クリオの世界
三回水をかいて、一回の息つぎ。折り返しの壁に手がとどく前に水にもぐると、体をひねり、足の裏で壁をつかまえる。両手を組んで壁を蹴ると、水の中で息を吐きながら、一回二回とドルフィンキック。
ぶあつい水が、耳もとでごぼごぼと泡立つ。水の底から見える空は、夏の大きな太陽が風の中でとろけて、ゆらゆらと揺れて見える。水面を破り抜け、顔が出ると、子供たちのはしゃぎ声が、また耳に生き返る。
それから、息をついで、右ひじからもう一度。・・・残り二十メートル。そこいらじゅうの筋肉から小さな悪魔がにじみ出て、ようやく最後の五メートルを泳ぎ切ると、ティカナはそのままプールの壁をよじ登る。
プールサイドから五、六歩も歩くと、コンクリートの床はすっかり乾ききっていて、熱を底の底までため込んでいる。荒い息を吐きながら、ティカナはつま先立ちで、小走りになる。
ぽたぽたと身体から落ちる水滴が、彼女の足跡のまわりに黒っぽいしみを散らせている。やがて蒸発し、跡形もなくなる筈の、いくつもの黒いしみ。
芝生に足を踏み入れると、ティカナは足を引きずるような歩き方になる。
クリオとアンドゥの間に敷かれたバスタオルの前で、ティカナは一瞬立ち止まる。それから、ひざを折って、どっと倒れ込み、満足そうに目を閉じる。
「水泳に順番があったら、一番だね。きっと、ティカナ」
アンドゥが云う。
ティカナは返事の代わりに、手首をちょっと動かす。彼女の小刻みな身体の揺れ。若い心臓が胸の中で、どっくんどっくんと脈打っている。そのたびに、肩や腕を、脂にはじかれた水滴が流れ落ちる。
芝生のとがった葉っぱが頬を刺すのだろうか、ティカナは薄く目を開く。目の前の芝生の向こうで、彼女の右腕のうぶ毛につかまった水滴が、光をとじこめて輝いている。
「見て! あいたよ。寝そべり椅子」
アンドゥが大声で云う。
「とってきてあげるよ。クリオ」
アンドゥは立ち上がり、走り出す。
「あちちち、ち」
プールの向こう側に着くと、アンドゥはコンクリート床を飛び跳ねながら、白い木製の寝台椅子を引きずり始める。
「あいつ、似非人のくせに・・・・」
ティカナが上半身を起こして呟く。もうすっかり息も落ち着いている。
「熱いんだよ、ホントに」
クリオが微笑みながら云う。ティカナは、眩しそうに目を細めているクリオを見る。
誰も気がついていないのかも知れない。
いつもはふんわりと肩に落としたままの、薄い紫桃色の縮れ髪を、今はクリオは頭の後ろで縛っている。こうすると、彼の顔は短髪のティカナにとてもよく似てくる。顔だけではない。発声のしかたや強調部は違うけれど、注意深く聞くと、声だってそっくりだ。
アンドゥがぎしぎしと、ようやく引っぱってきた寝台椅子に腰かけると、クリオは日避けをひろげ、足にはバスタオルをかける。
「陽に焼けると、すぐ赤くなる」
クリオが恥ずかしそうに云う。
「ティカナなんか、すぐ黒くなるんだよ。まるでダロンにくべる炭みたいに」
アンドゥがにこにこして云う。
「ダロンじゃなくて、暖炉! それより、あんたも泳いだ方が良くないか? 脳みそが沸騰して、もっと馬鹿になっちまうぞ」
「意地悪だな。ほよげないの知ってるくせに。―ティカナが赤くなるのは、怒った時だけだね」
それから、アンドゥは両手で自分の頭をそっと触りながら、
「本当だ! ほっとうしちゃいそうだ」
そう叫ぶと、はじかれたように立ち上がる。それから駆け出すと、底の浅い子供用のプールに飛び込む。
「陽焼けの黒い肌にまぎれると、少しは目立たないと思ったんだけど」
