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夢の棺  作者: 柴谷れな
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半魚人の店

 半魚人の店の風変わりなところは、マスターとチョコレートキックだけじゃない。店内のいたるところの、―たとえばメニューや、時計やカレンダーの文字や数字が全て逆さま、と云うより前と後ろがひっくり返っている。だけど半魚人の店ではこれで十分に役に立つ。店内の壁という壁、テーブルというテーブルが鏡で覆われているからだ。読めない変てこな字があったら反対側の鏡を見ればいい。たちまちちゃんと読めてしまうしかけだ。

 店はそんなに広くはない。たぶんね。鏡の迷路がじゃまをして、大きさもレイアウトもまるでわからないけれど。青い照明が鏡にえて、訪れた客をまるで深海魚にでもなったような気分にさせた。

 ティカナとクリオは、店内の鏡の迷路でさんざん迷い、ようやく半漁人のマスターのいるカウンターに辿り着いた。それから二人は金属の細い足が長すぎる背の高い丸椅子によじ登り、並んで座る。


 半魚人の店のマスターは本当に半魚人みたいな顔をしている。頭が前と後ろに長くて、細い顔の両側の丸い目玉が右と左を向いている。それに青いあご髭はまるでむなびれのようだ。そのむなびれをゆらゆらさせながら、マスターはカウンターの中を右や左へうろつき回る。まるで水槽の中のナポレオンフィッシュのように。

「昔はここだって、コレ目当てのガキどもでいっぱいだったんだぜ」

うがいでもするようなぶくぶく声でそう云うと、半漁人のマスターはシェイカーを振り回し始めた。ハンマー投げでもするみたいに見える。それからティカナとクリオの前に置かれた透明なグラスに、できたてのチョコレートキックをどぼどぼと注ぎ込む。たとえ三分の一くらいをグラスの外に注いでしまったとしても、マスターはまるで気にしやしないに違いない。

「たったの五十ポカスでテレパス力者になれるんだぜ。安いもんだぜ」

そう云うと、マスターはギギギギと不思議な発生法で笑い、大きく長い腕をカウンターの上に伸ばす。それから、ティカナの右肩とクリオの左肩を同時に二回叩いた。

 チョコレートキックは、半漁人のマスターが子供たちのためだけに特別に処方する人気のドリンクメニューだ。人気と言っても、半漁人の店を知っている子供なんて、いまやほとんどいない。ティカナだって、彼女とクリオ以外の子供が店にいるのを、まるで見たことが無いのだ。

 チョコレートキックはびっくりするくらい甘い。大人には到底理解できない甘さだ。もちろん子供たちをとりこにしているのは、味なんかじゃない。

 チョコレートキックは子供たちの脳に不思議な作用を及ぼした。何しろこれを飲んでいる間は、子供たちはテレパス力者なのだ。自分以外の人間の心の声を聞くことができるテレパス力者。少なくとも子供たちはそう信じていた。ひっきりなしに、いろいろな声が頭の中に聞こえてくるのだから。

 もっとも、子供たちがテレパス力者でいられるのは、半漁人の店の中だけに限られていた。聞こえる声もまるで気まぐれだから、聞きたいことを選べるわけじゃない。だけど、子供たちが遊ぶには十分すぎる仕掛けには違いない。


「いいか、よく聞けよ。てめえら」

半漁人のマスターは、カウンターに大きな手をどすんとついて、ティカナとクリオに顔を近づけた。それから二人を交互に睨みつけながら、ぶくぶく声を一層泡立てた。

 半漁人のマスターはいつだって下っ端の海賊じみた、乱暴な物言いをする。『自分は海賊に釣られた魚みたいな顔してるくせに』と、ティカナはノートに書いたことがある。

「コイツを飲む前の心得だぜ。先ず、何が聞こえてもBGMだと思え。いいな。それから誰の声だか詮索するな。わかったか。そして、聞いたことは直ぐに忘れろ。忘れるな。忘れろってことを忘れるなってことだぜ。店を出ても覚えていたりしたら、ろくなことにならないぜ。覚悟はいいか!」

