1.(轢いてもうた)
「あなた……」
「ああ、おいで。おまえ」
剣と魔法とドラゴンと身分制度の世界、アンドリシアン。
ここはカナーン王国における準男爵家の屋敷、その寝室。
調度は質素なものだったが、ベッドだけは立派なものだった。
夜の帳はもう下りた。年若い夫婦が、愛を確かめ合おうとしている。
二人はお互い質素だが上等の作りの夜着を着て、抱き締め合う。
この屋敷の若き当主である準男爵と、その新妻だった。
「んんっ……」
二人が盛り上がる中、部屋の片隅で気づかれずに佇む影があった。
影は周囲に悟られず、夫婦の動きに合わせて手拍子している。
(あ、それっ、それっ、それっ、それっ)
くたびれたスーツに中途半端に伸びた髪、やせぎすの体に張りを失った肌。
どう見ても社畜と労災と激務と過労死の世界、地球の日本の人物。
日本における人生に疲れた中年サラリーマンとしか思えない外見。
だが、その正体こそこの世界のみならず、千以上の世界を生み出し守っている創造神であった。
この姿も化身の一つに過ぎない。
神は本当はこんな名前の世界に来たくなかった。不幸だった過去を思い出す、不吉な名前なのだ。
そんな神がここにいる理由は、重かった。
(やっとあの下等生物の転生先が見つかった。これで一安心だ)
かつて人間の少年をトラックで轢き殺してしまった償いをするよう、神は他の神から強いられていたのである。
そうでなければ来たくもなかった。
ある日古くなったトラックのブレーキが利かず、誤って轢いてしまった結果がこれだ。
釣り仲間である神友の家に遊びに行く際のことであった。
それだけなら相手は下等生物でもあるし不幸な事故で済んだ。
だが、運転中に脇見もしていたのがバレたのがまずかった。
加えて他の神の世界で轢き逃げしたことが合わさり、一発で神界大型一種免許停止。
神界トラックも神界免許証も取り上げられたのだ。
周囲からは脇見運転と生ゴミの放置と現場からの逃走を責められた。
当局からは奉仕活動十年か被害復旧かを要求されている。
結局、神は、ヘマを清算するために地道な賠償の段取りを付けた。
ついでに免許とトラックを取り戻すべく。
被害者である少年は、釣り仲間の神が仕切る世界、地球は日本の生まれ。
償いとして叶えねばならない少年の願いはチート、ハーレム、異世界転生だった。
正直面倒極まりなかったが、神は少年の希望に合う世界を探した。
そして少年の魂にチート能力を付属させ、少年の転生先にそこそこ豊かな家を用意してやることにしたのだ。
神界普通免許もないのでは釣りにも行けない。
苦労は実り、今日ようやく準備が仕上げとなる。
「あなた、あなたっ」
「おまえ、おまえっ」
(がーんばれ。がーんばれっ)
二人をおざなりに応援する。
候補を厳選し、やっと見つけたシュンヤの転生先。強力な肉体の持ち主。
もうすぐ発生する命こそがそれになる予定だ。
神は機を待っていた。
人間に察知されないよう力を使って気配を消し去っていたのは、命の始まりの瞬間に割り込むためなのだ。
「ああっ」
(今だ、ゴッドパワーを喰らえ!)
二人が最高潮に達したのに合わせ、少年の魂を右手から放つ。
放出された少年の魂が親となる男に直撃し、刺激で準男爵は気絶。
魂は、完全に新たな肉体の素に定着した。やっと、終わった。
神は一月半ほど前に、この世界の神殿に神託を下していた。
生まれる赤子が魔王を倒す約束の子である、という内容でだ。
特別な運命じゃないと嫌だ、と少年がゴネたからだ。
あとは少年の誕生をもって、罪の清算完了である。
神は有頂天だった。
シュンヤという名の死んだ少年、今は準男爵の妻の体内にいるはずの彼に手を振ると、悠々と屋敷を出る。
これで約一年後には、免許とトラックを返してもらえる。
脇見運転の罪で白い目で見てきた釣り仲間も見直してくれるだろう。
神は馴染みとなった神界チャリにまたがり、限界まで加速した。
早回しの映画のようにびゅんびゅんと風景が流れていく。
釣り仲間の神友、サブちゃんの家に遊びに行くことにしたのだ。
転生担当任務の仕事中だが、何、職務放棄くらい構いはしない。
こんなブラック業務、誰も勤務態度の調査なんかしていない。咎める者などいないのだ。
そのチャリは、世界の壁を越えた。
アンドリシアンを一分で駆け抜け、地球に到達して日本に入る。
緑豊かな道。関西地方と呼ばれるエリアの地方都市だ。
シャッター街となっている、田舎の商店街をブッ飛ばす。
あと五分でサブちゃんハウスというところまで来たときに、異変は起きた。
交差点を横切る全速力の神のチャリ。その前に子猫が飛び出してきたのである。
しかしさすがは神、絶妙のコーナリングで回避し、ドリフト。
赤熱するチャリの前輪が生み出した衝撃と暴風を、因果の果てに逃がして子猫を守る。
別の世界で山岳地帯が吹き飛び、すべてが消滅するが、その甲斐あって大事な命を救うことができた。
驚いた子猫は路地へ逃げ込む。神は去り行く尻尾に手を振った。
神が遠くなる子猫の背を見送っている間も、そのまま慣性で勝手に進むチャリ。
ブレーキを掛けているのに。今日はあまりタイヤとブレーキの調子が良くない。
前輪は、命を砕く異音を立てたあとしばらくして止まった。
(異音? 猫は躱したのになぜ)
神は嫌な予感をこらえ、音のあった場所へ振り返る。
そこには真っ赤な花が咲いていた。
花の正体は、胴体が真っ二つになっている人間の少年の死体。
制服を着ていて頭部は丸刈りだ。
どうやら不運にも歩いていた人間の少年が、神の一撃をもらって残骸になってしまったらしい。
再度の脇見運転による轢殺。
神は新たな被害者を出してしまったようだった。