尸の魔女と蝿の王
エンジニアの仕事は、シジルを刻むだけではない。人間が使った物には魂が宿るといわれているように、既に外に出回っている物が何らかの支障をきたした時、それに対処するのも彼らの仕事なのだ。
「叡空はいるか?」
親方の言葉に返事は無かった。代わりに褐色の肌に、はねた漆黒の髪、血が滲んだような赤い瞳を持つ男性が姿を現した。その腕や手首、胴や腰の辺りなどに鎖が巻かれている。
「エアならここにはいないぜ」
「仕事の依頼が来ているんだ。悪いが、探してもらえないか?」
「ああ、わかったよ」
男性は町の時計塔の天辺にするする登っていき、その先端に器用に立ち上がった。
「さてと、んじゃ始めるか」
彼は一度目を閉じ、意識を集中し始めた。体中に散らばっていた気を一つにまとめる。再び開けた彼の瞳が、血色に輝きを放った。
と、彼の脳裏に様々な情勢が飛び込んできた。満員電車に無理に乗ろうとする人々、スーパーで買い物を済ませた主婦の井戸端会議、部活動から帰ってきたらしい高校生、行き交う車、路地裏で眠る猫、飼い主と嬉しそうに散歩する犬……。これらは全て、ここ黒神里の町で今現在起きていることなのだ。
この情報を送ってきているのは、彼の手下の……蝿達である。だが、叡空の姿はまだ見つからない。男は思い当たる場所を一つずつ“見ていく”。
黒神里の駅、叡空がよく行く和菓子屋、家の近くの道路。
(ここにもいねーのか。ってことは、考えられるのはあそこだな)
蝿の王は、まるで指揮でもするかのように指先を静かに動かし始めた。いくつも“見えた”光景が、一つだけになる。町の中央図書館が見えたが、それでも叡空の姿は見当たらない。彼は指で正面を差す。見えていた画像が、ビデオテープを回しているかのように動き出した。彼の指示通りに“部下”が動き、店内に入っていったのだ。
(虫嫌いな奴にあったら終わりだぜ。なんせ人間ときたら、虫ってだけで嫌がって殺虫剤とか巻いたり、虫叩きで攻撃してきたりするからなァ)
人間に見つからないよう、彼は手下の蝿をできるだけ高い位置に飛ばした。蛍光灯にぶつからないよう気を付ける。ある程度行った所で、黒い物体が目に入ってきた。それは、蝿にとっては巨大な壁のようなものだった。
「何だこりゃ?」
暫く不規則にその物体の周辺を飛び回る。これも全て、蝿の王である彼が操作しているのである。
(もうちょいバック。ああ、行き過ぎた。若干前に進め)
蝿に指令を送るのは、案外大変なものだ。酷い時には、一度に数百以上も操らなくてはならない。おまけに、他の虫や動物に捕食されたり、人間に鬼のような形相で狙い撃ちにされたりと、簡単そうに見えて難しいのが、彼のこの能力だ。一番厄介なのは、やはりクモの巣であろう。
やがて、彼の映像に一人の女性が映った。積み重なった本の前にいる彼女こそ、彼が探していた人物だった。彼女の名は烏羽叡空。年齢はまだ20歳と若く、その身分も見習い工である。黒髪に黒目といった典型的な日本人らしい顔立ちをしており、赤と黒を基調とした衣服に身を包んでいる。その肩には、蝿の姿をしたメカが乗っていた。
エアは真剣な顔をしながら本を読みふけっていた。彼が遣わした蝿の使いには全く気が付いていないようだ。
「エアーッッッ!」
「何だね?図書館ではお静かに…ってご主人さん?」
ようやくその存在に気付いたエアは、一瞬で事の次第を理解した。
「ってことは、依頼が来たんだ?」
「そういうことだ。早く身支度して指定の場所へ向かえ」
「急ぐのなら、良い方法がありますよ」
エアの近くに、白いローブを着た中性的な顔立ちの男性がやってきた。美しい銀髪を綺麗に束ね、その動きは非常に優雅なものだった。
彼の名前はアシル・ファルギエールという。 魔神や悪魔に関する書物に詳しい学者のフランス人で、魔神や悪魔に関する書物を収集し、羽続市の特別書架に配架する仕事を担っている。ありとあらゆる書物を読んでいるため、魔神に関する知識以外にも精通している。そのため、魔法エンジニアたちからは頼りにされており、度々相談役も務めている。
「アシルさん!良い方法って何ですか?」
エアがそういうと、アシルは腰から鎖で下げていた一冊の本を取りだした。本には鍵が掛かっており、アシルがそれを開けると、静かににこう呟いた。
「バティンよ。我が命に応え、今こそ姿を現したまえ」
蛇の尾を持つ人が、青い馬に跨って現れた。その顔は非常に穏やかであり、とても魔神だとは思えなかった。
「バティン、エアさんを指定の場所に運んでおくれ」
「畏まりました」
バティンはエアを自分の後ろに乗せると、颯爽と馬を走らせた。あらゆる障害物を無視して移動できるその能力のおかげで。エアはあっという間に言われた場所までやってきた。
ここは。市立羽続高校。依頼の主は、この高校の弓道部の女子高生からだった。話によると、勝手に矢が飛んで部室に入れなくなっているらしい。装魔具は。エンジニアが描き込んで作り出した物のことだけでなく、人間の思念によって生み出された物のこともいう。今回のケースはどうやら後者のようだ。
