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それから数日が経った。
魔術師達の健闘により、カシスが恐慌状態でかけた呪いのほとんどは解除出来た。だが、いまだマリオは目を覚まさなかった。
その日、リジナ達が軽めの昼食から戻ると魔術師達はつかみ合いの喧嘩をしていた。魔術が使えない環境なのか、魔術ではなく、貧弱な拳で殴りあっている。
「ありえない! 絶対に認可できない」
「そうだ、リチャードの言う通り。僕達のリジナがなぜ、あの不細工のために……!」
「それはこっちの台詞! マリオ様の唇を、やるものか!」
「うるさい! お前らの意見など、知るものか。はやく、ファウスト様の側に帰りたい。さっさと終わらせろ!」
慌てて止めに入るが、興奮して手がつけられない。リジナは当分、双子の頭を撫でることだけに神経を注いだ。
落ち着いてきた頃、双子になにがあったのかを尋ねた。しかし、顔を背けられてしまう。絶対に言いたくないと、口に手をあてて抗戦の構えをとった。
リジナは困り果ててしまった。
これでは事情がわからない。
セドはこれ幸いとファウストを圧し潰して甘えている。長身のセドに乗られると、ファウストはうぎゅうと可愛い声を出してばたばたと手足をばたつかせた。
従者のように従うセドを見慣れていただけに、ファウストの上に乗るセドの姿は衝撃的だった。
犬が戯れているようにも見えるが、ファウストは本気で嫌がっているようだ。
助けたくとも、双子が機嫌を損ねてしまえば、状況がさらに悪化してしまう。今度こそ、乱闘になり兼ねない。マリオが側で眠っているのだ。それだけは避けたかった。
リジナは、ファウストに大丈夫かと声をかけた。ファウストは怒号を上げて、ぶんぶんと腕を振ってセドを払い落とした。
そして、そのまま首根っこを掴んで部屋から退出していった。
セドはファウストが怒っていても気にしないのか、ぽおっと頬を染めていた。
魔術師って……! と苦悩したくなる。
魔術師達は主を悩ますのが得意だ。
悩めば悩むだけ魔術師達が嬉しそうにしそうだ。きっと、きらきらした瞳で、自分だけを思ってと言うに違いない。
遠い目をして、ぼんやりとしていると、ムムとカシスの言い合う声が耳に飛び込んできた。
「許容できない!」
「うるさいぞ、この馬鹿鳥。騒ぐなら、焼き鳥にして食べちゃうよ」
顔を上げると、二人が睨み合い、火花を散らしていた。
双子が気にするなと言わんばかりに首を振る。だが、カシスが勢いよく振り返り、強烈にリジナを睨みつけてきた。
「こんな女に!」
「お前のせいだろうに。呪いをかけたのだから」
「かけたくてかけたわけじゃ……!」
じわりとふちに涙を浮かべたカシスは、つかつかとリジナに歩み寄ると、憎らしげにお腹あたりをぽこぽこと叩き始めた。
双子が八重歯を剥き出しにし、眉根を吊り上げ、カシスを掴み上げた。カシスは唸り声のような音で双子を口汚く罵った。小さな足が、リチャードの腹部を擦った。
「えっと?」
困惑するリジナに、ムムがリジナの肩を引き寄せ、小さな声で告げた。
「マリオ目を覚ましそうだって」
「! 本当ですか?!」
春が訪れを告げたように、気持ちが華やいだ。雪が溶けていくように、心の澱む気持ちも晴れていく。
やっとマリオと話が出来る。彼と話すことが出来る。それだけが、ただただ嬉しい。
「だめ。こんな奴に!」
カシス今にもリジナを殴りつけそうなほど、暴れまわる。双子もなぜか、ムムを威嚇して、殺気を振りまいている。
「いい加減にしなさい」
「やだ! マリオ様の神聖な口付けをこんな奴にやってたまるか!」
カシスは腹立たしいのか、早口でまくしたててた。リジナは唾を飲み込んだ。
ーー神聖な口付け?