 二人が頷くと、半漁人のマスターはたぶん笑ったのかも知れない。むなびれのような顎ひげが大きく数回揺れた。

「コイツは死ぬほど甘いぜ。だが文句は言うな。甘いのにはちゃんとわけがある」

 半漁人のマスターはストローを二人に手渡した。

「心の声には味があるぜ。味は人それぞれだ。跳び上がる程くそ不味い声を聞いたら、いいか、気を失う前にコイツを飲め。直ぐに中和されるぜ」

 半漁人のマスターは片目をつぶってみせた。だけど顔がひらべったすぎて、ウインクだと気付くヤツなんていない筈だ。


―〔お前たち二人だけだぜ。ほかの子供らはこの街からすっかり消えちまった〕

 チョコレートキックをひと口飲むと、直ぐにマスターの声がティカナの頭の中に飛び込んできた。たちまちジンジャーレモンの苦い味が口の中に広がる。マスターの心の声はいつだってジンジャーレモン味だ。

 ティカナはグラスを磨き始めたマスターの背中を見つめてから、隣のクリオに視線を移した。

―〔本当は消えたわけじゃないんだけどね。ティム〕

 クリオにも聞こえたらしい。ティカナの頭の中に声を届けると、クリオは困ったような笑顔を作る。それから肩をすくめて、チョコレートキックをひと口飲む。

 ティカナとクリオ。二人の会話にチョコレートキックの威力は抜群だった。気まぐれな筈の能力が、二人の会話に限って不思議と十分な効果を発揮する。大抵は、頭の中を誰のものとも知れない声が無秩序に往来するだけの筈なのに、二人の場合、お互いの名前を強く念じるだけで、いつだって会話ができてしまう。こんなことって半漁人のマスターでさえ知らないに違いない。

 二人の声の味は甘いチョコレートキックの味そのままだった。


―〔本当に昔は子供たちでいっぱいだったのかな? クム〕

ティカナが訊く。

―〔そうだと思うけど。ティム〕

クリオが答える

―〔じゃあ、なぜ今はいないんだろう? クム〕

ティカナの疑問に、数秒遅れて、

―〔誰かにこの店の話をしたことあるかい? ティム〕

と、クリオが訊ねる。

―〔ないな。クム〕

ティカナが心で答えると、

―〔なぜ? ティム〕

さらにクリオの質問。

―〔無駄さ。どうせ興味ない。クム〕

ティカナが云うと、クリオは顔だけで小さく笑い、

―〔つまり、そういうことだと思うよ。ぼくも誰にも話さないし、誘いもしない。ティム以外はね。ティム〕

―〔そうか。そういうことか。クム〕

―〔そう。そうやってだんだん忘れられていくんだよ、この店も。南の森屋敷も。きっとね。ティム〕


―〔ジューの暴走が止まらない〕

 不意に誰かの声がティカナの頭に飛び込んで来た。

 ティカナは「アッ」と小さく叫び、クリオを見る。クリオも驚いたように両方の眉毛をぴくりとさせる。ふたりはあわてて声の主を見つけ出そうと、丸椅子を回し、店内を見回してみた。

 だけど店内は鏡の迷路で、誰が何処にいるかなんて、さっぱりわかりはしない。ティカナはそれでも、弾かれたように丸椅子から飛び降りると、鏡の迷路に向かって足を踏み出そうとした。

―〔待って! ティム〕

 クリオがティカナの肘を掴む。

―〔無理だよ。捜せっこない。それより、ね。ティム〕

 ティカナはクリオの考えを読み取ると、彼女には高すぎる椅子に、苦労してもう一度お尻をのせた。

そして、さっきのげたパン味の声に神経を集中させる。

 ティカナとクリオの会話には効果抜群のチョコレートキックも、他人の声を聞くには気まぐれすぎて、まるで頼りにならない。それでも二人はじっと、誰ともしれない心の声に耳をすませた。

