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第三十六話 練習?

 辰月様はご自身でボディクリームを塗られ、寝間着を着直されました。もうこれで私が視線を逸らす必要がなくなりました。心臓も次第に落ち着くことでしょう。


「で、口移しはしていいのか?」


 その話は終わったと思っていたので、完全に油断しておりました。そのせいでとても変な声が出てしまい、自分でも驚きました。少し宙に浮いたかもしれません。けれどすぐにある事に気が付いたので冷静さを取り戻せました。


「移せるものはございませんので、ね……」


 そう、この部屋に食べ物はありません。ですので口移しは不可能なのです。何がなんでも無理なのです。


(ハッ! もしや辰月様は何かを持ってらっしゃるのでは……)


 わざわざ口にされたのですから、その可能性は大いにあります。ああ、侍女のお二人のように鼻がよかったら匂いで判別出来たでしょうに、どうしましょう……。私はこのまま冷静さを保てるでしょうか。


「確かにないな」

「ええそうでしょう」


 辰月様は何も持ってらっしゃらないようです。私は安堵からか口角が上がりましたが、その時間は一瞬で終わりました。


「だが練習は出来るんじゃないか?」

「……練習? と申しますと?」


 口移しの練習とは? 何もないですのに? 口に入るほど小さな物もありません。ですのでやはり無理です……よね?


「そりゃあ口移しなんだから、唇と唇を合わせるんだろう」

「えっ」


 それはもう口移ししではなく、口付けまたは口吸いもしくは接吻と呼ばれる行為です。食べ物があれば辛うじて口と口をくっつける動作の言い訳になるかもしれないですが、ないのならそうですよね? あら? そう思っているのは私だけ?


「美鶴もいきなりキャラメルを口移しするのは難しいから、嫌がったんじゃないのか?」

「ええっ?」

「あれ? 違うのか?」


 私は驚愕しすぎて言葉が出てこなかったので必死に頭を上下に動かしました。それはもう視界がどうにかなるくらい。


「何だ、違うのか。じゃあ嫌な理由を教えて欲しい」

「り理由……」

「俺に食いかけを食べさせるのが嫌だからってのは無しな」

「えっ、しかし……」


 これ以外に理由などあるでしょうか。あ、もちろんキャラメルを味わって欲しいかったのも理由の一つですよ。


「大体、あの時は俺が先に口に入れていたのだから理由にならない」

「そうですけど……」

「俺と唇を合わせるのは嫌か?」

「別に口移しでなくても手渡しでいいではありませんか」

「唾液と体温で溶けているだろうから、手がベタベタになるぞ」

「た、確かに……。けれど拭けばいいですよね?」

「面倒臭いだろ」


 何故、辰月様はこんなにも口移しにこだわっておられるのでしょうか?

 何か特別な意味があるのかと私が混乱している間に、いつの間にか辰月様の手が私の肩に乗せられていました。


「早速練習しよう」

「えっ、あっ、心の準備が、あの……」


 辰月様の熱い眼差しに耐えられず、私は目を背けてしまいました。視線だけで火傷しそうになるだなんて、神様だからですか? きっとそうですね。ええ、絶対そうです。


「準備していなくても、その時の勢いで意外と上手くいくかもしれない」

「し、しかし……」

「今のうちに慣れておくべきだと思うんだけどなぁ」

「慣れ……」


 ハッ、もしや口から召し上がるのですか? それで口移しだなんだと?

 ですが口からって食べにくいですよね。あ、窒息させるためでしょうか。けれど他にもっと良い方法があると思うのですよ。それとも生贄を食べる際の手順なのですかね?


「おうそうだ。俺も美鶴も慣れておかないと」

「辰月様もですか?」


 慣れていないということは、他の生贄とは口移しをなさってないのですね? そう考えたら、どうしてかホッとしてしまいました。この安堵は一体……。


「ああ、互いに慣れておいたほうが、滞りなく済ませられるだろうからさ」

「!」


 滞りなく……、肉を裂かれる痛みを感じずに済むとかですかね? もしそうならば私は暴れないですものね。となると、なんとしてでもやらねば!

