少年④
この部屋は病院にある一部屋、つまり病室であるということを『先生』に教えられた。
『先生』というのは、俺が目覚めた際に話しかけてきた女性で、和香という名前らしい。
先生の専門はメンタルケアであり、特にこの病院は俺のようなワケアリな人が入院する病院らしく、精神面をサポートするエキスパート達が集まっている、国営の精神病院なのだそうだ。
先生の話によると、彼女はどうやらその中でもかなりの上役に当たるらしく、現在の担当は俺だけ…らしい。
そもそも、かなりの特殊な患者が来ない限りは、基本的にデスクワークばかりなのだとか…
つまり、そんな彼女が俺の主治医になったということは、それだけ俺が特殊な患者だということになる…
俺の何がそんなに特殊なのかというと…
一般的にはありえない事実であった。
「落ち着いて聞いてね? 結論から言うと、君はこの世に生まれていないことになっているみたいなの」
信じられるだろうか?
俺自身は間違いなく、この世に、この場所に、確かに存在しているのに。
いきなり存在していませんなんて言われて落ち着いていられるわけもなく…
「じゃあ…俺は一体何なんですか!? 何のために俺は―――」
「だから落ち着きなさいって言ったでしょうに…ちゃんと説明してあげるから、まずは黙ってしっかり私の話を聞きなさい? 取り乱すのはその後でいくらでも出来るわよ」
取り乱した俺の言葉を遮る先生。
俺はやり場のない怒りに悶々としながらも先生の話に耳を傾けた。
「まずは君の置かれている状況からだけれど―――」
先生が大まかに分かりやすく説明してくれた内容によると、俺が存在しないことになっているという理由は単純なことだった。
俺の両親…と言っていいのかすらも定かではないが、つまり俺を産み落とした人が行政に出生届を提出しておらず、なおかつ定期健診等の通院も一切していなかったかららしい。
それを聞いた俺は、特に落ち込むというわけでもなく、むしろ色々と腑に落ちて逆に落ち着いてしまったくらいだった。
「ホントに酷い話よ… 君の周りを調べてみて、正直言葉を無くしたわ…」
和香先生はそう言うと、沈痛な面持ちで俺を見据えた。
どす黒い感情と不安が頭の中を駆け巡り俺の心を陰鬱に支配していく。
「俺は…これからどうなるんですか……?」
つい溜まらず、そんなことを聞いてしまった。
俺はこれから先どうしたらいいのだろう?
そもそも、存在を認められていない俺に先なんてあるのだろうか?
どんどん碌でもないことばかり考えていると、俺は自分が震えていることに気付き、体育座りになって縮こまる。
自分の殻に閉じ籠ろうと顔を伏せたその時…
俺の身体を優しく包み込むように、先生が俺を抱きしめてくれた…
「大丈夫よ… 君は心配しなくていい。私に任せなさい… ね?」
先生から発せられた言葉を聞いた瞬間、俺は何故か泣いてしまった。
嗚咽を漏らしながらただ泣き続ける俺の背中を、子供をあやす母親のように、ずっと擦ってくれていた。
今まで俺は、人と接したとしても痛みや苦痛しか与えられてこなかった。
だが、今俺が与えられているこれは何なのだろう?
温かい人間のぬくもり。
女性特有の柔らかな感触。
鼻をくすぐる優しい香り。
一度も向けられたことのない慈しみ?
どれをとっても、今までに経験したことないものだった。
痛くて、辛くて、苦しくて泣いているわけではない。
なんで俺は泣いているんだろう?
「今までよく頑張ってきたね… 間違いなく君は強い子だよ。私が保証する。もう我慢しなくてもいいの。これからはしっかり私達大人を頼って甘えなさい」
あぁそうか…
もう、我慢しなくてもいいんだ…
そう自覚してからの俺の涙はもう止まらなかった。
涙と鼻水で酷い顔だっただろうに、先生はそれでもずっと頷きながら俺の背中を撫で続ける。
色々と救われた気がした。
いや、実際に救われたのだろう。
きっとこの涙はそういうことなんだ。
今はまだこの感情が何なのか分からないけど、ここで過ごしていくうちにきっと理解出来るようになるのだろう。
心からそう思えるほど、先生は温かかった。
もう少しこの外伝続きます;