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夢の棺  作者: 柴谷れな
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ティカナ もうひとり

 ティカナの母親は忙しすぎて、顔を会わせるのもままならない。アンドゥは今も灰色のままで、言葉もへたくそ。教室のモニターでは子供たちの順番が上がったり、下がったり。もちろん誰も気にしちゃいない。正しいことばかり気にしているでっかい胸のレイリは、相変わらず学校中に睨みをきかせている。つまり、何にも変わっちゃいないということだ。

 ただひとつ、クリオがいないことを除けばね。

 ジューの姿を、あれからティカナはとうとう一度も見ることができないまま。ジューはとっくにこの街から出て行ったのかも知れない。

 こうして秋が来て、冬が来て、春がすぎ、ティカナの十三才の誕生日も終わって、また夏嵐の季節。


 ティカナはその日、一睡も出来ずに、とうとう休日の朝を迎える。ベッドに横になって本を読んでも、全然眠れなかった。こんなことは初めてだ。いつもなら、どんなに起きていようとしたって、できっこなかったのだから。


 やがて母親は勤め先に出かけ、ティカナは彼女の部屋のベッドでひとりっきりになった。

 ティカナは、彼女の日記に、その時のことを、小説のように記している。男の子の一人称で、それは十三歳の少女にしてはかなり大人びた文体かもしれない。


 ・・・・・・・・・・・・・・・


 ぼくが何より恐ろしかったのは、目覚めている間中、考えることが何もないってことだけしか考えられなかったことだ。本なんて、ちっとも頭に入ってこなかった。

 ぼくはひとりぼっちだった。たとえ誰かがそばにいてくれたとしても、ひとりぼっちだった。なぜなら、誰も助けることなんて出来っこなかったからだ。助けようにも、何から助けたらいいのか、さっぱりわからないに違いなかった。ただ、むやみやたらと恐ろしくて、泣くことさえもできなかった。

 ついに、ぼくの頭の中で何かが爆発した。まるで脳ミソにいちどきに電気が走ったような、短いけれど、強いショックが走った。

 すると急に、ぼくは誰かに見られていることに気がついた。それはとても冷たい視線だった。確かに誰かがベッドの横に立っていた。

 ぼくは恐ろしくて、顔を上げることもできなかった。ただその視線が気になって、とうとう考えることができないっていうことさえも、考えることができなくなった。こみ上げてくるのは、恐ろしさと不安だけだった。

 ベッドの横に立っているのは、ぼく自身だった。無言で見つめるだけの、感情のないぼくだ。ぼくは冷たく観察するもう一人のぼくの影に怯えきっていた。

「大丈夫。大丈夫」

と、ぼくは何度も呟いた。

 それから、分身を見ないように気をつけながら、ぼくはベッドから下りた。何かしないと、このまま気が違ってしまいそうで恐ろしかったからだ。

 パジャマを脱いで着替えると、ぼくは部屋を出た。それから廊下を歩き、階段を下りた。足の裏の感触も、目に映る景色も、まるで他人事のように感じられた。もうひとりのぼくが、その間中ずっと後ろにいるのだ。

 心臓の鼓動のたびに、頭がびくんびくんと動くのを感じながら、ぼくは外に出た。それからやみくもに歩き続けた。とにかく歩き続けないと、このまま自分の心がばらばらになってしまいそうな気がしてしょうがなかった。

「大丈夫。ぼくは大丈夫」

呪文のように言いながら、ぼくは歩いた。後を無表情な分身がついてくるのがわかった。

 何処をどう歩こうなんて、あてなんてなかった。ただ、歩くことで、ようやく自分をひとつにまとめていられた。

 狭い路地から広い通りに出て、まわりを見まわせる陸橋の上で風に吹かれると、気分もいくらか落ち着いてきた。それから、どんどん歩いて、だんだんと不安が消えていった。

 不安や恐怖が消えたから、もう一人のぼくが消えたのか、それとも分身がいなくなったから、不安や恐怖が消えたのか、ぼくにはよくわからない。


 ・・・・・・・・・・・・・・・


 気がつくと、ティカナは、南の森の入り口に立っていたようだ。それから彼女は、南の森屋敷に通じる小道に足を踏み入れた。想像もできないほどの無数の落葉が積もった、ふかふかの小道だ。

 クリオと一緒にチョコレートキックを飲み、あの誰のものともしれない焦げたパンの味がする心の声を聞いて以来、ティカナは一度も南の森屋敷を訪れてはいなかった。その日もティカナは南の森屋敷の入口を見るだけで、そのまま引き返すつもりでいたようだ。彼女を闇雲に歩き回らせていた不安と恐怖も、もうすっかり消えてしまっていたのだ。