「馬鹿、カシス!」
「馬鹿じゃない! この女にやらせるぐらいだったらーー」
「そうだ、カシスがやればいい!」
「無理だろ、絶対に。カシス、マリオに口付けることが出来るか?」
ムムの言葉に、火がついたようにカシスの顔が赤らむ。両手で頬をおさえ、寝ているマリオを見遣り、ふらりとよろけた。
「カシス!?」
「大丈夫。いつものことだから。カシスは、マリオの肌には指一本触れられない」
マリオ様の唇に……と悶えているカシスを、床に転がしたまま、ムムは双子を睨み返しながら続けた。
「リジナ嬢、どうやらマリオは魔術回路が停止している状態にあるらしい。魔術回路について、知識は?」
「少しでしたら。魔術師の体を巡るという魔力の配管のことですよね?」
「そう。一般の人間はその回路を凍結しているのだけど、魔術師の主になると無条件に回路が循環してしまうらしい」
「じゃあ、私も?」
ムムは軽く頷き、リジナの首近くに顔をやってすんと鼻を鳴らした。リチャードがあまりのことに泣きそうに目を潤ませる。
「お前、痛めつけてやる!」
「ムム様!?」
「どうやら、魔術師がマーキングとして、魔術回路に魔力を流し込むらしいよ。そのショックで回路が活発化してしまうのだと。魔術師個人が放つ独特の花の香りがするのだという。他の魔術師に自分のものであると同胞に示すためだそうだ。魔術師連中はマーキングするのが大好きだね?」
顔を離して、ムムは毒のある顔で微笑んだ。
リチャードは完全に泣き崩れていた。「リジナの浮気者……。男とみればどんな奴でもいいの?」と口走っている。
リジナはそっと聞こえないふりをした。
テオドールは、完全に据わった目でムムを見つめていた。テオドールの反応に怖々としながら、ムムとの会話を再開させる。
「……それで、口付けというのは?」
「今現在、マリオの魔術回路は、そこの馬鹿鳥のせいで停止してしまっているんだ。マリオが目を覚まさないのも、このせいらしい」
「つまり、魔術回路が止まっているから、マリオが起きない?」
「そう。そして、回路の復活には、魔力が必要だ。この部屋で魔力が通っているのは、馬鹿鳥と双子と君だけ。カシスは倒れているし、双子は絶対に拒否するだろう。頼れるのは君だけだ」
「でも、私は、どうすれば回路の復活ができるのか分かりません」
「大丈夫、とても簡単な方法だから。体液を分け与えるんだよ」
ムムはそう言って自らの唇に指をのせた。
リジナはつられるように指を下唇の上にのせて、赤面した。テオドールの目が冷酷な魔術師の瞳に変わる。首筋に氷を押し当てられているような緊張感が漂った。
「唾液には、魔力が秘められているからね。真っ赤だ。恥ずかしい? でも、マリオのためだ。やってくれるよね?」
「殺す」
テオドールが、小さく唇を動かした。リジナだって、知っている有名な死の術だ。
ぞっと背筋が凍ったが、ムムは鼻を鳴らし、にこっとテオドールに笑いかけた。
「忘れたのか? この屋敷では、魔術が使えなくなっている。カシスがまた、マリオになにをしでかすか分からないからね」
テオドールは盛大に舌打ちした。魔術が使えなければ、さっきの術は無効だ。
つめていた息をほっと吐き出す。ここが魔術が使えない空間だったからよかったものの、本当ならばムムが死んでいた。テオドールには、人を殺せるだけの力があるのだ。
冗談では済ませられない。
「テオドール、出て行って欲しい。人を簡単に殺そうとする魔術師を甘やかす気にはなれない。次やったら、一生、王城に居てもらう」
わざと冷たい声で告げるとテオドールは顔を真っ青にさせて、こくこくと頷いた。転がって泣き言を言うリチャードを担ぎ上げ、素早く部屋から出て行った。
罰としてテオドールにはしばらく会わないようにしよう。そう、心に決める。
「これで普通に喋れるね」
「ムム様、ごめんなさい」
「こんなこともあるから、きちんと躾をしないといけないよ。リジナ嬢は魔術師に対して警戒心がない。魔術師は力を持った獣だ」
カシスはマリオの声を奪った。セドはファウストを支配しようとするという。双子も、他の二人のように獰猛さを持っているのだろうか。
警戒心がないと言われればその通りだ。つい、双子に甘い顔をしてしまう。
……双子の躾計画は後だ。今はマリオのことを考えなくては。
「他に方法はないのでしょうか?」
出来ないわけではない。だが、マリオの意識がないうちにするのは、パリアと同じことをすることになるのではないのか。
そう思うと、気が重い。
「他の方法もあるかもね? でも、魔術回路の停止は肉体への負担が高い。はやく目覚めさせてやらないと、肉体が死してしまうよ」
マリオが死ぬ?
