第五話 石けん
私はすることもないので、寝台に上がり布団に包まりました。
こんなに沢山眠るのは久しぶりなので眠れるのか心配ですが、布団がふかふかで気持ちが良いのきっと大丈夫でしょう。きっと何時間でも眠れてしまうと思います。
その予想通り満腹なのもあって、私は瞼が重くなって来たのを感じました。
「…………はっ! そう言えば!」
私はあることを思いつき、目を無理矢理開いて急いで起き上がり、先ほどまで居た場所に視線を向けました。
(まだありますね……)
そこにはまだ空の御膳がありました。ふふふ、一体どのように物が出現したり消えたりするのかを確かめようと思いましてね。絶好の機会を逃してはいけません。
神様の世界が人間の世界と違うのはわかっています。いくら人知を超えた物事があるとしても気になってしまうのです。
ですので私は御膳から目を離さずにじっと見つめました。
(きっと私が察知出来なかっただけで、どなたかがこっそりと出入りしているのですよ)
そう思って御膳を注視していましたが、瞬きをした瞬間に消えてしまいました。部屋中を見渡してみましたが、もう何処にもありません。
私は脱力して掛け布団の端から手を離しました。
(そんな……。何処も動かなかったのに……。もしかして幻覚の類いですかね?)
幻覚なら何処も動かさずに物の出し入れが出来ると思います。ですが、そうなると食事自体も幻覚ということになってしまいますね。
(辰月様も召し上がっていたので幻覚の可能性は低いですね。私の食事だけが幻覚だったのかもしれませんが、辰月様の御膳も一緒に消えたのでそれはないでしょう)
ですが、神様は人間と違って食事を幻で済まされているかもしれません。
(いえ、だとするとアイスクリンが売り切れになるのも、辰月様が季節のものを召し上がって喜んでらっしゃるのも変ですね。それに幻だとしたら、私が今着ている寝間着も同じように知らぬ間に出現したのだから幻だということに……。ですので、幻ではないと信じたいです)
だって寝間着が幻だったら、私は裸に包帯を巻いただけになりますからね。こんなに恥ずかしいことがあってはなりません。あ、まさか包帯も幻……。
(いえいえいえいえ、これは神様の術です。それで物が突然現れたり消えたりするんです。きっとそうです。わかりきった事なのに何を今更)
私は横になり目を閉じました。変な汗をかいていますが、直におさまるでしょう。
夕食も見事なものでした。毎食がご馳走なのです。もう一生食べられないくらいの豪華な料理をいただきました。これは決して言いすぎではありません。だって今まで想像したこともないくらい豪華なのですもの。
「ふう、美味かったな」
「はい。海の幸をいただけるとは思いもしませんでした」
何のお刺身だったのでしょうか。私はお魚に詳しくないのでわかりませんが、白身魚だったので鯛でしょうかね。淡泊さの中に甘味があり、歯ごたえというか弾力というか、噛み応えもあって美味しかったです。
この他には貝の佃煮がありました。甘塩っぱさが白米と良く合うので、いつもより多めにご飯を頂いてしまいました。今までこんなに食べた記憶はないので、佃煮に食欲を増進させる術がかけられているのではと思ったほどです。
辰月様は元々の食事量が多いのもあって、私よりも多くおかわりをなさっていました。とても美味しそうに召し上がるので、私が用意したわけでもないのに嬉しくなりました。
「俺も久しぶりに食べたよ。また食いたいな。明日とか」
「ふふっ、私もまた明日出ても今日と同じ量を食べてしまうかもしれません」
味を思い出したら涎が……。こっそり飲み込んでおきましょう。
「刺身ももっと食いたかったな。そう言えば美鶴は海に行ったことはあるのか?」
「いいえ、山奥の村に暮らしておりましたので、見たこともないです」
「そうかぁ。じゃあ今度行ってみるか?」
「えっ、こちらにも海があるのですか?」
私の記憶だとここは雲の上のはずです。あ、雲海を見に行くとか? それとも人間の世界の海に行くのでしょうか?