アンドゥの灰色の身体を見ながら、ティカナが困ったような笑顔をつくる。小さな子供たちがアンドゥを遠巻きにして、騒いでいる。
「どうやったらもとにもどるんだろうね?」
クリオが云う。
「どうやったって、もとになんかもどりっこないさ」
ティカナが答える
「なんで?」
「この二年間何の変化もないんだ。これからだって同じだよ」
ティカナはそう云うと、またバスタオルの上に体を倒す。
「でも、ほかはどこも悪くなってないんだね」
「あのコの前でだけはヘタなことをしないように、さんざん気を使ってきたからね」
プールの水しぶきを獲物と間違えているに違いない。一羽のつばめが水面近くを飛ぶが、やがて諦めたように、眩しい空に消えていく。アンドゥが喚声をあげながらプールの中の滑り台から水の中に飛び込む。子供たちはその度に楽し気に逃げ惑い、アンドゥの周囲にドーナツを作る。
「あいつ、本当に楽しいのかな?」
ティカナが、顔だけ起こして云う。
「楽しそうだもの。楽しいんだよ。きっと」
クリオが云う。
「でも、似非人だぞ。楽しいなんて」
ティカナが、寝台椅子のクリオを見上る。
「いったい、どう楽しい?」
「そうだねぇ・・・」
クリオは考え込み、
「たとえば、ぼくなんかそのへんの花や、草を見ても、楽しそうだなって感じることがあるよ」
と、変なことを云い始める。
風が動く。二人の肩から熱を少しだけ拭い取る。
「ときどき思うんだ。ぼくのまわりの全部が、ぼくの思った通りに思っているのじゃないかなって、ね。草や木も、机や椅子も、机の上の花瓶やクロスも、それにコップもスプーンも、それから・・・・」
「朝食の時こぼしたミルクも、お母さんがぶつぶついいながら持ってきた台拭きも、おかげでシミになったテーブルクロスが放りこまれる洗濯機も、故障ばかりしていて、ときどき、蹴っ飛ばされる乾燥機も」
ティカナがまぜかえす。クリオが目を伏せる。
すぐに、ティカナが続ける。
「つまりクムが楽しそうだと思えば、アンドゥは楽しいということだ」
「そう見えるものは、きっとそうなんだって思えば、それでいいってこと」
小さな声で、クリオが云う。
「それに、ぼくの周囲のいろんなものが、ぼくがいないと、そこにはなくって、ぼくがいると、そこにあるんじゃないかって、そんな気がすることもあるよ」
「それって、何にも思わなかったら、何にもないってこと?」
ティカナは芝の葉っぱをひとつ摘んで、引っぱる。細い葉っぱが耐え切れずにちぎれる。
クリオはそれを見ながら、
「何にも思わないってことができたら、そうかも。・・・たとえば、ぼくがどこかの扉を、突然開けるとするでしょう? もし、何にも思わずに、つまり、開けようとも思わずに開けたとしたら、そこには何もないか、あっても、何かわけのわからないものがあるんじゃないかな。つまり、間にあわなくて。その、扉が開くとは思ってなかったものだから」
「いったい誰が思ってなかったって?」
「ぼくに世界をこういうふうに見せてくれている、と云うか、思わせている誰か」
「ははん。夢の中だ」
ティカナがそう云うと、クリオがにっこりする。
「そうだね。夢の世界では、思ったり感じたりしたことが、みんな本当のことだもの。ここがぼくの夢の中の世界じゃないなんて、誰にも証明できない」
「よし。わかった!」
ティカナの芝居じみた声。