 左右の森の木がとぎれて、屋敷前の狭い庭に出ると、ティカナは足を止めた。

「ジュー!」

思わず叫んでしまい、ティカナは木の影に急いで身を隠した。ジューは南の森屋敷の扉のノブから手を離した。それから黒いマントを大きく翻すと、後ろを振り向く。まるで鎧武者のような、俊敏で堂々とした身のこなしだ。

 頭巾の中の顔をティカナが見たのかどうかわからない。彼女はその場で気を失って倒れてしまった。


 やがて清潔なシーツにくるまれて、ティカナは目を覚ました。ベッドの横のカーテンが揺れている。消毒液の匂いがする。彼女はもう一度目を閉じる。

 ニ度目にティカナが目を覚ますと、窓から差し込んでくる光もいくらか長くなっていた。上体を起こす。左腕から黄色い管が伸びているのがわかる。

 ドアが開き、診察着姿のヤブブが入ってきた。ヤブブはティカナを見ると、ちょっと笑う。

「ちょうど、点滴が終わったところだよ」

 ヤブブは点滴の管のホールドを解き、ティカナの腕から針を抜く。それから絆創膏を貼りつけると、ベッドの横に腰かける。

「貧血を起こしたんだね。心配はいらない。もう少し休んでいなさい。わしが送っていくよ」

「ママは?」

ティカナが訊ねる。

「お母さんには連絡しておいたよ。迎えにくるといっておったが、それにはおよばずじゃ。わしが送っていこう。ここからおまえさんの家は近い。それに、今日は休日で午前中で診察は終わっとる。お母さんも忙しいからな。だが、きっと今日は早く帰ってくるよ」

ヤブブがティカナの頬を手の甲でやさしく撫でる。

「誰がティを、ここに?」

ティカナが訊ねると、ヤブブはニッコリして立ち上がる。それから手で待つようにと合図をすると、部屋から出ていった。

 ティカナは体を倒して、もう一度横になる。するとすぐに部屋の扉が開く。

「たいしたことなくて、良かったね」

ティカナが扉の方を見る。アンドゥがにこにこしながら立っている。

「やっぱりそうか。おまえ」

「びっくりだよ。あほい顔してさ。ふらふら出かけるんだもの。ティカナ」

「誰があほい顔なんだ」

ティカナは小声でそう云うと、ほっとしたように笑う。

「でもさ。話しかけても、全然聞こえてないみたいでさ。ぼくのこと、ぶししちゃって。そいでさ。最後に倒れちゃうんだもの」

アンドゥは窓枠にひょいと飛び乗り、腰かけた。

「ねえ、誰かいなかった? ティが倒れた時だけど」

ティカナが訊ねた。

「南の森で?」

窓から射し込む夕陽の中で、灰色のアンドゥの顔は、ティカナからはまっ黒に見えた。

「大丈夫だよ。誰も見てなかったよ。ティカナの倒れたとこなんて、さ。・・・それより」

アンドゥは両足をぶらぶらさせて、かかとで白い壁をこつこつと叩く。

「あすこは不思議なとこだねえ、ティカナ。あの古い屋敷、鴉だらけだったよ。まわり中さ。まっ黒い・・・」


 ティカナとアンドゥがヤブブの車を家の前で降りた時、透明な夕焼けがすっかりあたりを染めていた。

「今日は早く寝た方がいいよ。ティム」

ヤブブが車の中から声をかける。

「明日も学校はお休みだろう? 今晩、一度おじゃまするよ。お母さんにお話もあるしね。そう伝えといとくれ。じゃあ、ゆっくりとお休み。ティム」

 ヤブブはちょっと手を上げると、幾度か切り返してUターンし、トンブゥ坂の頂上近くにある医院へ帰っていった。

「おまえ。今日のティの様子、ヤブブに話したの?」

車を見送りながら、ティカナがアンドゥに訊ねた。

「うん。訊かれたことはね。全部」

「全部って、・・・全部?」

「そうだよ。全部だよ」

アンドゥが当然のように云うと、ティカナは大きくため息をついた。


 それから二人は玄関のステップを上がる。扉の前で、

「おまえ。どうにかなってない?」

ティカナは不意に立ち止まり、アンドゥの体をしげしげと眺める。

「大丈夫さ。ティカナ」

アンドゥが応えた。

「だって、今日のは、いたずらなんかじゃなくて、病気だったんだもの」

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