第二十八話 遭遇
一体全体どういう訳か、辰月様はご自身に怒っておいでのようでした。しかし、すぐに怒りを鎮められいつもの笑顔になられました。
「よし、ではまた海に行こう。今度は磯だ。岩石海岸だ」
「岩石海岸? 海は砂浜だけではないのですか?」
「行けばわかるさ」
というわけで、私は辰月様に掴まって磯に向かいました。あ、もう足袋も草履もしっかりと履いたので大丈夫ですよ。
私は到着するまでの間に磯とやらがどんなところか想像していました。砂浜の代わりに岩があるのですよね。どのように岩があるのでしょう。こうワクワクしていたら、あっという間に海が見えてきました。ですが私達が降り立てそうな岩場はありません。
「あれ? ここのはずなんだが……。もしかして満潮か?」
「海は満ち引きがあるのでしたっけ?」
どうやらちょうどその時間のようです。今は岩石海岸は海の中なのでしょう。
「うーん。……じゃあ砂浜に戻るか」
「ええ」
私達は先ほどの海岸にやって来ました。こちらも砂浜の範囲が狭くなっています。山では季節での変化はありますが、数時間でここまで変化しませんので驚くほかありません。
「ちゃんと時間を調べておけばよかった。すまない……」
辰月様は落ち込んでらっしゃるようで、凛々しい眉がハの字になってらっしゃいます。
「私は辰月様とおでかけが出来るだけで、嬉しくてたまりません。どうかそのようなお顔をなさらないでください」
「はぁ、もっと綺麗な顔を見せてくれ」
突然どうされたのでしょう?
「え? ええ、どうぞご自由にご覧になってくださいまし」
辰月様は私の頬に触られました。タコがいくつもありますが、温かで優しい手です。
「すべすべだな」
「辰月様が下さった品々のおかげです」
「髪もツヤツヤだし」
「こちらも辰月様が下さった髪油のおかげです」
日頃の努力が実ったようです。
「えー? 元の顔貌が良くないとこんな短期間でこんなに綺麗になるか?」
「それはきっと神様が作ってらっしゃる物だからではないですか?」
だからきっとすぐに効果が出たのでしょう。あの薬のように。
そして肌が綺麗になったから見映えがするようになったのです。
「ん? あれは人間が作ったやつだぞ」
「えっ。ですけど、傷跡が綺麗さっぱりなくなったのは……」
「薬は神のものだが、他のは人間が作ったやつだ」
「えっ」
辰月様によると人間の世界の品物を扱う商人がいるそうです。知りませんでした。
「フフッ、驚いた顔も可愛い」
私は辰月様に頬を撫でられ続けています。それだけでも恥ずかしいのに、可愛いだなんて……。
「もうっ、からかわないでください」
「え……からかってなどないが……。事実を言っただけだ」
このお顔は嘘を吐かれていないお顔です。そんなまさか、本心で言ってらっしゃるのですか?
「えっと、あのその、海に来たのですから海を見ましょうっ。ね?」
「照れているのも可愛いなぁ」
辰月様の手は私の顔から離れ、背中と腰にやってきました。そうです、抱きしめられています。慣れてきたと思っていても一気に体中が熱くなるので、本当は慣れたと思いたかっただけみたいです。だってそう思わないと心臓に良くないですから。
「他の方もいらっしゃるのにっ」
「他の奴らも同じようなことをしているからいいじゃないか。なんならもっと凄いことをしているし」
「えっ? も、もっと?」
抱擁よりも凄いことってなんでしょうか。私は現在辰月様しか見えませんので、確かめようがありません。
「……知りたいか?」
いつもよりも低い声です。それを耳に流し込まれ、ぞわぞわが全身を駆け巡りました。
「ふえっ?」
「やってみたいか?」
「ええっ?」
私が困惑していると、耳元でクククと笑う声がしました。なんだかムズムズとくすぐったいですね。
そして心なしか辰月様の手が私のお尻に乗せられているような気がします。何故、海岸で肉付きの確認を……。それとも肉が冷えないように温めてくださっている?
「いやぁ、本当に凄いぞ? 刺激が強すぎるかもしれない」
こんな公共の場で何が起きているのでしょう? 抱きしめられる前にはそのような光景はなかったと思いますよ。それとも私が「凄いこと」と認識していないだけなのでしょうか……。うーん。
「おーおー、若いっていいねえ」
うんうん悩んでいたら、後ろから男性の声がしました。その声に反応して辰月様が体を離されました。
「あ、臘月兄さん」
「どうやら休みの日にちが同じみたいだな」
ということは。
「さっき言った庭園で俺達を見かけたっていう先輩だ……」
やはりそうでしたか。
「初めまして、辰月様の妻の美鶴と申します」
「ああ初めまして。臘月です。辰月から色々聞いているよ」
臘月様は辰月様ほど体は大きくないですし、筋肉質でもありません。職場が違うのでしょうか?