 けれどどうして口移しで痛み消え……? さっぱりわかりませんが、きっと術かまじないの類いなのでしょう。勉強になります。


「歯で傷付けないように注意するよ」

「ええ」


 囓りたくなる衝動を抑えて、ということでしょうか。私も食欲をそそる見た目になってきたようですね。努力が実ると嬉しいものです。


「うん、よしいくぞ」

「お願いいたします」


 我ながらよくわからない返事をしてしまいました。




 私は口移しだか術だかの練習中は、冷静でいるためにずっと平常心と唱えておりました。ええ、だってこれはただの練習ですものね。疾しい気持ちなどないのです。


「ふぅ……」

「っ……」


 そう一生懸命考えていても、口と口が触れるとおかしくなってしまいますね。終わったのに頭がぼんやりとしております。息がいつものように吸えなかったからでしょうか。実際、意識していないのに深呼吸のように息を沢山吸って吐いています。体が回復しようとしているのでしょう。


「すまない、ちょっとやりすぎた……」

「……はい」


 なんだか頭だけでなく体もいつもと違います。何やら痺れたかのようになっていますかね。


「ずっと我慢していたからさ……。いや、今も我慢はしているんだが……」

「我慢は……はぁ、良くないですよ……はぁはぁ……」


 まだ上手く呼吸が出来ません。頭も体もまだ正常でないです。


「……もう一回いいか? 少しだけでいいから」

「ええ、お好きなようになさってください」


 まだ十分に回復しておりませんが、仕方ありません。


「うぐっ、そう言われたら止められなくなってしまう……」

「止める必要があるのですか?」


 いっそこのまま辰月様のお腹の中に入っても構いません。もう皆さんに会えなくなるのは寂しいですが、生贄の役目を果たせると思うと喜びのほうが大きくなります。


「う……決めたことを破りたくないんだ」

「そうでしたか。おかしなことを言ってしまいすみません」

「謝らないでくれ。おかげで少し冷静さを取り戻せた」


 辰月様はもう冷静になられたのですね。そうですよね。これは疾しいことではないのですから、私が変なのです。もう少し唇や舌をくっつけていたいだなんて……、もう考えるのはやめましょう。冷静にならねば。


「ああ、早く正式な夫婦になりたいな」

「ええ……」


 本当に夫婦だったらよかったですのに。そうしたらずっと一緒にいられます。もっとお話し出来ますし、色んな所へも行けます。それも飽きるほど何度も何度も。

 いえ、きっと辰月様とだったら飽きたり退屈になったりしないのでしょうね。どんな時でも楽しいと思います。


「あ、別になにをしたいとかじゃなくて、美鶴が綺麗に着飾った姿が見たいんだ。とっても美しいだろうからさ。今から楽しみなんだ」


 もし本当に夫婦だったら? 私が生贄のために連れてこられたと勘違いしていて……、それなら辻褄が合うことも色々ありますし……。

 改めて思い返してみるとそんな気がしてきました。「今度」や「また」があるのです。未来があるのです。


「うーん、今日は味見をしすぎてしまった……」

「!」


 味見? ああっ、なんて淡い期待を抱いてしまったのでしょう! 神様と人間が夫婦になれるはずないのに! 恥ずかしい!

 馬鹿ですね、本当。そんな夢みたいなことがあるはずないのに。あったらいいなとは思うだけでも愚かです。


「湯冷めするから、そろそろ布団に入るか」

「え、ええ……」


 私は鉛のように重たくなった体を引きずりながら寝台に上がりました。




 辰月は口吸いの後に美鶴が何やら悲しそうな顔になっているのに気が付いた。今も隣に横たわっている彼女はどこか辛そうな表情をしている。薄暗くても彼にはわかるのだ。


(あれ、俺、また何かしてしまったのか? 実は口吸いが嫌だったとかかな……。最初は唇と唇を合せるだけのつもりだったのに、ついやりすぎてしまったからなぁ)


 彼は当初軽く触れるだけのつもりだったが、触れた瞬間なにかに取り憑かれたかのように彼女の唇をついばんでしまった。


(それだけで耐えたんだけどなぁ……。いや、舌も入れてしまったけど……)


 辰月は思い出したらモヤモヤしだしたので考えるのをやめて、美鶴の様子を見ることにした。

 どうやら彼女はまだ眠っていないようである。それどころかまだ目を開けてぼんやりと天井を見ている。


「なあ……」

「なんでしょう?」


 顔を彼に向けた彼女は悲しげな笑顔をしていた。無理に笑顔を作っているのだろう。


「口吸いは嫌だったか?」

「えっと、口移しの練習だったのではないですか?」


 彼が練習だと言ったのは口吸いをするための口実だった。当然彼女もわかっていて承諾してくれたと彼は思っていたので心底驚いた。


「あ、ああそうだったな。で、嫌だったのか?」

「そんなまさか。あり得ません」

「うん、そうか。それはよかった」


 では何がいけなかったのか。まさか下手くそと思われたのではと辰月は顔を青くした。


(誰と比較したんだ? 想像か? 想像であってくれ)


 辰月は大いに焦ったが、すぐに口実を信じるほど純真な美鶴が誰かと何かをしているとは思えないとの考えに至った。いや、そう信じ込むことにした。


「……味見の感想を聞いてもよろしいでしょうか」

「ぬぁっ、とても良いものだったぞ」


 感想を聞かれるとは思わなかったので辰月は先ほどよりも大慌てだった。




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