第二話 発汗
いつの間にか食事が届いておりました。襖が開いた記憶が無いのですけど、一体いつどなたが部屋の中に……。寝間着もこのような感じだったのですかね? 今更ですが灯りもそうです。光源がないのに部屋中が明るいのです。不思議な事ばかりですよ、本当に。
さあ食べようと思ったのですが、食事が一人分しかありません。不思議に思っていると、辰月様はもう召し上がったそうなので、食べるのは私だけなのだとか。……ということは辰月様に私が食事している姿を観察されてしまうのですね。粗相をしないように行儀良くいただきませんと。御膳に綺麗に盛り付けられているので、より一層注意して食べねば。汚い食べ方をする生贄なんてお嫌に決まっていますものね。
私は慎重に箸を持ちましたが、手指にも包帯を巻かれているので上手く持てませんでした。
「ああ、気が利かなかったな。匙を貰って来よう」
私が苦戦していると、辰月様は手を膝に置いて立ち上がりかけました。
「そんなっ、大丈夫でございますよ」
私は行儀が悪いですが、箸が上手く使えるのを辰月様に披露してみました。
それにしても美味しそうな人参です。綺麗なねじり梅にされています。色も鮮やかで型崩れもしておらず美しいです。人参一つでもこんなに感動するとは思いもしませんでした。
「そうか。では次から用意させよう」
「ありがとうございます」
私は今持っている人参を小鉢に戻して、緊張しながら口をお椀に触れさせました。
「あ……」
「どうした? 口に合わなかったか?」
「いえ、とても美味しいので……」
温かな汁物は久しぶりだったので、私は両親が生きていた頃を思い出して、泣きそうになってしまいました。もちろん味は母のものとは違います。ですが、汁の温かさだけでなく人の温もりもを感じたので目頭が熱くなりました。
「そうだったか。他のも美味いからどんどん食べてくれ」
「ありがとうございます」
他の料理も体中に塗った薬の匂いなど気にならぬほど大変美味なので、私は箸が使いづらいにも関わらず、次々と口に食べ物を運びました。口に入れると食材そのものの味と出汁や味付けが優しく広がり、噛めばそれらが増していきます。私は白米も食べました。つややかでふっくらとした粒を噛みしめると、とうとう涙が零れてしまいました。
「だ、大丈夫か? 口の中を噛んだか?」
「とっても美味しかったので、感動してしまっただけです」
それもありますが、私は両親と過ごした日々が鮮明に蘇ったので、つい涙が出てしまいました。家族団らんのごくありふれた風景がどれほど尊いものだったのか、失ってから気付くなんて……。
「……そうか」
「あ……」
辰月様はお着物の袖口で私の涙を拭いて下さいました。
「そんなっ、私ごときの涙でお着物を汚すなんていけません」
「――になる人の涙なんだから汚くなんかないさ」
辰月様は何とおっしゃったのでしょう? 小さな声だったので聞き取れませんでした。おそらく私を気遣ってくださった言葉だと思われます。
「何から何まで申し訳ございません」
「俺がしたいからしたんだ。そんな何度も謝らないでほしい」
「え、ええ……」
私はまた謝りそうになったのをぐっとこらえ、こらえたまま白米と共に言葉を飲み込みました。そして米粒の一粒一粒を味わうように噛みしめました。
私が夕餉を食べ終えて口元を拭いていると、いつの間にか空の御膳が消えていました。配膳と下膳に気付けないなんて、私は目と耳が悪いとは言えここまで鈍感だったとは悲しいやら情けないやら。
「そうだ、好きな食べ物はなんだ?」
「え?」
生贄に好物を聞くなんて考えもしなかったので、私は最初何を言われたのか理解出来ませんでした。
「何か食べたい物があったら教えてくれないか?」
「私は嫌いな食べ物はございませんので、出していただいたらどんな物でも食べられます。私などに気を使わないでください」
私は先ほどの事もあり、母の料理がもう一度食べたいと思ってしまいました。これはいくら神様であっても無理ですよね。しかし少し思い出せたので嬉しかったです。まだ忘れていないとわかってよかったです。今日はなんだか温かいことだらけですね。
「まあ、そう言わずに。好きな食べ物を教えてくれないだろうか?」
「……そうですね。私は甘い物が好きです」
甘い物は父と母を亡くしてからはほとんど食べていません。
そう言えば、父が街に行った時にお土産で西洋のお菓子を買ってきてくれたので、両親と私の三人で食べたことがあります。美味しいお菓子を食べながら街の話も聞けてとても楽しかったのを覚えています。
「では明日用意しよう。楽しみしていてくれ」
「ありがとうございます」
辰月様は終始にこやかに話しかけてくださいました。生贄にまで親身に接して下さるなんて、本当にお優しいお方ですね。このような素晴らしい神様に食べていただけるなんて、私はとても幸せ者です。
