ⅶ
リジナはゆっくりと目を開いた。
耳殻と指がぴりりと痺れている。発熱しているように、体がだるい。
両肩にもふっとした塊が押し付けられている。 リジナは右のもふっとした塊に顔を埋めた。
滑らかな毛布のような感触だった。こんなに肌触りがいいものが屋敷にあっただろうか。
「リジナ」
どうしてだろう。ファウストの声がする。
屋敷に遊びに来ているのだろうか。
「困ったな。童話のように、口付けしたら、目を覚ましますか?」
うすらぼんやりとしていた意識が一気に覚醒した。
ファウストに不埒なことを言われた気がした。
薄汚い壁に背を預けているファウストと目が合った。
困ったなとばかりに、ファウストは目を細めた。
リジナは辺りを見渡した。
どうやら、地下牢のような場所らしい。空気は湿り、ぼうっと暗い。階段へと続く道には鉄格子がはまっている。地面には鼠が這い、埃臭い。壁のシミは血でできていた。
ふさっとしたものは双子の耳だった。双子は、抱え込むようにリジナを抱き締めている。耳朶に健やかな寝息があたる。美しく整った顔がすぐそばにあると思うとむずむずした。
「そうだ、パリア様……」
双子の滑らかな耳の魔力に抗い、記憶を辿る。
パリアに棺のなかに入ったマリオを見せられ、そのまま意識が遠退いてしまったのだ。
おそらく、薬を盛られたのだ。ごった煮のスープは、舌に奇妙な後味が残った。おそらく、あのスープに入っていたのだろう。
マリオが帰ってこなかったのだ。危機感を抱くべきだった。
リジナは起き上がろうとした。だが、双子の絡む腕の力が強くて、起き上がることもできない。
ぐるりと目を回した。マリオの危機に、こうやってのほほんと寝そべっていていいのか。
「ご機嫌よう、リジナ。よく眠れましたか?」
視線だけ、ファウストに向ける。ファウストの隣には、セドが跪いていた。許しを乞うように、ぎゅっと目を閉じている。
「清々しいお目覚めのところ申し訳ないが、悲報があります。僕らはあの女に囚われてしまったようですよ」
リジナは再び、辺りを見渡した。鼠のきゅうきゅうという鳴き声が、空恐ろしく聞こえた。
「僕らは、パリアが言っていた、ゾンビパウダーもどきを飲まされたらしい」
「ゾンビパウダー? そういえば、ナツミが言っていたと、パリア様は言っていたっけ」
仮死状態にさせ、起き上がったら奴隷になるのだとパリアは説明していた。
「でも、私も、ファウストも、奴隷のようになっていないよ」
「ええ。リジナや僕が奴隷など、冗談でもありえない」
ファウストは立ち上がり、リジナに近付いてきた。セドはファウストが移動しても、その場で拝跪したままだった。
「リジナ、怪我はありませんか」
「うん。ファウストは?」
「耳鳴りと軽い痺れがする程度です」
耳たぶを触り、ファウストは苦笑した。リジナと同じ症状がでているらしい。同じだとリジナは頷いた。
「困りましたね。まさか、こんな強行手段に出るとは」
「マリオを助けに行かなくちゃ」
明日は結婚式だとパリアは言っていた。狂言だろう。だが、パリアは正気ではなかった。なにをしても、不思議ではない。
「ここから出られませんよ。反魔術の方陣が組まれているようで。魔術がまったく使い物になりません」
セドが落ち込んだ様子で首を振った。魔術を使えなかったらしい。
リジナは双子に視線を向けた。
「おそらく、双子でも無駄だと思いますよ。魔術が展開できないのですから。こいつらめ、僕らを置いて逃げればいいものを、てこでも離れなかったらしい」
魔術師は主が大好きなのだ。きっと、倒れたリジナ達を見捨てられずに一緒に牢に入ったのだろう。
リジナは双子の耳を揉んだ。
ぴくと鼻が動いたあと、リチャードが目を覚ました。リジナと掠れた声で名を呼ばれる。
「リチャード、おはよう」
「……リジナ、かわいい」
相変わらず、甘やかす言葉ばかり吐く。
リジナは内心慌てた。ファウスト達がいるのだ。
「リチャード!」
「奴隷になっていない?」
リチャードはリジナの頬をぺろりと舐めた。
「おい、お前な」
硬直するリジナのかわりに、ファウストが鋭い声で咎めた。だが、話しかけるなとばかりに顔を背け、リチャードは無視した。
「そうやすやすと、奴隷になるものか。意識もはっきりしている」
「……リジナ、痺れるだけ?」
「うん、そう。リチャードは私が奴隷になると思ったんだね?」
リジナをぎゅうと抱きしめたまま、リチャードが頷いた。
「だって、あの女が同じものを飲ませたと言っていたから」
やはり、飲まされたのはゾンビパウダーと同じ効能の薬らしい。
ぱたと耳が上がり、テオドールの目蓋が開く。
テオドールはリチャードから奪い取るように、リジナを自分の方に引き寄せた。
「リジナ、おはよう。どうもない?」
「大丈夫だよ」
ファウストは、眉根を寄せて、首を振った。
「どういうことでしょうね? ゾンビパウダーを飲まされたのではなかったのか」
「それは、わたしがご説明させていただきます」
鼠が鳴いて、鉄格子の隙間をすり抜けた。
執事のセパが、包帯を巻いたまま、のそりのそりとこちらへ近づいた。
鼠達が、セパに体を擦りつけた。困り果てた様子で、セパがそこで止まった。
「パリアの手先がなにようだ。殺しにでも来たのですか?」
毒を孕んだファウストの声に、セパは明らかに狼狽えた。