「辰月も所帯を持つようになったのか。時が経つのは早いな」
所帯? 生贄を妻と呼んだり、不思議な表現をなさるのですね。
「一人前になってすぐなので、余計にそう思われるのでしょう」
「他の奴らは何か言ってるか? 羨ましがるとか」
「ええ、自分も生贄を探しに行くと言っている方もいましたよ」
「おいおい、今時生贄なんていないだろ」
もしかしたら私の前に生贄になった人も野犬に襲われたのではなく、神様の世界に来ているのでは、と思いお二人に尋ねると、ここ最近だと私以外の人間は誰も来ていないそうです。
「何人も生贄を差し出すほどの災害が起きる場所か……。そこにはもう……」
もう? 続く言葉を知りたくて前のめりになろうとした時です。海から悲鳴が聞こえてきました。それも次々と。
「な、なんだ?」
「じゃきが出たみたいですね」
辰月様のおっしゃるじゃきとはなんでしょうかね? 私は再び辰月様に抱きしめられたので何も見えませんが、とにかく悪い者なのはわかります。
「なっ! いちゃついている場合か!」
「大したことない奴なので大丈夫ですよ。現に皆さんちゃんと逃げられていますし」
こう辰月様はおっしゃっていますが、ずっと悲鳴が聞こえてきますし、じゃきの咆哮らしき音も響いています。辰月様が抱きしめていてくださらなかったら、私は恐怖で震えていたでしょう。
「いやいや、さっさと退治してくれよ。お前の仕事だろう」
「今日は休日ですので勝手に動くわけには、ねぇ?」
辰月様の手は私の背を撫でてくださっています。きっと私を落ち着かせようとしておられるのでしょうね。
「その場にいたのに何かあったら大問題になるぞ!」
「臘月兄さんだって軍部にいたのだから多少は戦えるのでは?」
「俺はずっと書類仕事しかしとらんわ! お前は新妻といちゃついていたいだけだろ!」
「だって俺が離れた隙に彼女に何かあったらどうするんですか」
「俺がちゃんと見ているから何とかしてくれ」
「辰月様、私からもお願いいたします!」
「そう言われたらやるしかないか。兄さん、妻を頼みます」
「おう」
辰月様は私から離れられると手ぬぐいを取り出されました。これは先ほど私の草履の鼻緒を直した残りです。
(あ……)
辰月様は片手でその手ぬぐいの端と端を持ち、真ん中に先ほど拾った巻き貝を入れられました。私の着物の袂に入れていたはずなのにいつの間に……。
(お気に入りでしたのに……)
けれど悪者退治に使うのですから、やめてくれと言う訳にもいきません。なんなら役に立つのですから喜ぶべきです。
辰月様は手ぬぐいの端を持ったままぐるぐると回して、巻き貝をじゃきの方に放り投げられました。
「お!」
巻き貝は見事にじゃきに当たりましたが、これだけでは倒せません。なんなら怒らせてしまったようで、こちらに向かって来ました。
「ようし、そのまま急所をこっちに向けててくれよ」
辰月様はニヤリと笑いながら、弓を射るかのように構えられました。何も持っていないのにも関わらず。どうなさるおつもりなのでしょう?
「あっ!」
辰月様の手元が光りだしました。それはまるで弓と矢があるかのようです。なんと神々しいのでしょうか!
私が目を奪われていると、辰月様はそのまま矢を放たれました。
「グォオオオオオオオオ!」
じゃきの額に矢が命中すると、じゃきは大きく仰け反りました。
「よし。上手く力加減出来たみたいだから、周囲に影響は出なさそうだな」
じゃきの咆哮は止み、そして体が崩れ出しました。その崩れたものは海や砂浜に落ちずに空中で消えていきます。
全てが消滅すると、辰月様が私達のところに戻ってらっしゃいました。
「兄さん、休日に討伐すると特別手当って出ましたっけ?」
私が何かを言う前に、辰月様に抱き寄せられて胸板に顔を埋めることになりました。苦しいですけど良い感触です。って何を言っているのですか私は!
「出るんじゃないか?」
「よし、手強い相手だったとか言って余分に貰ってやりましょう」
「いやぁ……、目撃者がいっぱいいるから無理だろう」
「チッ」
辰月様が舌打ちをなさるなんて驚きです。いつもにこやかでお優しくて温かな方なので、そんなことをなさるとは。
「うわっ……酷え顔だ。奥さんが見たら幻滅するぞ」
どのようなお顔をなさっているのでしょう? ちょっと興味があります。ですが、今は身動きが取れないので見られません。
「されませんよ。な?」
ようやく動けるようになり、辰月様のお顔を見られました。しかし、普段よく見る表情をなさっています。
「さっきとは別人になってるだろ、それ」
「どんなお顔をされていたのですか?」
「どんなって、いつもと変わらない顔だが?」
辰月様は爽やかな笑顔をなさっていますが、私は酷い顔とやらが見たいです。色んな表情を見てみたいのです。
「うわぁ」
臘月様の様子から察するに、辰月様は相当酷い表情をなさっていたのでしょうね。多分、親しい間柄のおふざけで見せるものなのでしょう。そんなお顔も見られる日が来るといいのですけど……。




