第一節 目覚め
自分の記憶喪失を知り、彩音との日常。
「ちゃんとこぼさず飲み込んでくださいね。」
そう言いながら、手拭で布団の染みを拭き取っている白い女性は、私専属の看護士らしい。私とまだあんまり歳の変わらない彼女は、意外と丁寧に仕事ができる優秀な人のようだ。
「はい、口を開いてください。」
彼女は小さなスプーンにスープらしきものを掬って、ゆっくりそれを私の口に近づき、笑顔のまま私を見つめていた。私は彼女に合わせて、今度口を大きく開けた。そしてスプーンは私の口に入り、私が口を閉じた後、「スープ」を残して、ゆっくり口から抜かれていた。
「は~い、よく出来ました。」
彼女はとってもゆっくり話す人のようだが、私はそれが少し慣れない。その上に、同い年の彼女に子ども扱いされているようで、ちょっと嫌だ。
「では、は~い。もう一度口を開けて。」
そう言って、彼女はまたスプーンに「スープ」を掬って、私の唇につついて、また食べさせようとした。私は少し不快な気分になって、敢えて逆方向に顔をずらした。
「うん?あはは、どうしたの?機嫌悪いの?」
彼女は何故か少し楽しそうな声を出して、顔を傾いて、私の顔を覗こうとした。私はそれに気づいて、彼女に「嫌」と伝える為、彼女の顔を見てしゃべろうとした。
「...」
初めて人に話をしようとしたから、少し恥ずかしくなって、彼女を直視できないまま、顔を少々埋めてしまってしゃべったが、うまく声を出せなかった。
そんな私を見て、彼女はスプーンを戻して、腰を低くして、私の顔を覗きこんで、「何かして欲しい事があれば、恥ずかしがらずに言っていいのよ。」と彼女が言った。
私は別にそれに元気つけられたわけじゃないが、勇気を出して、「嫌」と言おうとしたが...
「あ、忘れてた。」
いきなり、私の言葉は彼女の声に邪魔された!
彼女は自分のポケットから一つ指輪を取り出して、さらに私の左手をとって、小指に指輪を嵌めた。
「貴女の願いが叶いますように。」そう彼女は小声って言った。
彼女の行動に戸惑い、言おうとした言葉を言えずに、ぼーっと嵌められた指輪を見つめていた。
小さな水色の石がつけられている指輪だ、凄く高価なものらしい。
「え、」
私は驚いて、彼女の指輪に指差しながら、「ええーっ」と言った。
意味が分からない。私の言葉も、彼女の行動も...
「ぷっ、慌てじゃって可愛い」と彼女は笑った。「大丈夫よ。これは元々ナナちゃんのものだから、付けてていいのよ。」
私の?
そうなのか...
そうだな。違和感もなく、びったりに嵌めていた。
「さあ、これで言いたい事を存分に言っていいのよ。」と彼女は嬉しそうに言った。
そんな彼女を見て、私はふっと感じだ疑問を口に出した。
「あなたはだれ?」
彼女は一瞬動きが止まって、すぐ申し訳なさそうな顔で、「ごめん。自己紹介してなかったね」と言った。
「私は彩音、冴塚 彩音、よろしくね、ナナちゃん。」
そう言いながら、冴塚さんは服に付けていたネームブレードを私に見せる為、胸を私の目の前に近づいた。
冴塚、「あやねさん。」
少しドキドキしたが、その名前に馴染んでいたような気がする。
「うん。そうだよ。でも、あやねーちゃんの方がいいので、あやねーちゃんと呼んでくれる?」
彩音さんは少し図々しいところがあるようだ。
「あやねさん、」私は彩音さんの言葉を無視して、自分の聞きたい事を続けた。「わたしはだれ?」
「あやねーちゃん」と呼ばれなくてムッとしていた彩音さんは、いきなり目を大きく開いて私を見た。
綺麗な水色の両目に私は違和感を感じていた。まるで初めて見たように、その瞳を見つめていた。
「ごめんね、ナナちゃん。ちょっと待てって...」そう言って、彼女は悲しそうな顔で椅子から離れ、扉近くの電話に手を伸ばした。
ナナちゃん...
それが私の名前なのか。
彩音さんは電話の向こうの誰かさんと話していた。私に聞こえないように、とても小さな声で...
