第四十一話 熱い眼差し
美鶴は悩んだ。どのようにしたらこの現状を打破出来るかを必死で考えた。
侍女達が書いた文章を読めないふりをすればいいかと思ったが、意味はわかるので声に出さなくても表情には出てしまうだろう。要するにどうしようもない。
彼女は変な汗をかいてしまったので、着物の中がじめじめベタベタして気持ち悪くなっていた。これだけ汗をかいていたら鼻の良い二人には彼女の困惑っぷりに気付くだろう。
「ああ、そうです。お弁当屋さんの店内で見た文字が、大変癖が強くて読めなかったのです。お二人が書かれる文字よりも、何と言いますか力強さとしなりがあったと思います」
彼女は何とか良さげな話題をひねり出せた。
「それはきっと商品名を目立たせるための文字でございますね」
「人間の文字にも江戸文字とやらがあるそうですね」
歌舞伎の勘亭流、寄席の橘流、相撲の根岸流が有名だ。
「では食べ物の名前にしましょうかね」
「何にしましょうか」
侍女達が何かの料理名を書き始めたので、それを見た美鶴は話を逸らせて心から喜んだ。これでもうおかしな文章は読まなくて済むのだと。
いやしかし、油断させておいて……とも考えられるので、彼女は一応警戒した。だが侍女達から出された問題はその後も料理名だけであった。
「食堂には様々な料理があるので大変驚きました」
「期間限定や数量限定もあるそうですよ」
「店側も購買意欲をそそるための工夫をなさっているのですね」
皆がうんうんと頷いていると、辰月が起床した。
実を言うと侍女達が話題を変えたのも、そろそろ彼が起きるだろうと予想していたからである。彼は侍女達よりも一枚上手なので、美鶴のように濃密なふれあいのような肝心な話については漏らしてはくれないだろうし、何なら反撃されてしまう危険性もある。なので彼女の話に乗って違う話にしたのだった。
「おはよう。うーん、よく眠れた」
「辰月様おはようございます」
辰月様は襟元を直されながら私達の元にいらっしゃいました。目覚めたばかりなので、まだ少し眠そうです。
「んー、文字の練習をしていたのか?」
「ええそうです」
机に置かれている紙はすでに料理名のものだけになっていました。一体いつの間に……。
「ん? なんで食べ物ばかりなんだ? 腹が減ったのか?」
「お弁当屋さんの話をしたので、そこから」
「美味かったもんな。まだ気になるのがあるからまた今度利用しよう。あ、もちろん食堂にも行こう」
お弁当屋さんに何があるのかは不明ですが、食堂にはまだまだ沢山の丼や定食があるようなので毎日行っても飽きないでしょうね。
「ええ。楽しみです」
あ、そうです。お寿司屋さんにも行きたいですね。是非ともウニをもう一度。いえ、一度と言わず何度でも。無理な願いなのは重々承知しておりますけど、願うだけなら自由ですからね。
「うふふっ、お食事の話しかなさっておりませんね」
「花より団子なのですね」
「……また庭園と海にも行こうか」
「ええ」
海に行くのならお寿司屋さんに行きますよね? あ、焼き魚や貝を食べに行くのでしょうか?
季節のお団子も魅力的です。どのような味があるのでしょうね。秋だとお芋や栗ですかね?
「おっと、身支度をしないと。……はぁ、行きたくねぇなぁ。けど当番だからなぁ。月の一族ってだけで夜番が得意だと思われんのは気に食わねぇなぁ」
辰月様はぼやきながら顔を洗いに行かれました。
あっ、寝癖があるのを指摘すべきだったでしょうか。もし辰月様が御髪が乱れたまま仕事場に行かれたら、周囲の人にだらしがないと思われてしまうでしょうね。私ごときが口出ししていいのかわかりませんが、いつものように身なりが整ったお姿でお仕事にむかえるように、僭越ながら私めがお伝えせねば。
私が辰月様を追って何処にでも繋がる襖を開けると、洗面所ではなく脱衣所に出てしまいました。それにも驚きなのですが、さらに衝撃的な光景が! なんと辰月様が褌姿だったのです!
「あわわわ……申し訳ございませんっ」
「ん? 一緒に入るのか?」
よかったです。まだ布を身に付けられてて。いえ、全然よくありません。肌が、辰月様の全身のお肌が!