そんなこと、許してなるものか。
リジナは頬を叩き、覚悟を決めた。ムムが愉快そうに唇を吊り上げた。
「やります」
実際、本当にマリオを起こせるのかは半信半疑だ。だが、他の誰にもマリオの唇を奪われたくはなかった。
「お願いね。ちなみに、きちんと舌を絡ませてーー」
「ムム様! 恥ずかしいので、黙って下さい!」
ムムの言葉を遮るように、声を絞り出して、マリオへ歩む。途中でカシスが暴れ出したが、ムムに捕らえられた。
リジナは、マリオの横たわる寝台のふちに腰掛けた。
側から見ても窶れているのがわかった。血の気は薄く、このまま儚く消えていってしまいそうだ。
リジナは銀の穂のような髪を梳いて、銀光する睫毛を軽く指でなぞる。鼻筋の通った端正な顔のマリオは、眠り姫のように穏やかに夢の世界を揺蕩っている。
拳を握った。リジナは、この時ばかりは、童話に出てくる王子様のように、凛々しくありたかった。
マリオの胸に手を置き、目にかかる髪の毛を払いのける。
マリオの唇は冷たかった。最初は、だたおしつけたような口付けだった。上下の唇をわり、舌を潜り込ませる。体が火照る。マリオに悪戯をしている邪な淫女になったようだった。
マリオの口内は乾いていた。リジナは、唾液を擦りつけるように、舌を回した。無我夢中だった。マリオの口内を荒らせば、荒らすだけ、頭の核がぼやけていく。
ーーマリオ、起きて。
首に手を回し、瞼をゆっくり落とす。
本当に、マリオは起きるのだろうか。
様子を見るために身を起こそうとした。
だが、それを背に回された腕が遮った。リジナはあらんがり目を見開いた。
もう片方の腕が頭をおさえ、リジナの口の中にねっとりとした熱いものが入り込んできた。
「!?」
うっとりとした顔で、マリオが微笑んでいる。さっきまでと一変して、血の気が良くて頬が赤い。
頬骨を指でなぞられる。くるりと、体制が逆転した。腰に手を置かれ、離れた唇がすぐにくっつく。啄むような口付けの嵐に、リジナは目を白黒させた。
腹の奥が無性に熱い。なぜか、それが淫らなものだとリジナは直感で気がついた。
「ま、まり」
マリオの唇は甘く、なにもかもを溶かしてしまいそうだった。
「おはよう、リジナ」
マリオは清々しい朝に目覚めたとでも言わんばかりに朗らかにリジナを抱き締め、口を吸った。
その後、マリオの一方的な口付けは、ムムの咳払いで遮られた。
きちんと医師の診断を受けたあと、マリオはカシスを叱り飛ばした。声を奪われたマリオにとって、カシスからなにかされるというのは恐怖だ。なかば恫喝するような、荒んだ言葉で責め立てた。
カシスはリジナを恨めしそうに睨みながら泣きだしてしまった。
リジナはムムに助けて貰いながら、マリオに事の顛末を教えた。マリオは困惑した様子だったが、やがてちょっと拗ねたようにリジナを見つめて「普通、逆だ。リジナが私を王子のように助けにくるなんて。これでは、私が娶られるほうだ」としょげてしまった。
逆をしてみるのも、いいはず。眠り王子を起こす勇敢な姫。運命の口付けは素敵だ。
そう力説したら、やや頬を赤らめて、マリオの頷いた。
「リジナに言われると、それも悪くないかもしれないと思うから、困る」
マリオはとても幸せそうに言葉を噛み締めた。