「そりゃあるだろう。じゃあ怪我が治ったら行こうか」
そして刺身を食べようと辰月様がおっしゃいました。
怪我が治っても私は食べられないようです。それとも私に美味しい海の幸を食べさせてから……とかでしょうか。
夕食から時間が経ちお腹が落ち着いたので、私は入浴することにしました。ですがその前に包帯を外さないといけません。
(部屋ではなく脱衣所で外しましょうか……)
そう思いましたが、朝のようにぐちゃぐちゃになってしまうかもしれません。
(頭のは辰月様にお願いしましょう)
私が辰月様のほうを向くと、なんとお姿が見えなくなっていました。いつの間にか部屋から出て行かれたようです。
(では一人で何とかしませんと……)
私は一応どこら辺で包帯を巻き終えたかを覚えておいたので、手探りで包帯の端を見つけました。そして端を持ったまま頭の周りをくるくるとして顔の包帯を外していきました。
上手く出来たので体もと思いましたが、いつ辰月様が戻られるかわからないので私は脱衣所に移動しました。今更ですが、裸を見られるのは恥ずかしいですからね。……散々貧相な体を見せてしまっていますけども!
(包帯と布は籠の中に入れておけばいいでしょうかね)
私は帯を緩めて寝間着を脱ごうとしていたら後ろで音がしました。どうやら戸が開いたようです。って、ええ?
「ひゃわっ」
私は心臓が飛び出るかと思いました。またも体が浮いていたかもしれません。
「ああよかった。間に合った」
辰月様がいらっしゃったので、私は慌てて寝間着の前身頃を抱き寄せました。暫く心臓は落ち着きそうにありません。
「どうかされましたか?」
「石けんを手に入れたのを忘れててさ、今取って来た」
「まあ! 石けんですか?」
辰月様の手元を覗き込むと、四角くて白っぽい石けんがありました。
「しかもただの石けんじゃなくて、少し花の香りがするんだ」
「ええ、ふんわりと良い香りがしますね」
目の前にあるだけでは気付きませんでしたが、深呼吸をすると甘すぎずどこか爽やかさのある香りがします。こんな上等そうなものがあるなんて神様の世界は凄いのですね。
そう感心していましたが、もしや私が匂うから入手されたのでしょうか? 私自身の体臭なのか人間特有の匂いなのか。どちらにせよ、嫌な匂いはないほうが良いですものね。
「肌もしっとりとかなんとかだそうだ。使ってみてくれ」
「ありがとうございます」
なるほど。匂いも消せて肌触り舌触りもよくなる石けんなのですね。素晴らしい代物です。
「……包帯は大丈夫か? 手伝うか?」
「一人で出来ますので大丈夫です」
「そうか。俺は部屋にいるから何かあったら呼んでくれ」
「ありがとうございます」
辰月様が脱衣所から出て行かれるのを見届けて腕の力を抜くと、あまりに強く力を入れすぎたからか、私の胸には赤い跡が残っていました。
(すぐに赤いの消えてくれますかね……)
私は寝間着を脱いで包帯も取り終わったので、浴槽の前にやって来ました。体にはまだ薬が付いているので、これをお湯で流してから石けんで体を洗いましょう。
私は湯に入れられている草花を避けながら桶で湯をすくって体にかけました。ちょうど良い温度でほんのりと良い匂いがします。
薬はかけ湯だけでは落ちなかったので、私は石けんの泡を右腕に乗せ、そのまま右半身に広げていきました。これならば薬は綺麗に落ちてくれるはずです。
辰月様はそれを見越して……? いえ、きっと美味しく食べるためですよね。
(右だけじゃなく左にも広げて全身に……)
私は全身泡だらけになり、良い香りに包まれました。さらに隅々まで覆ったので全身がしっとりとなったことでしょう。
(ですが、こんなに使ってよかったのでしょうか。次からは右側だけにしましょうかね)
生贄の分際で高価な物を大量消費するなどあってはなりませんから、節約しませんとね。
(いえ、全身でないと意味がないですね。舌触りのためのしっとりさと匂い消しが出来る一番少ない量を探しましょう)
私は泡を流して湯に浸かりました。念には念を入れようといい匂いのする湯を肩に掛けている時に、右腕が視界に入りました。薬が効いているのか朝よりも傷跡が薄くなっています。それにつっぱりも僅かに軽減されていますよ。これならすぐにでも舌触りのよい生贄になれそうですね。
辰月は美鶴に声をかけてから外出していますが、彼女には聞こえていないので突然いなくなったと思っているのです。返事を確認しないのも良くないのですけどね。