですもの。話し声も耳の近くでするのでドキドキします。いえ、ゾワゾワでしょうか。


「都会で暮らしている方は特にそうかもしれません。様々な物に触れるのは刺激になりますし」


 私にとっての刺激は辰月様ですね。


「刺激かぁ。寿命が短いから色々楽しみたいのかもな」


 次々と新しい物事を生み出して、それを見聞きし体験する。作り出す人も食らいつく人も、目まぐるしい速さについて行っているのですよね。私には到底無理です。のんびりゆったりでいいですかね。


「俺も美鶴に出会わなければ、今頃は体を鍛えていただろう」


 ハッ、辰月様の鎖骨がいつもより見えております。指摘すべきでしょうか。ですが私ごときが指摘だなんておこがまいです。けれど気になってしまいます。

 あ、見なければいいのです。いい加減学習しませんと。と言うわけで私はすぐに顔を背けました。


「私も辰月様にこちらに連れて来ていただかなければ、ずっと針仕事をしていたと思います」

「そうか。じゃあ今だったら何をする?」

「こちらの文字の練習でしょうか。今、本多さんと紺野さんに教えてもらっていますから」

「そういやそうだったな。どのくらい書けるようになったんだ?」


 ここで実際に書いてみたら辰月様から離れられるのでは? 心臓を落ち着かせるいい機会です。私はすぐに机に書道の準備をしました。


「人間の文字は書けるんだよな」


 文字の読み書きは学校以外では両親から教わっております。本当は女学校にも行きたかったのですが、村から離れた場所にあったので断念したのです。


「ええ書けますよ」


 私は「美鶴」と半紙の端に書いてみました。辰月様がご覧になっているので緊張しましたが、会心の出来ではないにしろ、わりと綺麗に書けました。


「しなやかで美しい字を書くんだな。俺もついでに書いてみるか」


 辰月様に筆を渡すと、力強い文字が半紙に姿を現わしました。力強いけれど荒々しくはない、どこか誠実さを感じさせる文字です。そう伝えると辰月様の照れたお顔を見られました。


「んで、こちらの文字で苦手なのはあるか?」

「ええっと……言いにくいのですが、どの文字も上手に書けません」


 侍女のお二人のお手本と私が書いた文字を辰月様に見ていただきました。う、見比べてみると同じ文字とは思えないですね。私のはぐちゃぐちゃと書き殴ったように見えますもの。なんだか恥ずかしくなってきました。


「んーなるほど。筆の動かし方を知らないからだろう。ちょっと筆を持ってくれるか」


 何をするのでしょうと思っていたら、辰月様が私の背後にまわられました。それも私のすぐ後ろに。何が起きるのかドキドキしていると、辰月様は筆を持つ私の手を包み込むように握られました。当然そうするには真後ろにいないと出来ないわけで……。


「!」


 これは後ろから抱き締められているみたいになっていませんか?


「こうやって……こうして、こうだ!」


 辰月様は私の手を持ったまま筆を動かされました。これならどのよう動かしたらいいのかわかります。……わかるはずなのですけど、心臓が煩くてそれどころではありません。だって声は耳元で聞こえ続けてますし、手から体温が伝わってきますし。きっと私の顔は林檎のように真っ赤になっているでしょう。


「もう一回いくぞー」

「はい……」


 しっかりせねば。そう思ったのに辰月様の手の温もりや質感、耳にかかる吐息でどうにかなりそうです。平常心平常心……。


「よし。どうだ? 覚えられたか?」


 辰月様の明るいお声に私は我に返りました。せっかく辰月様が手取り足取り教えてくださっているのに、何をやっているのでしょう。

 私は気を取り直して、今教わった通りに筆を動かしました。まだ感覚が残っているので今までで一番上手に書けたと思います。


「なかなかいいじゃないか。一度で覚えられるなんてすごいな!」

「ありがとうございます」


 私比で見違えるほど綺麗な文字が書けましたよ。辰月様が書かれた文字にはほど遠いですけどね。


「じゃあ他の文字も書くぞー」

「えっ」


 乗り切れたと思ったのに、ずっとドキドキしていないといけないようです。いえいえ、今ので慣れましたからきっと大丈夫ですよね。ハッ、頭は臭くないでしょうかね? 体臭や口臭も気になってきました。私はドキドキの他にハラハラやモヤモヤも同時に感じ出しました。全ての文字を書き終えるまで私の体はもつでしょうか……。




 昼頃、またも辰月の同僚が詰め所に駆け込んできた。


「また辰月のやつが婚約者と食堂にいた!」

「そりゃ飯ぐらい食うだろ」


 目撃者は皆に「またかよ」と呆れてため息を吐かれた。


「話が見えないんだが……」


 事情を知らぬ者に一人が簡単に説明し、説明された者は苦笑した。


「で、今度はどうしたんだ? 微笑み合いながら飯を食ってたってただけじゃないだろうな」

「うな丼を食べてた!」


 そんなに大きな声で言う事ではない。「だからなんだ」と早くも二度目のため息が聞こえてきた。


「何を食ってたっていいだろうよ」

「こいつは恋人がいないから僻んでるだけだろ?」

「違う。そんなんじゃない。きっとこれから、あんなことやそんなことをするつもりだ!」

「ああ、精がつく食べ物だから……」

「うん、だからなんだよ……」

「やっぱり僻みか……」


 目撃者は皆に鼻で笑われた。


「けど辰月は正式に式を挙げるまでは手を出さないって言っていなかったか?」


 目撃者以外は皆小さく頷いた。彼らは辰月は自分で決めたことを破ったりしないのを知っているからだ。


「あんなに可愛い子を前にしてそんなの無理に決まっている! おそらくもうすでに済んでる!」


 これを聞いて「うわぁ」と小さく悲鳴を上げた者もいる。


「妄想力豊かだな」

「仮にそうであっても、二人が何をしてたっていいだろう」

「良くない! 俺が良くない!」


 目撃者は悔しそうに地団駄を踏んだ。まるで駄々っ子である。そんな光景を見て顔を引きつらせる者もいた。


「面倒臭いやつめ……」

「その騒ぐ力を仕事に使ってくれよ」


 皆はもう何度目かわからないため息を吐いた。もう呆れかえっているようだ。


「いいや、俺はこの力を可愛いお嬢様探しに使う!」

「あーそうかい。なら最初からここに来ないでそうしてくれ」


 もう関わり合いたくないからの発言だろう。この言葉に目撃者は出かけようとしたが、別の者に捕まった。


「いや、止めろよ」

「一回探して見つからなかったら諦めるんじゃないかと思ってさ」

「こいつは執念深いぞ。見つかるまで探すに決まっている」

「離せ! 離してくれぇ!」


 目撃者は暴れている。本気ではないようだが、逃げ出す機会を窺っているようだ。


「そのうち熱狂して見境がなくなって不審者として逮捕されるだろう。そうなったら同僚の俺らも白い目で見られる可能性がある」

「やばいな。それは全力で止めないと」


 より力を込めて目撃者を出入り口から引き離した。


「止めないでくれ! 俺は辰月みたいに可愛い彼女が欲しいだけなんだ!」

「誰かに紹介して貰えばいいだろう」

「ああ、探すより手っ取り早いよな」


 実際に彼らは友人などに紹介してもらっている。


「やめてやれ。こいつはきっと普段の行いが悪いから紹介して貰えないんだろ」

「悪くねぇし! 品行方正だし!」


 全員が「どこが!」と突っ込んだ所で休憩時間が終了した。




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