第四十八話 制御
(おおっ! 美鶴が俺の胸を触っている!)
辰月の顔は緩みに緩んでだらしないことになっている。対する美鶴は真剣な顔をしている、というより彼の胸部を見つめながら顔を強ばらせていた。
(どうしたんだ? ふにふにしてくれないのか?)
いくら浮かれまくっていている彼でも流石に彼女の異変には気が付く。彼がじっと彼女を見つめていると、彼女は恐る恐るといった感じに少しずつ視線を彼の顔に向けた。
「どうしましょう。ボディクリームを手に付けるのを忘れておりました」
彼女の指が細くて少し冷たい手が、ボディクリーム越しではなく直に彼の胸に触れている。それもやや食い込むように。
「お、本当だな。ってことは俺に胸に触れただけか」
「なっなんて失礼なことを……」
彼は満面の笑みを浮かべているが彼女の顔は青くなっている。しかも小刻みに震えている。彼はのんきに振動している手もいいなぁと思っていた。
「俺は別に直接触ってくれても全然いいんだけどなぁ」
「そんなっ、理由もなく触るだなんて無礼にもほどがあります」
彼女が手を引っ込めて握り拳を作ったので、彼はずっと触れていてくれてていいのにと残念に思った。
「何言ってるんだ。夫婦なんだからこれくらいなんてことないさ。むしろもっと触れ合うべきだろう」
「もっとですか?」
「ああ、もっとだ。あちらこちらを触りに触って互いを堪能するんだ」
つまりはまさぐり合うのだ。
「互いを堪能?」
「おう、そうだぞ。互いを堪能しあうんだ」
「たがいを……たんのう?」
「……大丈夫か? もう眠いんだな」
彼は彼女が目をパチクリとさせたのでそう思ったようだが、彼女は何故互いなのかと考えているだけだった。
「え? まだ平気でございますよ」
「無理しなくていい。もう寝よう」
彼は素早く寝間着を着直すと彼女の肩を抱き寄せた。そして立ち上がるとそのまま寝台に歩を進めた。しかし彼女はそんな彼の滑らかな動作に流されずに歩を止めて彼の顔を見上げた。
「本当にボディクリームはよろしいのですか? 」
「んー、そこまで言うならお願いしようかな。手短に頼むよ」
彼女はいつも手短に終わらそうとしているが、彼が背中以外も塗れと指示しているので首を傾げた。なんならもっと手を密着させて塗れと言われていた。
しかし今回は手短にとの事なので、それらをしなくてよいのだろう。彼女は一応念入りでなくて良いのかと尋ねた。
「ああ。パパッとでいいよ」
彼は寝台の上に胡座をかき、再び上半身裸になった。彼女はボディクリームを持ってきてそんな彼の背後にまわった。そして「失礼します」と言ってからボディクリームを上から塗りだした。
「……終わりました」
いくら辰月様の背中が広いといっても、塗り終わるのに何分とかかりません。私はパパッと終わらせました。
「おう、ありがとな」
辰月様が寝間着を着られたのでこれで終わりでよいみたいです。いつもだったら何往復もしておりますのにね。それに背中以外の箇所も塗らなくて良いみたいですよ。そうです。辰月様のお体を視界に入れたまま何分も過ごさなくてよいのです。
(普段のは一体……)
きっと今回は簡略化しただけですよね。でないと今までのは無駄な行いになってしまいますもの。
「よし、寝よう。こっちにおいで」
「はい……」
辰月様がお布団をめくってくださっていたので、私はそこに吸い込まれるように収まりました。ちょうど良い大きさの空間に心地よい温度と湿度です。辰月様の隣はすっかり心安らげる場所になりました。いえ、依然として心臓はドキドキしているので安らげてはいませんね。
ああ、なんと表現したらいいのでしょうか。どうやら私は適切な言葉を持ち合わせいないようです。こんなことなら詩集をもっと読むべきでしたね。
うーん、幸せを感じる場所が一番近いでしょうか。そうですね、きっとそうでしょう。幼き頃に今は亡き父母と一緒に寝た時ととてもよく似ていますもの。
けれどあの時の幸せとは少し違います。これは両親から辰月様になったから? それとも人数? それとも私が成長して感じ方が変わったから? いくら考えてもわかりません。