「違います、高貴な方々。わたしは、あなたがたを助けに参りました」
「ほう?」
「我が主、パリア様は、正気ではございません」
「そうでなければ、人の婚約者を奪って、僕達を監禁しないでしょうよ。無駄な話は結構。それで、僕達はゾンビパウダーを飲まされたのではなかったのですか?」
テオドールの頭を撫でて機嫌をとる。
リジナは立ち上がり、セパに近寄った。テオドールとリチャードはむっとして、リジナの背中を軽く叩いた。
どうして、他の奴なんか見るのと憤慨しているようだ。
「懺悔いたします。そもそも、ゾンビパウダーなどという珍品と同じ効能の薬などないのです、尊いお方。パリア様は、卑しい商人に騙され、どこででも手に入れられるような、麻痺薬を高値で購入してしまった」
「麻痺薬か。それで?」
「パリア様には何度も進言いたしました。しかし、聞き入れては下さらなかった。そればかりか、薬をのませ、失神したわたしに、奴隷になったかと尋ねてくるように。わたしは、パリア様に、いいえ、いいえと首を振りました。わたくしの言に従うまで、ここから出さないと、パリア様はおっしゃいました」
ぎょっとして、リジナは牢屋のなかを見渡した。つられたように、双子も視線を追う。
薬の効果が出たというまで、執事をここに閉じ込めたのか?
パリアは本当に正気を失ってしまったようだ。
「はじめのうちは、言うものかと思いました。主を正すのも、己の務めと。しかし、人間とは、愚かで脆いもの。強固な意志では腹は満たせない」
セパの視線は足元の鼠に注がれた。
ちゅうちゅうと姦しい音を立て、気を惹こうとしているようだった。
「鼠を食べる前に、理性を殺せたことがよかった。気が付けばわたしは、顔に包帯を巻いていました」
「その顔はーー」
「いいえ、いいえ。どうにもなってはおりません。邪推など、されませぬように」
否定したが、決して包帯を取ろうとはしない。
リジナはじりじりと心の大切な部分が焼けていくような喪失感に、目の前が暗くなる。
「薬は偽物なのだろう? ならば、なぜ、マリオはあのように眠っている?」
「マリオ様がいらした日。皆様と同じように、ごった煮のスープに薬を入れろと命が下りました。どうせ、麻痺するだけ、そう思い、深く考えませんでした。しかし、魔術師が」
「魔術師? カシスのこと?」
そういえば、一緒に行ったはずのカシスの姿がなかった。双子やセドのように、主の元から離れるとは考え難い。なぜ、いないのだろうか。
「魔術師は、酷く動揺してしまった。パリア様の奴隷という言葉を鵜呑みにし、術を」
ちっと、ファウストが舌打ちをした。
「あの馬鹿鳥!」
「術?」
「わたしには、よく分かりませんが、それ以来、あのように」
「リジナ、カシスが、ごみに眠りの術をかけた」
後ろから、テオドールがリジナの髪を梳きながら、話しかけた。
セパが体を強張らせた。双子がリジナに隠れつつ、睨みつけているからだ。
「眠りの術」
「もともと、結界系が得意なんだよ、カシスは。召喚も、肉体強化も、全然、駄目」
「カシスでも、解けるかな? かなり乱雑になっていた」
相談し合う双子をファウストが複雑な表情で見つめた。
「お前達、分かってなら言え」
「なぜ、お前に言わなくちゃならない」
「リジナ、こいつ、うるさい」
殊勝な顔で双子はリジナの後ろに隠れた。
リジナは眉を下げて、双子を叱った。
「リチャード、テオドール。言ってくれないと、困る」
「うん、次はきちんと言う。でも、リジナ。問題は、あのごみ、起きないかもしれないってこと」
「マリオが寝たままってこと?!」
「そう。カシスがかけた眠りの術は、生命活動を極端に低下させる。あの女の奴隷になるって思い込んだせい。あの女のものになるならと、死んだように眠らせることを選んだ」
カシスは小さな子供の姿をしているが過激だ。マリオの声を奪ったこともある。
パリアの奴隷になるくらいなら、目覚めなくてもいい。そう思ってしまったのか。
「分からないでもない。私でも、そうする」
「リチャード」
「でも、カシスは馬鹿だ。動揺が術にも反映して、ぼくらでも手がつけられないぐらい術が歪んでいる」
「カシスは、どこにいるんでしょうか?」
リジナはセパに尋ねた。
「分かりません。どこかに、行ってしまって」
「カシスがいなければ、解けない術なのだろう? どうするんだ」
「カシス解けるかどうかも、謎」
「リジナ、きちんと呼吸をして」
ファウストに呼びかけられ、リジナは詰めていた息を一気に吐き出した。
起きなければ、ずっと眠ったままのマリオを見続けなくちゃいけないのだろうか。
いやと首を振る。カシスならば、解けるかもしれないのだ。だが、なぜ、側にいないのか。それこそ、解けないという証明ではないのか。不安が膨れ、腹を突き破り、飛び出してしまいそうだ。
「カシスを見つけにいかなくちゃ」
「ええ、マリオにかけた術をなにがなんでも解かせなければ」
がちゃんと鈍い音とともに、鉄格子の錠が外れた。セパが、静かに後ずさる。
ファウストがセドを立たせ、鉄格子から出た。リジナもそれに続く。
「マリオ様は、ここにはおられません。王城に向かわれました。そこで、パリア様と結婚式を挙げられます」
「……結婚式」
リジナは無意識に指を見つめた。
明日だと、声を荒らげていたパリア。
マリオとするはずだった結婚。なぜ、パリアとすることに?