「先生、ナナちゃんが、自分が誰なのか解らないみたいです。」
「記憶喪失!そんな!まだこんなにも小さいのに?」
「それはそうですけど...」
「はい、はい、はい...」
電話向こうから何も聞こえないけれど、何故か彼女の声がよく聞こえてくる。
記憶喪失か...やはり思った通りだな。
「わかりました。」
彩音さんは電話を切って、椅子に座って、真剣な顔で私に見つめていた。
「ナナちゃん...落ち着いて話を聞いて欲しい。実は、ナナちゃんは...」
「きおくそうしつ。」私は彼女のしゃべり方に苛ついて、彼女の言葉を遮った。
「えっ」彩音さんは私の言葉に驚かせて、オドオドしていた。「あっ、そ、そうなのです。」
一回深呼吸して、彩音さんはまっすぐ私を見つめた。
「貴女は記憶をなくしてしまいました。貴女の名前は守澄もりすみ 奈苗ななえです。今年は14歳です。」
とても優しい声で、彼女は言った。
私の名前は守澄奈苗、14歳。
14歳?
「あやねーさんはいくつ?」
自分が感じた違和感がいきなり大きくなり、私は深く考えずに失礼な質問を口にした。
「落ち着いてください。」そう言って、私の両肩を押さえ、ベッドに座らせた後、ベッドにつけてた机から、ご飯を下げた。
自分では気づけなかったが、先の私は立ち上がろうとして、机にぶつけたらしい。痛みに気づけないほど驚いたようだ。
「あやねーちゃんは今年21歳だよ。」
うっかり「あやねーさん」と言ったからが、歳を教えたついでに「訂正」した彩音さん。
そんな彩音さんは21歳で、私はただの14歳...
何故私は彼女と同い年だと思ったんだろう。
「かがみ。」
私は鏡を欲しくなった。今回は理解する事を拒んだ。
「かがみ!」
動かなかった彼女に、私は大きな声で催促した。そしたら、彼女はベッド横の手鏡を私に差し出した。
「ちがう!ぜんしんうつせるやつ。」
私は怒った顔を見せた。無意識に両手を上下に振るったが、今度は気にしない。
少し恥ずかしい...
そんな私を見て、彩音さんは「はいっ」と言って外に駆け出したが、一分もかからない内に姿見を押してきた。
私はベッドから降りようと「ベッドの机」を前に押してみたが、机が重くて動かせなかった。
「ああぁ、あんまり力を入れないで。」彩音さんは私の両手を軽く握り、机から外した後、代わりに机を動かした。
「まだ目覚めたばかりだから、無理しないで。」
私の体を起こして、ベッドに座らせてから、姿見を私の目の前に動かした。
その姿見に映されたのは、まだあどけなさが消えていない少女の姿だった。
そうか...
私はまだ14歳の少女だったのか...
両手で長い白い髪を握って、ツインテールに変えたら、その姿がとても懐かしい。
思い出した...これが私だ。
これが私なのか?本当に思い出したのか。
手を髪から外して、私は彩音さんを暫し見つめた。彩音さんは何も言わずに、微笑を浮かびながら私に見られていた。
白い服に白い帽子、胸の辺りにネームブレードをつけていた、栗色の短髪の年上の女性...
私は彼女を...
「あやねーちゃん...」
っと、ずっと呼んでいた。
「っ、はい!」
あやねーちゃんと呼ばれて、彼女はとても嬉しそうな声で返事した。
そして、「どした?うん?何でも言っていいのよ!」と鬱陶しく寄ってきたが、それがいつもの私たちの距離だと気づき、くすぐったい気分だが、我慢する事にした。
「おなかすいた。」
「あ、はいはい、おなかすいたねぇ。じゃ、ベッドに戻ろっか。」
あやねーちゃんにベッドへ戻されてから、あっという間に最初の状態に戻っていた。
「は~い、口を開けて~」
そう言って、あやねーちゃんは楽しそうに再び、私を「餌付け」し始めた。それに素直に甘えて、私も口を開いた。
そういえば、ずっと変と思っていたこの言葉遣いは、今の私の歳相応な言葉遣いだろう。けど、少しつづ直していかないと、きっとみんなにあやねーちゃんと同じように子供扱いされるだろう。
うん!
直していこう。