「何とかそれを証明しよう。方法は後でゆっくり考えることにして。だって、そうなったら、ティは全部の悩みごとから、とうとう解放されるんだ。眠かったら起きる必要はないし、したいことをして、したくないことはしなくて。素直とか我慢とか熱心とか真面目とか明るくとか女の子らしくとか個性的にとか、そんなことでぜんぜん悩む必要がなくなるんだ。なにしろクリオの夢の中だったら、ティには何の責任もないんだ。アンドゥのことだって、金輪際気にしない」
「でも、もし反対だったら?」
クリオがティカナの勢いに水をさす。
「反対に、ぼくやアンドゥがティムの夢の中にいるんだとしたら、どうするの? ティムは夢の中でこんなに悩んでいて、やっと目が覚めたと思ったら、もっと別の、もっと困った悩みが待っているかもしれない」
ティカナは、陽射しで目の下のあたりがすっかり赤くなったクリオの顔を見つめる。
「まあ、そのときは、」
ティカナが云う。
「夢が覚めてから、じっくり考えるさ」
不意にティカナは立ち上がり、クリオの前を横切る。
ティカナの影が、クリオの顔を一度なめてから通り過ぎる。それから、まっ黒な影はティカナの足もとを、彼女の細い背中と一緒に遠ざかっていく。クリオの目の下の薄い筋肉が収縮する。ティカナの日に焼けた肩を見ながら、彼は眩しそうな顔になる。プールサイドにそって、ティカナはスタート台の方に歩いていく。
クリオは目を閉じる。それから、小さく三つ数える。そして、思い切ったように目を開く。
その時、ティカナの姿はない。
クリオの唇が小さく震える。
クリオは体を起こす。それから、不安気にプールをぐるりと見まわす。何処にもティカナはいない。遠くの森の木が風にゆっくりと揺れている。
クリオは、芝生の上を見る。バスタオルの上に一匹の蝶がとまって、白い羽根を閉じたり開いたりしている。
寝台椅子から両足を芝生に下ろしながら、クリオはバスタオルを拾い上げ、それから、立ち上がり、プールに向かって歩き始める。
体がどんどん沈んでいく。ティカナは水の中で、かたく目を閉じている。ほんの少し前、ビーチボールで遊んでいた男の子が、彼女にぶつかった。ティカナは、突き飛ばされてプールに落ち、コースラインのブイに耳の横を打ちつけた。一瞬口が開いて、咽喉の奥に少し水が入り、咳き込むと、また少し水を呑んだ。
水面の揺らめきがちらりと見える。ティカナは目を閉じる。まだ沈んでいる。浮き上がるまでには、もう少し時間がかかるだろう。思いっきり口を開けて息を吸い込みたいに違いないのだが、今は彼女はじっと我慢しなければならない。
黒い影が背中からティカナの沈む体を抱き止める。彼女は驚いて振り向こうとするが、今度は顎を手でつかまれ、身動きができなくなる。
ティカナの身体は、ぐんぐん水面に引っぱられていく。彼女の顔が一段と歪んだように見えると、ようやく顔が水面に出た。
ティカナは水面で、空気を吸っては咳き込み、吸っては咳き込むのをくり返す。プールの壁際にたどり着くと、ようやく彼女を拘束っていた手が離れ、顎が自由になる。ティカナは腕を伸ばし、パイプをつかみ、よじ登る。
プールサイドで四ツン這いのまま、ティカナの咳は続く。彼女の目の前のコンクリートに、髪や鼻の頭から、次々と水滴がしたたり落ちる。彼女は咽喉を押さえ、苦しげに呻く。
「大丈夫? ティム」
クリオが、ティカナの背中に手をそえる。
「ちょっと、水を飲んだだけさ」
ティカナは、クリオの肩に手をかけ、咳き込みながら立ち上がる。それから顔を上げ、涙目でクリオを見ると、クリオが吹き出す。
「ごめんよ。だって、突然消えるんだもの」
それだけ云うと、クリオはまた笑い出す。ティカナの咳が止まっても、クリオの笑いは当分の間、やみそうもない。
ティカナは諦めたように、背後の人影の方を振り向く。