「どうした? 何か考え事をしているだろ」
辰月様はなんでもお見通しのようです。変にはぐらかすのも失礼ですので、こうなったら聞いてみましょう。
「えっと……。辰月様は私が隣にいるとどう思われますか?」
我ながら恐ろしく変な質問です。別の聞き方もあったでしょうに、やってしまいました。穴があったら入りたいですが、それは無理なので取りあえず布団の中に潜りたいです。
「我慢しなければと耐えている。少しでも気を抜くとどうにかなりそうだ」
「えっ……畳の上で寝ましょうか?」
「待て、なんでそうなる」
移動しようとしたら辰月様にがっちりと捕獲されました。痛くはありませんが逃れられそうにありませんね。密着しているせいかなんだか熱くなってきました。
「お嫌なのかと思いましてっ」
「俺が美鶴を嫌いになるわけないだろ。愛おしくて仕方ないってことだ」
「愛おしい……」
さらに力を込めて抱きしめられました。もう顔と体中が熱くて熱くて。のぼせてしまいそうです。汗もひどいですね。
「で、美鶴は俺が隣にいるとどうなんだ?」
「え?」
「俺に聞いておいて答えないなんてないよな? な?」
辰月様は私の背中を撫でてくださっています。少々くすぐったいです。
「私は……幸せだなと思っております」
「幸せかぁ。そうかそうか」
辰月様は怪しげにクククと笑ってらっしゃいます。私の耳元でお笑いになったので、全身がぞわぞわいたしました。息がね、耳にかかったのでね、決していつもと違うお声に反応したのではありません。
ハッ、これだけ近距離にいたら匂いを嗅がなくても匂いがわかってしまいません? どうしましょう。こんなに汗をかいていたら臭いに決まっています。きっと辰月様はお優しいので構わないとおっしゃるでしょうが、私が嫌なのです。
(なんとかして離れなければ……)
けれどこれほどしっかりと抱きしめられていたら無理ですね。諦めましょう。なんなら匂いを嗅ぎ返せばいいのです。
(なっ! 窮地に追い込まれたせいでおかしなことを考えてしまいました!)
なんですか、匂いを嗅ぎ返すって! 馬鹿にもほどがあります! いくら良い匂いがしそうだからってなんてことを!
(穴があったら入りたい!)
だから穴なんてないですってば!
こんな風に混乱していた時です。
「……んんっ!」
なんですか今のは! 今までのぞわぞわとは比べものにならない感覚が襲いました。何事でしょうか。
「んあっ!」
二度目でわかりました。首筋を舐められていたのです。あああ、耳までも舐められてしまいました。全身のぞわぞわが治まりません。それどころかぞわぞわ具合が強くなってきて、私は思わず辰月様の寝間着を握り締めてしまいました。
「あ……すまない」
「はい……」
謝罪なさるのなら耳に息を当てないでいただきたい! とは言えず、返事を返しただけになりました。
「調子に乗ってしまった」
私はまた「はい」とだけ言いました。だってそうしないと聞くに堪えない声が出そうで……。今のはなんとかちゃんと返事が出来たと思います。
「綺麗な首筋だなと思ってて、気付いたら口をつけていた。すまない……」
それほど食欲をそそる見た目だったと。なるほどです。それなら仕方ないですね。
きっとその日が来たら私は首からガブリと食べられるのでしょう。今さっきのは予行練習のようなものだったのです。それなのに変な声を出してしまうだなんてなんたる失態!
「これ以上は俺が制御出来なくなるかもしれないからやめておかねばな、うん」
「制御……」
食欲の制御でしょうかね。きっと今食べたら汗のせいでしょっぱいでしょうね。
「俺は式まで我慢するって決めたからさ」
「我慢……。どうか無理はなさらないでください」
辰月様がお辛い思いをなさるなら私は……。覚悟はもう出来ています。
「いいや、俺の決心は揺るがない。いや、揺るがさないでくれ……」
「そんな……。わ、私はいつでも――」
「それ以上は言うな。うん、もう寝よう」
私達は大人しく眠ることにしました。しかし暫くの間、私の心臓はドキドキしたままでした。