「何故脱衣所にっ」
なんと均整の取れたお体なのでしょうか。彫刻のようとはまさにこのことでございましょう。ってどうして私は品評のようなことを……。
「何故って寝癖があったし、寝汗もかいただろうから湯を浴びようかと思って」
気付いておいででした。私の心配など無用だったようです。
「なぁ、その手は目を覆っているつもりか? 覗いているようにも見えるがどっちだ?」
「見てませんっ!」
「いや、見てただろう……」
今はこう、指を閉じて隙間などありませんし、目も瞑っておりますので何も見えません。辰月様の裸体など見ておりません。
「別に見たいならいくらでも見てくれて構わないぞ」
「そんなわけにはまいりませんっ」
一瞬心が揺らいだのは気のせいです。事実、このように瞼と手が動いておりませんもの。
「大体、なんで俺を追って来たんだ?」
「御髪が乱れておいででしたので……、必要なかったようですけど……」
「ああなんだ、そういうことか。ふふっ、俺はてっきり美鶴も汗をかいたみたいだから、汗を流しにきたのかと思った」
突然髪の生え際を触れられたので思わず変な声が出てしまいました。視界を塞いでいたせいで、辰月様の接近に対処出来なかったのです。落ち着いていれば目を隠していてもお声が近づいて来ているのに気付けたでしょうに、気が動転しているからか全くわかりませんでした。
ハッ! 待ってください。今、目の前にほぼ裸の辰月様がいらっしゃる?
(なななななな……)
また変な汗が出てきました。今さっき脳裏に焼きついたお姿が目の前に? なんてことでしょう。
「こうしている場合じゃない。一緒に入ったら遅刻しそうだから、また別の機会にな」
「えっ」
また別の機会とは、などと考える間もなく私はお風呂場から出されました。そうですよ。目を手で覆うのなら、さっさとその場から立ち去ればよかったのです。なんでしたら、襖を開けずに話しかければよかったのです。何処にでも繋がる襖ですけど、望んだ場所の声が聞こえるのは確かでしょう。だって侍女のお二人が襖前にいますもの。
「よく聞こえなかったのですが、美鶴様は一体何をしに辰月様のもとへ行かれたのですか?」
「まさか一緒に湯浴みを?」
お二人の尻尾は激しく揺れています。残像が見えます。そのうち宙に浮くのでは……。
「違います! 寝癖がついてらしたのでお教えしようと思っただけです。それに洗面所に行かれたと思ったのです」
いつもの出勤時のように洗顔なさるだけだと思っていたのです。そうでなければ、脱衣所について行くだなんて絶対にしません。ええ、絶対に。
「お教えするだけなのに、何分も入ってらっしゃいましたけど……」
「もしや脱衣を手伝ってらしたのですか?」
「なっ! 違います」
お話ししていただけだと言いましたが、お二人は怪しんでいます。事実ですのに。
「辰月様も同じようにおっしゃるはずです」
「俺が? 何を?」
「なー!」
辰月様の突然の登場に驚いてよろけてしまいました。幸い、すぐに辰月様が抱きとめてくださったので大事には至りませんでした。しかし私は辰月様の腕から解放されずに抱きしめられたままのため、ドキドキが止まりません。
「で、俺が何を言うんだ?」
私がはぐらかそうとしたら、本多さんと紺野さんの圧力に負けて何も言えませんでした。そのせいで、先ほどの醜態が明るみになってしまいました。
「まぁ! 辰月様のお体を!」
「凝視なさったのですね!」
「ああ、実に熱い眼差しだった」
凝視なんてしておりません。チラッと見えただけです。
「上から下までじっくりと見られてしまった」
「離れていたので全身が見えただけです」
あまりにも見事なお体だったので、細部まで覚えてしまっただけです。
「ほう、舐め回すようには見ていないと?」
「もうっ話を盛りすぎですっ!」
「怒った顔も可愛いなぁ」
辰月様はお顔を私の首元に埋められました。息が首にかかってくすぐったいですし、何より、先ほどから汗をかいているので匂いが心配です。
「あのっ辰月様、お仕事の時間はまだ大丈夫ですか?」
「んー。もう少し匂いを吸い込ませてくれ」
匂いを嗅ぐではなく吸い込む? 一体どういうことでしょうか? ハッ! 食べ物は匂いも大事ですから、それの確認ですかね?
「はぁ、これだけ吸い込めば頑張れるかな」
「そうでございますか……」
食べ物が汗の臭いをしていていいのでしょうか。もっと食欲をそそる良い香り、例えば甘い香りとかそのほうが好ましいと思いますけど。
「じゃあ行って来る」
「行ってらっしゃいませ」
辰月様が橙色に変わり始めた空に飛んで行かれました。なんだかそのせいで余計に寂しさを覚えました。先ほどまで熱すぎた体が冷えたからでもあるからでしょうか。