部室へと向かったエアは、何も考えずに扉を開けようとした。すると、ドアの近くに「開けるな。絶対に開けるな」と書かれていた。途方に暮れていると、褐色の肌の男性がやってきた。
「あ、ご主人さん」
「何やってんだエア。そんなもの、簡単に開くだろう」
「ちょっと待って。お兄さん!」
エアが制止するのも聞かず、彼は扉を蹴り飛ばした。ドアは勢いよく飛び、宙を舞ったかと思うと、激しい音と共に地面に激突した。
「なんて脆いんだ。人間界のドアは脆すぎるぜ」
「君の脚力が強すぎるんだ!というか、開けるなって書いてあったじゃないか!?」
「絶対に開けるなっていうのは、開けて良いってことだろうが」
そう言って、褐色の男性はエアに一冊の本を差し出した。
「この人間界攻略必勝マニュアルに、絶対に押すなよと言われたら押してもいいという合図だと書いてあったんだぞ」
一体誰がそんなことを書いたのだろうか。魔界の人間研究はどうなっているのか、と色々と突っ込みたかったエアだったが、今回の依頼の件を片づける方が先決だと感じた。
部屋の中は至って静かだった。だが、エアが足を一歩踏み入れた途端、無数の矢がこちらへ向かって飛んできた。とっさに部屋の外へと飛び出したので、大事には至らなかったようだ。
「まずは矢を何とかしようか」
エアは万年筆のカートリッジを取り出し、持っていた万年筆にセットした。カートリッジには【ミュリン】と彫られていた。エアは万年筆を擦り、そのキャップを外した。一滴のインクが地面に滴り落ち、そこに魔法陣が現れる。
黒髪を一つに束ね、和服に身を包んだ魔神が姿を現した。
「あっしを呼び出すとは何用で?」
「矢が邪魔で室内に入れない。何とか叩き落してほしいんだ」
ミュリンはこくりと頷くと、腰の鞘から太刀を抜いた。そして、目にも留まらぬ速さで矢を次々と斬り落としていく。全ての矢に飛ぶ力がなくなったのを確認すると、ミュリンは先ほど出現した魔法円陣の中へと消えていった。
部屋の中には、銀色の服に弓矢を手にした狩人が立っていた。これこそ、今回の事件を引き起こした張本人である。
「レライエか」
褐色の男性が呟いた。その名を言われた魔神は、問答無用で襲いかかってきた。その矢による傷は、不治のものとすることできる能力を持つレライエ。褐色の男性は、エアに目配せした。エアは静かに頷く。
「ベール!」
褐色の男性…もとい、蝿の王ベルゼブルは、黒い気へと姿を変え、エアの黒い衣装となって身に纏われた。漆黒の衣を纏ったエアの姿は、異形のものへと変わった。頭に髑髏の髪飾りをつけ、黒いコートが全身を覆う。また、手には鉾を持っていた。
「ふぇっふぇっふぇ…それじゃあ、行くとするかね」
レライエが放つ弓矢を凄まじい速さでかわし、鉾の一撃を浴びせる。数回攻撃を当てると、レライエの身体から銀色の糸のようなものが飛び出ているのが見えた。
「シルバーコードだ」
その糸は、今回の件を依頼してきた女子高校生とは別の人物と繋がっていた。エアはそれを何の迷いもなく断ち切った。
すると、レライエの動きが止まった。その隙をつき、ベルゼブルはエアの身体から離れ、レライエを抑え込んだ。エアはすぐさま魔法陣を描き始めた。手早く魔法陣を完成させると、レライエをそこへと鎮める。
今まであったことが嘘のように、辺りは静まり返っていた。部室が解放された後、エアはシルバーコードの主に尋ねた。
「あの部室に何かあったんですか?」
その女子高生は何も言いたくなさそうだったが、事件を引き起こすきっかけを作ったのが自分にあったと気づくと、しぶしぶ口を開いた。
「部長にSNSの返事をするのが遅くなって…。そしたら、無視されるようになってしまって。部活に行きたくなくなったんです」
「そうだったんですか」
どうやらそれが原因のようだった。レライエは彼女の気持ちに反応し、誰も部室に入れないようにしていたのだった。
「ベール、頼みがあるんだけど」
エアは蝿の王に頼んで、SNSのことに関する記憶を消してもらうことにした。そうすれば、全てが元通りになると考えたからである。
依頼が片付き、エアとベルゼブルは時計塔の上に来ていた。町を見下ろしながら、エアは小さく笑った。
「人間って複雑だね。一人じゃ生きられないのに、必ず誰かを傷つけている」
「それが人間ってもんさ」
蝿の王ベルゼブルの力を身に纏うエアは、巷では【尸の魔女】と呼ばれていた。
尸の魔女と蝿の王、この二人にかかればこなせない依頼などない。
さて、次はどんな人間の性を見るのだろうか…。
今回の報告書
修復したシジル:レライエ
三〇の軍団を率いており、銀色の服に弓矢を手にした狩人の姿で現れるという。
闘争と勝利を司る。彼が射った矢による傷は、彼自身が望めば治すことも不治にすることも可能。