その後少しの間、辰月様と会話をしました。どんなところで生まれ育ったのか、人間はどのような暮らしをしているかなど楽しそうに聞いて下さいました。
「おっと、もうこんな時間か。そろそろ寝るとしよう」
「はい」
私が寝台の下で横になろうとしたら、辰月様に抱き上げられてしまいました。目の前に辰月様のお顔が来たので心臓が賑やかになり、さらに頬だけでなく耳までもカッと熱くなり、もうお祭り状態です。私は心を落ち着かせるために顔を背けたかったのですが、辰月様の整った顔つきから目を背けられるはずもなく見つめたままでいます。
「なっ何やってるんだ。美鶴はこっちだろ」
「え、しかし……」
私は床ではなくふかふかの布団の上に寝かせられました。辰月様の腕が名残惜しいような気が……ではなく、生贄がこんなに立派な寝台で寝ていいのでしょうか。
「俺と一緒じゃ嫌かもしれないが我慢してくれ」
「そんなっ。申し訳ないので、私は下で寝ます」
私が起き上がって寝台から降りようとすると、腕を掴まれて引き戻され、そして背を支えられてそっと寝台に寝かされました。
「駄目だ。体を痛めたらどうするんだ」
ハッ! もしや辰月様は生贄の肉体が損なわれるのを恐れてらっしゃるのではないでしょうか。この焦りっぷりからするときっとそうでしょう。それなのに浮かれるなんて……、私は自分の役割を忘れるところでした。
「すみませんでした。……あ」
私はまた謝罪してしまいました。辰月様は気分を害されていないでしょうか。恐る恐る辰月様の顔を見ると少し笑っておられたので、お怒りではないようです。
ですが、辰月様の優しさに甘えたままはよくないですよね。気を付けませんと。
「ふふっ狭いけど、まぁいいもんだろ?」
辰月様は微笑みながら私の隣に来られました。何度体験しても目の前に辰月様のお顔が来ると私は耳まで熱くなってしまいます。いえ、これは恥ずかしいからではなく、きっとふかふかで暖かな敷き布団と掛け布団のせいです。決して髪を撫でられているからではありません。
「ずっとあんな所にいて疲れただろう。ゆっくり休んでくれ」
「はい……」
私は満腹になっていたのもあって、目を瞑ったらすぐに寝入ってしまいました。それもぐっすりと朝まで眠っていました。
(あ……もしや、好物を食べたほうが良い肉になるのではないでしょうか? だから何が好きかを……)
私は寝ぼけながら昨晩のことをぼんやりと思い出していました。また温かくて美味しい料理が食べられるなんて夢にも思いませんでした。あんなに上等な食事を私にまで出してくださるなんて、神様の世界は凄いですね。それとも良い物を摂取しないと上質な肉にならないとか? ええ、生贄にまで出すのですから多分そうなのでしょう。
(……ハッ!)
私は大事な事を思い出しました。確か辰月様も隣でご就寝なさったはずです。私は横目で辰月様を探しました。
(いらっしゃる!)
急に私の心臓が煩くなりました。体も熱くなりました。汗もかき始めました。耳を澄ませば辰月様の寝息も聞こえています。
私は恐る恐る辰月様の方に顔を向けました。
(こちらを向いていらっしゃる!)
私の心臓はさらに煩くなり、体ももっと熱くなって汗も酷くなりました。
(あああ、冷静になりませんと)
そうです。生贄が神様より先に眠ったうえ、日が昇るまで熟睡してしまってよかったのでしょうか? どなたも起こしに来ないのでこのまま横になっていていいのでしょうか?
辰月様がお目覚めになったら何か仕事がないか聞きませんとね。
私は顔にかかる風のおかげで少し冷静になれました。汗も落ち着いてきたようです。
(ところで風はどこから?)
不思議な事にこの風は均一の間隔で吹いてきます。
私は風が何処から吹いてくるのか探そうとしましたが、その前に気付きました。この風は辰月様の寝息です!
(私の顔に辰月様の息がっ!)
規則正しく吹く風なのに何故気付かなかったのでしょう。どうやら私は冷静になってはいなかったようです。
ここで私はさらに冷静でなくなるものを目にします。
(鎖骨! 辰月様の鎖骨が!)
少しはだけた寝間着の隙間から見えるのです。薄暗くてもはっきりくっきりと。
私は事もあろうか視線を下に動かしてしまいました。
(胸板! 辰月様の胸板が!)
ちらりと筋肉で盛り上がった胸板が見えます。見つめるだなんて破廉恥だとは分かっておりますが、こう見事だと目がそらせません。
(そう言えば寝息が聞こえなく……。――!)
私が視線を辰月様の顔に移動させると目が合いました。その瞬間に心臓が先ほどよりも大きく跳ね上がりました。
「おはよう。よく眠れたか?」
「はい……」
私は再び全身から汗が噴き出しました。これは先ほどよりも多いのではないでしょうか。