―〔あー、なんてことだ! このままだと間違いなく破産だ〕

 絶望したような想いが、ティカナの頭の中に飛び込んでくる。

―〔うげ。コイツは辛子マヨネーズ味だぞ。クム〕

と、ティカナがクリオに伝える。

―〔うん。ティム〕

クリオが頷く。それから二人はあわててストローをくわえて、甘いチョコレートキックを口の中いっぱいに含んだ。

 それからトマトやナスやセロリやキューリ味、チーズバーガーや、たらこパスタ味の声を聞きながら、チョコレートキックの三分のニが二人の喉の奥に流し込まれた頃、

―〔どうしたらいい。ジューの回収なんて、いったい〕

 ようやく、さっきの焦げたパン味の思考にたどり着く。だけど、まるでチューニングの狂ったラジオみたいだ。

―〔指令だが・・・。無茶〕

―〔変身の前なら〕

―〔帰りたい。だが、まだ〕

―〔何と言ったか、あの娘〕

―〔ああ、思い出した〕

―〔そうだ、ティカナ〕

―〔シズティナ博士の娘〕

―〔父親は、たしか〕

 ティカナは息が止まりそうなほど驚いて、周囲を見回す。もちろんマスターとクリオ以外に誰も見えない。3人が鏡の迷路の中で無数に増殖して見えているだけだ。

―〔コイツ、ティを知っている! それにママも。クム〕

ティカナは両手でクリオの右腕を掴み、目を閉じた。

―〔落ち着いて。ティム〕

クリオは左手をティカナの右手に重ねた。

―〔大丈夫。コイツはぼくらを見てやしない。ただ知ってるだけだ。ティムとティムのママをね。ティム〕

―〔でも何で? クム〕

―〔わからない。とにかくもう少し、聞いてみないと。ティム〕

 だけど、それっきり焦げたパン味の思考は二人の頭に飛び込んで来なかった。グラスの底にわずかに残っていたチョコレートキックも、やがてストローに吸い込まれ、二人の喉の奥に消えてしまった。


「もう一杯どうだ。てめえら」

半漁人のマスターがぶくぶく声で訊ねた。疲れきった二人が首をふって断ると、マスターは「そーかい。残念だぜ」と言い残し、顎ひげをゆらゆらさせながら、もう一度背中を向けてグラス磨きを始めた。

 チョコレートキックはかなり神経を消耗させる。ティカナとクリオは一杯だけで、いつだってくたくたにくたびれて、しばらくは口をきく気力も無くなってしまうほどだ。

「もう、たぶんここには来れないよ」

ずいぶん長い間休んだ後、半漁人のマスターの背中を見ながら、ようやくクリオが口を開いた。

 ティカナは驚いてクリオを見る。だけどクリオは、じっとマスターの背中だけを見つめ、ティカナを見ようとはしなかった。

「『新しい街』へ行くんだ。移住審査にパスしたから」

クリオが云うと、

「帰ってこれないぜ。あそこに行くとな」

マスターは背中越しにそう云うと、磨いていたグラスを天井の明りにかざし「割れてるぜ」と小さく呟く。そして、グラスをゴミ箱に乱暴に放り投げた。

「知ってる」

クリオは両手を頭の後ろに回し、今日1日ずっと縛っていた髪をほどいた。薄いバーリッシュピンク桃色の縮れ髪が細い肩にばさりと落ちる。それからクリオが右手で頬杖をつくと、ティカナからは横顔も見えなくなった。

 ティカナはほっそりとした指でストローを摘み上げると、テーブルの上でくるくると回した。ストローの先からぽつりぽつりと落ちる水滴が、テーブルの表面に黒いしみをゆっくりと増やしていく。

 目の前のテーブルが、チョコレートキックのしみでいっぱいになると、ティカナはストローをグラスに放り込む。それからパーカーのポケットからティッシュを取りだし鼻をかむ。そして、

「甘すぎるんだよ、このチョコキック。マスター!」

ティカナはそう云うと、高い丸椅子から勢いよく飛び降りた。それからカウンターの上に100ポカスを置き、クリオの腕を乱暴に引っ張る。

 鏡の迷路で迷いながら、ようやく出口に辿り着くと、ティカナは扉を力まかせに押し開く。扉の上にぶら下げられた古いブラスベルの賑やかな音が、店内に鳴り響いた。

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