悔しい。憎たらしい。負の感情がリジナの心を汚した。マリオを薬で思い通りにしようと考えたパリアに、怒りが湧いてくる。
正気を失い、獣心に支配された彼女に、なぜ、マリオとの結婚を譲らねばならないのか。
「リチャード、テオドール。カシスを探して欲しい。私は、マリオとパリア様の結婚を壊しに行ってくる」
目を瞠る双子の頬を撫でる。
決意が心の中で松明のように燃えていた。怒りと悔しさがまじり、よく分からない感情が、体を巡っていた。リジナにとっては、その感情が血だった。
ファウストは、面白そうに口端を上げて、セドに向き直った。
「お前も、双子とカシスを探しに行け。僕はいくらでも、リジナにお付き合いしますよ」
どうやら、ファウストはリジナとともにマリオの元に向かうらしい。リジナは頷き、双子を見上げた。
不愉快だと、双子の表情は語っていた。
リジナについて行きたいらしい。
「二人がきちんとカシスを見つけ出せたら、二人が好きな本を朗読する。膝枕付き」
双子の瞳がきらりと輝いた。
この間、双子が、こっそり読んでいた本を見つけてしまった。
貴族の夫人と執事の禁断の恋の話だった。愛人になりたいと言い出したのは、その本の影響に違いない。
双子は読書家だ。二人の部屋は四方が本棚で埋め尽くされている。
「本当?」
「嘘じゃない?」
「うん。だめ?」
双子はきらきらした目のまま、ぶんぶんと首を振った。
「すぐ探してくる」
「カシスの居場所なんて、簡単に見つける」
双子の頭に手を伸ばし撫でる。
双子の主でよかったと思う。普通の令嬢だったら、なにも出来ないと絶望して諦めていた。
「尊きお方、お許し下さい」
セパは祈るような懸命な眼差しでリジナへ跪いた。
「パリア様が正気をなくされたのは我々にも原因がございます。あの方の苦悩をお慰めすることができなかった」
「……パリア様は、何に苦悩していらしたの?」
「自分が、心底醜い容貌をしていると。この顔では、誰も娶ってはくれないだろうと思っていらしゃいました」
リジナは驚いた。
行き遅れではあるだなとは思っていたが、パリアのことを醜悪だとは思っていなかったからだ。
ファウストは、嘲笑するように、鼻を鳴らした。セパが具合が悪そうに、視線をさまよわせた。
「ファウスト?」
「同情する必要はありませんよ。リジナ。己の容貌を気にする人間は二通りあります。本当に自分の容貌を恥じているものと、虚勢を張り、羞恥を抱くもの。後者は、他人の美醜にも、熱心だ」
なあとファウストは威圧的ない眼差しでセパを見遣った。
「 王の妹に縁談が舞い込んでこないはずがない。でも、パリアは顔がいい男が好きですからね?」
「……ファウスト」
「マリオの肖像を、大事に飾っているところから、パリアの好みがわかろうというものです。別に美形好きが悪いとはいいません。だが、自己憐憫ごっこは、国政や国益と関係ないところでやっていただきたいものです」
パリアは、自分を醜い、醜いと言いながら、高望みし、相手を嫌だと突っぱねていたということだろうか。
セパは青ざめて、申し訳ありませんと謝った。
セパにしてみれば、主人を庇っただけだ。
しかし、マリオへの仕打ちは許されるものではない。
「ごめんなさい。パリア様に同情はできない」
「……はい。我が主が申し訳ありません」
セパは頭を深々と下げて、謝罪した。
リジナとファウストは、魔術師達と別れ、セパに用意して貰った馬車に乗り込み、王城を目指した。