「まさか」
ティカナが小さく叫ぶ。
「へへ。ちょっとは感謝する?」
灰色の髪をぐっしょり濡らして、アンドゥが笑う。
「泳げないんじゃなかった?」
あきれたように、ティカナが云うと、
「まあ、ときどき、ほよげるみたいだねぇ、ぼくって・・・・」
アンドゥが、無邪気な感じでまた笑う。
芝生でしばらく休んだ後、三人は消毒液の中をじゃぶじゃぶと通り抜け、更衣室の横のシャワー室でシャワーを浴びる。それから、水着の上から白いパーカーをはおると、ティカナとクリオは、上から下までまったく同じ格好に仕上がる。見分けがつかないくらいに。
三人は階段を下り、駐輪場から自転車を引っぱり出す。
「もう帰っていいよ」
ティカナがアンドゥに宣告する。
「一緒に連れていってあげないの?」
クリオが云う。
「壊れて良いならね」
クリオとアンドゥを交互に見ながら、ティカナが云う。
「アンドゥはおっちょこちょいだからね。あんな場所に連れてったら、ちょっとしたことで、ティがいたずらしてるって思うに決まってる。そうなったら、もう手後れだ。すぐに、またどこか壊れちゃうよ」
その時、アンドゥはもう彼の灰色の自転車にまたがっている。
「ティカナ。あんまり、危ないことしないでね」
云い残すと、アンドゥは自転車をこぎ始める。
クリオはしばらく、アンドゥの背中を見送る。
「似非人。どうしたって、似非人は似非人」
ティカナはそう云うと、自転車にまたがり、
「乗りなよ」
と、クリオを促す。
あわてて後ろの座席に腰かけると、クリオはティカナのおなかの前で手を組む。
駐輪場のスロープを上り、外にでると、たちまち強い陽射しが降り注ぐ。二人の自転車は、そのまま、まっすぐ前の道路を横切り、陸上競技場のゲートに飛び込む。眩い光をあきれるほど溜め込んだ暑いトラックを猛スピードで半周して、反対側の出口を抜けると、ティカナはムンツァー通りを勢いよく左に折れる。
クリオが小さな悲鳴を上げると、ティカナはますます両足に力を込めた。
ムンツァー通りは、ティカナの街の中心を、西の森から東の海に向けてまっすぐに横切る大通りだ。突き当たりの港の、もっと向こうの海の上には、火山の島、―といっても、噴火は、当分の間、お休みのようだったけれど、―熟睡島が浮かんでいる。
「スピード落として!」
クリオが叫ぶ。
「それじゃ、坂道を登れない」
ティカナが愉快そうに応える。もうすぐ、長い坂道が待ち受けている。
トンブゥ坂のまん中くらいで、ティカナはそれでも立ちこぎになってしまう。ヤブブ医院の白いペンキの壁の前をよろよろと通り過ぎ、二人はどうにか坂のてっぺんにたどり着く。
「わぁー!」
坂のてっぺんで、クリオが小さな喚声を上げる。ティカナの肩越しに、遠く広がる海と、エバダの街並みが、いきなり目の前に開けるからだ。
北と南には、エブバデを抱え込むように森の高い壁がそびえ立ち、その先は緑の樹海が果てしなく続いている。街の東に広がる眼下のマジョン海では、たくさんの小さな白い波と、光がきらきらと輝き、水平線の手前にはとがった岩肌の頂上を持つ熟睡島が、泳いで行けそうなくらいに近くに見えている。
二人の自転車はまるでジェットコースターのように、マジョン海に向かって滑り降りて行く。ティカナのおでこの汗が風に吹き飛ばされて消える頃、二人は交差点を右に折れる。あとは南の森に向かってまっすぐに走るだけだ。
やがて、二人はエバダの南の端っこ。深い森の入口に到着する。この森をほんの少し分け入ったところにある、古ぼけた『南の森屋敷』の中に、半魚人の店はあった。